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「大丈夫?」
気絶した冴渡遼を予め用意していたロープで拘束し終えた楓が、心配げな表情を浮かべ訊ねてきた。僕は若干の無理をして笑みを作り、頷く。
「まあ、なんとか。それより、縛るの手伝えなくてごめんね」
「ついさっきまで殺されかけた人間がなに言っているのよ」
そう言って楓は、地面に直に座る僕のすぐ横に腰を下ろした。「ふぅ」と大きく息をついてから、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。私の見通しが甘かったせいで、大空を危険な目に遭わせてしまった」
「そんなこと。僕のほうこそ、ごめん。楓のことをちゃんと守れなかった。せっかくの戦闘要員だったのに」
「最初から大空にそんな役割期待してないわ」
ふと、手に温もりを感じた。見れば楓の手が、僕の手に重ねられているではないか! 鼓動が早まり、体温が一気に上昇したような感覚に陥る。理性を総動員して、赤面するのを防ぐ。
「……怖かった」
楓がぽつりと呟いた。重ねられた手から、まだ彼女の震えが伝わる。当然だ、楓は普通の女の子なのだから。
「大空がいてくれて本当によかった。もしも私一人だったら、今頃どうなっていたか。想像することすら、恐ろしく思う」
「大丈夫だよ。だって僕はここにいるから。いまだけじゃなくて、これから先もずっと楓のそばにいる」
「……ありがとう」
楓と僕の目線が、至近距離で交錯する。さすがに照れ臭さを隠すのも限界に達し、ついつい僕は目を反らしてしまった。それから、気恥ずかしさを誤魔化すように言う。
「そ、そういえば楓に、一つ訊きたいことがあるんだ」
「なにかしら」
「さっき冴渡に言っていた、『昨日起こったある出来事』ってのは、やっぱり僕が話しかけたことだよね? そのことがきっかけで、田中くんが同性愛者なんじゃないか、という仮定を思いついた。あれってどういう意味なのかな?」
「ああ、それ。正直それまでの私は、そういう性癖の人がいる、という知識はあっても、実際に自分の身の周りに実在するとは思ってなかったのよ。想像していなかった、と言うべきかしら」
楓が小さく、苦笑するように口元を歪めた。そうしてから、僕の目を見て言う。
「だからあの時――大空のような可愛い女の子から告白されて初めて、そういう可能性に気が付けたのよ。大空が同性である私に想いを寄せるなら、田中くんが想いを寄せる人が女性だとは限らないんじゃないか、って」
「……可愛い? 僕が? いやいや、そんなことないでしょ」
「可愛いわよ」
楓の手が、僕の髪に触れた。ゆっくりと、優しい手つきで頭を撫でてくれる。
「顔は小さくて、くりっとした瞳もとてもチャーミングよ。栗色のツーサイドアップも、元気な大空によく似合っているわ。きっと男子からすれば、私なんかよりあなたのほうがずっと魅力的に映ると思う。……まあ、その『僕』っていう一人称は変わっていると思うけれど」
「そうかなぁ。可愛くない? 『僕』って呼び方。ほらバクみたいでしょ」
「そもそも私は、バクを可愛いと思ったことがないから」
その時どこからか、パトカーの甲高いサイレンが聞こえてきた。警察への通報はすでにしたので、そろそろ到着する頃かもしれない。
楓の手の感触は惜しく、まさしく断腸の思いだったのだけれど、僕は腰を上げた。地面に接していたデニムスカートのお尻をはたき、それから楓へと手を差し伸べた。
「ありがとう、大空」
僕の手を掴み、楓が立ち上がる。楓の頭が僕の顔に近付き、そして追い越す。十センチほどの身長差から、僕は見上げる形で彼女と目を合わせた。
「あ!」
「どうしたの突然?」
不意に声を上げた僕に、楓が目を丸めた。
「いやさ、これから警察が来るでしょ? そうしたら絶対に名前を訊かれるよね。フルネームで。苗字言いたくないなぁ。絶対『え、骨川? え、スネ夫?』的な反応が返ってくるもん」
「しないわよそんな反応。相手も仕事なんだから」
楓はそう言うが、とても僕はそんな楽観的な考えは出来なかった。それほどまでに、幼少時のあだ名で悩んだ傷は根深い。だからこそ、本当に『剛田』でなくて良かった、とも思う。もしも僕の苗字が『剛田』だったなら、間違いなくあだ名は『ジャイ子』であったろう。
石階段の下に、何台ものパトカーが停まった。そこから次々と制服警官が飛び出し、階段を上ってくる。
「ねえ楓」
「なに?」
「僕はきみのことが大好きだ。……でも、もしも迷惑なら言ってほしい。きみを困らせることだけは、したくない」
冴渡遼のような人間にだけはなりたくない。それは僕の心からの想いだった。だけど僕の楓に対する感情はあまりに強く、それはいつの日か、僕自身にもコントロールし切れない怪物になってしまうかもしれない。そうなればきっとその怪物は、楓を苦しめるだろう。
それだけは避けなくてはならない。絶対に。
「……ごめんなさい。正直、私にもよく分からないの。いま私は、大空に対してマイナスの感情は抱いていない。好き、と言ってもいいと思う。でもこの『好き』が、友達としてのものなのか、大空が私に対して抱いているものと同種のものなのか、分からない。自分でも謎なの」
ぎゅっ、と。僕の手を掴んでいたままの楓の手に、より力が込められた。彼女の体温が伝わってくる。
「だから待ってて」
「え?」
「いつか分からないけれど、きっとこの謎も解けると思うの。私一人じゃダメでも、大空が一緒にいてくれたら、きっと解ける。間違いないわ。だからその時まで――」
「待つよ。楓のそばで、僕はずっと待ってる」
繋がれた手を、僕もぎゅっと握り返した。楓の瞳を見つめると、その中に僕の姿が見えた。ああ、なるほど確かにそこにいる僕は、自分でも言うのもなんだけれど、可愛いかもしれない。
大好きな人にこんなことを言われた女が、可愛くないはずがない。
警官が階段を上りきるまで、僕たちはずっと手を繋いでいた。
終わり