1-②
九日前――四月十一日、土曜日。その日は夕方から雨が降り出し、午後九時を回った頃には雨音が室内にも響くようになっていた。うるさいほどの雨音を聴きながら僕は、ふと楓のことを想った。理由などないし、特に必要だとも思わなかった。
だから僕は両親に気取られぬよう、ひっそりと家を抜け出し、彼女のもとへと向かった。午後十一時を過ぎた頃だろうか。
楓の住所は転校初日、つまり彼女と初めて出会ったその日にストーキング、もとい尾行、もとい下校していくのを見守ったため、すでに把握していた。
閑静な住宅街にある、ほんの少し立派な一軒家。それを僕は、通りの角からじっと見つめる。それだけで幸せな気分に浸れた。頭上に差した傘を叩く雨音など、意識から消失していた。
だから最初、その一軒家から出てくる楓の姿を見たときは、それが現実か幻か判断がつかなかった。
赤い傘を差した楓は、まるで僕がつい数十分前にそうしたように、慎重な手つきで玄関から姿を現すと、薄暗い住宅街を一人で歩き始めた。もちろん言うまでもなく、僕はそれを追った。
彼女に尾行がバレないよう、一定の距離を空け、僕は歩いた。大雨の降り注ぐ夜半。他の歩行者とすれ違うこともなく、僕たちは歩き続けた。
雨音だけが響く世界での、二人だけの夜の散歩。楓には一切そんな意思はなかったに違いないが、それでも僕にはまるでデートのようだと思え、楽しくすらあった。
そうして歩き続けること十数分、二人は一棟のアパートへとたどり着いた。単身世帯、それも学生向けとみられる、古めかしいアパートである。
その一室、一階の角部屋の前に楓は立った。何度かインターホンを鳴らす。が、応答がないのか、そのまま一分ほどが経過した。
やがて楓は徐にドアノブに手を伸ばし、そして回した。施錠されてなかったのか、あっさりとドアは開き、彼女の姿を飲み込み、また閉じた。
それから十分ほど待ってみたが、彼女は戻ってこなかった。もういっそ踏み込んでやろうかと思い始めた頃、僕の携帯電話に着信が入った。父からだ。雨音を打ち消すほどの怒号が、スピーカー越しに鼓膜を叩いた。
「こんな時間にどこをほっつき歩いている。いますぐ戻ってこい。戻らないと、いいか、母さんが泣くぞ」と父は叫んだ。僕はすぐに踵を返し、自宅へと戻った。母を泣かしたら殺す。何事にも寛容な父が、唯一僕に課した家訓。それを破るわけにはいかなかった。
けれど、アパートから離れる間際、嫌な想像がよぎった。もしや彼女は、ここでどこの馬の骨とも分からぬ、年頃の少女との性交だけを目的に生きている男と密会しているのでは?
馬鹿な。楓はそんな思慮浅く、そして性に開放的な女性ではない。まだ話したことすらないが、僕には分かる。あれほど美しい人の心が、美しくないわけがない。
その限りなく願望に近い確信は、半分当たっており、半分間違っていた。それを僕は翌朝のニュースで知った。
あの時あの場所で楓は、確かに男と会っていた。それも僕たちと同じ、相見高校二年一組の生徒、田中和人と。
しかしその田中和人は、少女との性交だけを目的に生きている男、ではなかった。そもそも生きていなかったのだ。
そこにいたのは、何者かに撲殺された、田中和人の死体だった。
「なるほど」
僕の説明を聞き終えた楓が、ぽつりと呟いた。
ニュースによれば、犯人は未だ捕まっておらず、容疑者の性別さえ明らかになっていない。当然、黒棘楓という少女の存在については一切触れられていない。よって彼女には、僕が妄言を嘯いている訳ではないことが、分かるはずだ。
「ええ、そういうこと」
「分かってくれたみたいで、嬉しいな」
「つまり大空は、私のストーカーということね」
楓の指摘に、僕は「え」と一瞬詰まった。ストーカー? 僕が? 楓の?
「いやいや、違うよ。僕は楓のストーカーなんかじゃない。僕がしていることなんて、楓の後をちょっとつけてみたり、それくらいだよ? そんなストーカーだなんて」
「それを世間ではストーカーと定義するのよ」
楓は断固として譲らなかった。どうやら僕たちの間には価値観の相違があるらしい。
「まあ、いいわ。それに関しては一旦置いておきましょう。それで大空は、私になにを求めているのかしら?」
「求める?」
「いまの報告をして、それじゃあサヨナラ、なんてつもりはないんでしょう。おそらく大空は、その私の目撃情報を、まだ誰にも明かしていない。警察にもね。違ったかしら」
まさしくその通り。僕はいまの話を警察はもちろん両親にすら明かしていなかった。
「その口止め料を払え、と。つまりそういう話でしょう?」
「え」
それまで楓の敏さに感心していたところに、ポカンと孔が穿たれる。
彼女の憶測が、全くの見当違いだったためだ。
「口止め料って、なんの話? そんなもの要らないし、僕はいまの話を、楓以外の誰にも明かすつもりはないよ」
「……それなら、あなたの目的はなんだというの? 今日、私に話しかけてきた理由は? さっきの確認の意味は?」
矢継ぎ早に飛び出す問い掛けは、きっと楓なりの動揺の表れなんだろう。自分の憶測が外れたことで、僕に対する警戒心が強まっている。
だから僕は、彼女を安心させるため、ゆっくりと言った。
「あの日あの時間、楓は僕と一緒にいた」
「なにを言っているの?」
「田中くんが殺された時間帯、楓は僕と一緒にいた。あんなぼろアパートになんて、近寄りもせず、二人で楽しくおしゃべりしていた。そういうことにしよう」
「アリバイ工作をしよう、と言っているの?」
楓の瞳が、信じられないものを見るかのように、開く。僕は力強く頷いた。
「どうして? そんなリスクを冒してまで、私を助けようとする意味は? あなたにどんなメリットがあるというの」
「だって僕は楓のことが大好きだから」
言った。言ってしまった。出会って二週間、言葉を交わしたのは今日が初めてだが、これは僕の本心だった。
僕は黒棘楓のことが好きだ。理由は至極明快、その美しさだ。容姿だけの話でなく、凛とした存在感、堂々とした立ち振る舞い。彼女の全てが輝いて見える。
僕の唐突にして真正面からの告白に楓は、一瞬目を丸めたかと思えば、右手をあごに添え、聞き取れないほど小さな声で何事か呟いた。
その表情は、驚きに満ちたもの、というよりはなにかを思案しているように見えた。
「……ねえ、大空。一つ訊いてもいいかしら」
「どうぞ」
「あなたのその気持ち――私のことが好きというそれは、友達として好き、という意味?」
なんたる愚問だろうか! 僕は、捲し立てるように言った。
「違う。そんなわけがない。僕のこの気持ちはlikeじゃなくてlove、いやそれ以上だ。既存の言葉なんかじゃ言い表せない。楓は僕にとって唯一の存在であり、そして全てだ。きみのいない世界なんて、このさくらの花びら一枚分の価値もない」
「――ぷっ。あは、あはははっ!」
突然笑い声を上げだした楓に、僕は困惑する。たしかに自分でも、臭い台詞だったとは思う。それは自覚している。それでも、ここまで笑われる筋合いはないのではないか。
「さすがに、その反応は酷いと思う」
「ふふっ。ええ、そうね。ごめんなさい。でもまさか、あなたからそんな感情を向けられることがあるだなんて、思ってもみなかったから」
目尻に溜まった涙を拭うと、楓は再度歩き始めた。数歩進んだところで、首から上だけを振り返り、言う。
「ほら、行きましょう。あの事件の夜、なにがあったのか。歩きながらでよければ、教えてあげるわ」
え、僕の告白に対する反応はいまので終わり? そんな不満が一瞬湧いたが、すぐに掻き消し、僕は楓に歩み寄った。彼女と一緒に、並び歩ける。その喜びを前にすれば、どんな不満も問題にならない。