真紅の海
そこは自然現象の影響で、本来の海ならぬ色をしていた。
太陽や月が昇ると、その海は鮮やかな緋色に煌めく。それはまるでルビーが溶け込んだ宝石のように。そしてまた、毒々しい真っ赤な血液が混じり合う葡萄酒のように……。
この界隈に住む者にとって、この海は神秘と幻想が織り成す守護と救世を約束されし神聖なる海水で、身を清めるべく洗礼を行われるそれこそ命の源とも言える、母なる場であった。
しかしまた等しく相反する、曰くあるその海。
それは憎悪と呪詛が立ち込める地獄であると共に、死を招く終焉と暗黒へと導く畏れ多い液体であり、よってここでは屍が洗われ骨の沈む血肉が溶解された海水であった。
ここは訪れる者の理由次第で、天国にも地獄にも成り得る海域。
人々はそこを真紅の海と呼び、またその海から汲み上げられ土産用に小瓶に詰められて売られている商品名は地球の血液、もしくはこうも呼ばれた。
――――人魚の心臓と…。
そう。そこには人魚が住んでいた。
いや、存在していると言うべきか。唯一この場所にだけに生きる珍種。
上半身が人の姿で下半身が魚という、まさにあの人魚だ。しかし物語でロマンチックに語られる、美貌なる神秘溢れる幻想的な容姿では決して無い。
その背中には鋭い棘を持つ大きく広がった背びれがあり、肩甲骨にも同じく長い大きな棘とひれが付いている。広げるとまさに蝙蝠の羽のようだが、空を飛べるという訳ではない。それで水中で羽ばたかせて泳ぎの速さ等をコントロールする、あくまで魚のひれに過ぎない。
そして尾びれはイルカやクジラのように横向きになっているが、構造はやはり魚類が持つそれと同じ作りだ。耳にも大きなひれが付いている。知能は高いが、人間の様に言葉と言うものは喋らない。どちらかと言えば海の哺乳類と似た鳴き声を出し、特殊音波を放出して距離や遠く離れている物質を探知する能力を持っている。
血のように真っ赤な下半身の魚体と、少し濃いめのスキンピンクの肌色をしている上半身の人体。歯は小さいが鋭く尖った歯が並んでいて、奥歯は擂り歯になっていた。雑食なので魚介類から肉、海草まで何でも食べる。習性はそれこそシャチに似ているが、人間には決して懐くことはなく、海の哺乳類や鳥類などを遊び相手にしている。
人々はその海で洗礼を行うと生涯神の子として、死後必ず天国に行けると信じていた。
悪魔憑きの者に聖水としてこの海水を使用すれば浄化されたし、魔なる物に襲われた時もその海水を撒けば相手は逃げて行った。怪我した時や病気になった時も、この水を傷口に浸したり飲用すれば回復出来た。
だが一方で、健康な者が飲用すると不思議とそれは毒へと変化し死に至らしめる。
そのせいで時にそれを悪用して、食事に一滴混ぜて相手に与える事で暗殺にも利用された。
夜にその海で水浴びすれば命を持っていかれた。そうして死んだ人間の肉を、人魚は喰らう。血を飲んで、咽喉の渇きを癒す。サメやシャチと共に海中で人の死肉を奪い合う。人間にとっては恐ろしい光景だが、自然界ではごくごく当たり前の食物連鎖の一部でしかない。
また亡くなった者の骸をその海に沈める習慣があった。それがここの葬儀の習わしだった。そのまま静かに沈んで行けばその者は天国に、逆に海の肉食種に持っていかれたら地獄に落とされると信じられていた。無論ただの迷信でしかないのだが、当時の人々は宗教の一環として信じていたのだ。
だが一方で、人間は人魚を利用した。
人魚を捕らえてはその目玉をくり抜き、お守りになるとして商品化するのだ。
血肉は猛毒があるので食用には向かない。だから捕らえて眼球を抉り取っては、その死体を海に捨てる。すると人魚の肉体はたちまち海中に溶けてゆき、その部分の海の赤色をより一層濃くした。そして暫くすると、プカリと肉塊が浮かび上がってくる。それは人魚の心臓だ。しかしその心臓は海中からすくい上げて空気に触れさせると、たちまち溶けて液体となってしまう。
だがその水面に漂う人魚の心臓を生き物が喰らうと、その生き物は人魚と化するのだ。それを人々は知っていた。だからそうなる事を恐れた。
ある日のこと。
言われなき無実の罪で、一人の少女が村人に追われていた。
「あいつは魔女だ! 私の夫を誘惑した!」
「うちの息子も誘惑した!」
「夜中海辺にいるのを見たぞ!」
「違う! あたしは魔女じゃない! 何もしてない! 誰か、誰か助けて!!」
少女は必死に森の中へと逃げ込んだ。
少女は村長の娘だった。十七歳の年頃の娘で美しく、どんな男も彼女を欲した。だが父親の村長は交際に厳しく、そこらの村人を寄せ付けなかった。
そんなある日、村長の権力を狙った中年の夫婦から村長一家は毒殺され、偶然出掛けていた娘だけは助かった。
その夫婦は日頃から村長一家の信頼が厚かったので、いつもの様に食事に招かれたその席で村長一家の食事にこっそり海水を含ませて殺害したのだ。そして偽の遺書を作るため、<万が一の時は村長の座をこの夫婦に譲る>と書いている最中を娘に見つかり、邪魔な娘を消す為に魔女に仕立て上げたのである。
「あの娘は自由な恋愛を許さない、自分の家族の不満を日頃から我々夫婦に漏らしていた! 村長はそんな娘の殺意に気付いていて、遺言書を書き残していたんだ!」
夫婦の旦那が声を荒げて、村人達の心を煽り立てる。
「恐ろしい! 早く海水でその悪なる魂を浄化させて殺さねばあの魔女は、更なる災いをこの村にもたらすに違いない!!」
夫婦の妻も共に声を荒げて、尤もらしく恐怖に慄く演技を振舞う。
様々な武器を持って追ってくる何人もの村人から娘は必死に逃げていたが、もう裸足のままである足はボロボロだった。ついには少女は倒れてしまい、村人達に取り囲まれてしまった。
「死ね! 死ね! 死ね! 呪われし悪なる魔女よ! 神に許しを与えられし我らの手で、神に代わって地獄に葬り去ってくれる! 魔女よ! この世から立ち去り給えー!!」
「あああぁぁ……!!」
夫婦の旦那が棍棒を振り上げた。娘は頭を両手で覆いながら、地に顔を伏せ固く目を瞑る。
直後、その男の悲鳴が上がった。それに驚いた娘は、恐る恐る顔を上げる。すると一匹の狼が、その男の肩に喰らいついていた。取り囲んでいた村人達がどよめく。ふと周りを見ると何頭もの狼から取り囲まれていた。村人達は恐れた。
「この魔女が呼び寄せたに違いない!! みんな逃げろ!!」
村人達は一斉に逃げ出した。肩を噛み砕かれた旦那も、肩を抑えて名残惜しそうに娘の方を睨みながら逃げて行った。
少女も次は自分が餌食にされると、恐ろしさの余りに声も出ずガクガクと震えていた。
しかし、その男の肩を噛み砕いた狼は少女にそっと近付くと、ぺロリと顔を舐めたのだ。少女は驚いてその狼を見る。その狼は額から鼻筋を通って右頬にかけて、古い傷跡があった。
「ああ……。あなたは、ジェイド……ジェイドね!?」
懐かしき昔の名を呼ばれたその狼は、嬉しそうに少女に甘える。
「ヤダくすぐったいよ! 有り難う、助けてくれたのね! あなたは私の命の恩人よジェイド……!!」
その様子を見て、他の狼達はその場を静かに立ち去って行った。
それからというもの、少女はジェイドと一緒に森に身を潜めて生き続けた。
ジェイドとの出会いは、少女が二年前にまだ生後二ヶ月ぐらいの仔狼でたった一匹逸れて雨の中弱っていたのを、拾って助けたのが切っ掛けだった。
拾った時は既に顔面へ大きな深傷があり、少女は一生懸命仔狼の看病に励んだ。おかげで仔狼は元気を取り戻し、森に帰す頃には立派な成狼に育っていた。
ジェイドとその間名付けられ呼ばれていたその狼は、何度も何度も少女へと振り返りながら森の中へと帰って行った。それからずっと、ジェイドは少女を遠くから見守ってきたのだ。
種類こそ違えど、ジェイドは少女が大好きだった。その想いは異性としての愛そのものだった。
やがて少女も、いつも一緒にいてくれて守ってくれるジェイドに特別の感情を持つようになっていた。だがまだそれが愛に等しき感情とは、その時の少女には思いもしなかった。まさか人間と獣が愛し合う関係になる設定など、当然だが予想にもしていなかったのだから。
いつも森にこもっていた少女は、たまには森の外に出たいと、夜中村人の目を盗んで緋色の海へジェイドを引き連れてやって来た。月明かりの中、不気味に真紅の海は砂浜に波が寄せては返し、海面は緋色にキラキラと輝いていた。その水面に、ポッカリ浮かんだ満月が映っている。
その時ふと鼻につく生臭さに気付き、その元へと辿って行くと、そこには両目玉をくり抜かれた人魚の死体が砂浜に転がっていた。少女は呆然とした。その人魚の生臭い死体を見た瞬間、今までまるで思いもしなかった考えが脳裏をよぎったからだ。
もう人間が嫌だった。もう人間でいる事が。人間の醜い感情が絶望的に感じられていた。
かと言って死ぬ勇気もなく、人として今までずっと森を彷徨っていた。同じ人間から迫害された為に…。
何の為に私は生きているのだろう。どうして同じ人間から忌み嫌われる存在でありながら、私もまたその同じ人間としているのだろう。一体私は何なのだろう。一体私は、私は……。
するとジェイドがそっと彼女の頬を舐めた。無意識の内に涙が溢れていた。ジェイドはジッと少女の瞳を見詰める。少女は耐え切れずに彼の首元に抱きついていた。しがみ付くように。すがり付くように。そうして何度も何度も声を出して、彼女は泣き続けた。
そんな少女の悲しみを暫く受け止め続けてから、ジェイドは彼女の腕からそっとすり抜けると、彼女の口唇をぺロリと軽く舌先で舐めた。涙目でジェイドを見詰める少女に、今度はそっとジェイドは狼のその口先をくっ付けて娘の口唇に重ねた。
そしてゆっくり離れると、パッと顔をそむけて人魚の死体の尾元を咥えるとズル、ズルリと砂浜の上を引きずって、波打ち際へと運んだ。それからまたふと、少女の瞳を見詰めた。少女は、この獣が何を伝えようとしているのかまるで手に取るように、心に流れ込んできた。
“共に生きよう。別の世界で。互いに一つの種族へと生まれ変わって……永遠に……オフェーリア”
オフェーリア。それが少女の名前だった。
彼女は狼の訴え掛ける瞳に応えるように、コクリと肯いて微笑んだ。
「ええ……そうねジェイド……。一緒になりましょう私達。種族が違うという理由で愛し合えないのなら、種族を超えてしまえばいい。私にはジェイド、あなたしかもういない。あなたはいつも私の傍にいて支えてくれた。嬉しかった……。幸せだった……。これからはもっともっと――共に幸せに生きるのよ。人魚として――」
その言葉を聞き終えると共に、ジェイドは満月に向かって低く長く、遠吠えをした。その遠吠えは真紅の海のさざ波の音を掻き消して、空気を震わせ月夜に空に美しく響き渡った。その遠吠えに応えるように、森の中から幾つもの遠吠えが響き渡る。
やがてジェイドは意を決したように人魚の尾を咥えると、緋色に光り輝く海へと放り投げた。
バシャーンという派手な音と共に、シュウゥゥゥーーという頭の奥まで響き渡るような音を立てて、人魚の死体は一気に周辺を更に濃い朱色に染め上げながら、溶け始めた。そして僅か数分後には、すっかり肉も骨も跡形もなく消え去り、そこにプカリと人魚の心臓の肉塊が浮かび上がってきた。
少女は勇気を振り絞って、その心臓の浮かぶ元へザブザブと水音を立てて入って行った。夜にその海に入れば命を持っていかれる。そしてまた、人魚の心臓を海中から出し空気に触れさせてしまうと、溶けて消えてしまう。そうなる前に慎重に、かつ急いで行動を開始した。
少女は水面に顔を付け心臓を手で掴むと、海中で心臓の肉片を噛み千切り、顔を上げて必死に噛み潰していく。口の中に、生臭い少し腐った血の味が広がり、思わず吐き出しそうになる。それを懸命に耐えながら口を手で精一杯力強く押さえて、必死の思いでゴクリと飲み下した。
その間に足元でジェイドも海に飛び込んで来ていて、残りの心臓の肉塊を海中で頬張るや否や、グチャグチャと何度も噛み潰して柔らかくなったところで、同じくゴクリと飲み込む。
少女と狼は必死に息をしていた。一人と一匹は顔を合わせて見詰め合う。
そして互いに少しずつ息遣いが荒くなり、その呼吸が短くなってゆく中、少女は海の中に浸かったままの状態で、再び狼の首元をしがみ付くように抱き締めた。狼も、彼女の肩に顎を乗せその柔らかい髪に、長い鼻先を埋める。
やがて呼吸も虫の息になりつつある二人を見守るように、沖の方から十数匹もの人魚達がプカリと目元だけ海面から出して、じぃっと一人と一匹の行く末を見届けていた。そうして静かに海中に身を沈めてゆく娘と獣を、まるで祝福するかの如く森の狼達はより一層の遠吠えを続響させた。水面からすっかり顔を出した人魚達も、超高音域の短続的な鳴き声を上げ始める。
黄金の満月が浮かぶ夜空の中、狼と人魚のハウリングは合唱するかのように遠い範囲にまで響き渡った。いつまでも、いつまでも…。
その日は夜明けまで村人達は怯え恐れ慄き、家の片隅で、ベッドの中で震え続けた。この狼の遠吠えと人魚の歌の共鳴に。
緋色に光り輝くそのさざ波は、まるで共感するかのようにその色を更なる濃い深紅に染め上げながら、新たなる住人を受け入れた…。
――これで、心置きなく愛し合える。もう種族なんか一切気にする事無く……。ずっと、ずっと君の事を俺は愛していたんだオフェーリア。もう二度と君から離れない。大事な誰よりも愛するオフェーリア。俺は人間と違って、必ず君を幸せにする事をここに誓おう。俺だけのオフェーリア……――
――ああ、ジェイド。あなたがそこまで私のことを想ってくれていたなんて……。あなたと会話が出来るようになって本当に嬉しいわ。ありがとうジェイド……。今私は心から幸せよ。人間なんかの時よりもずっと、ずぅーっと……。永遠に一緒にいてねジェイド……――
こうして人魚に変化した娘と狼は、深紅の海の中で絡み合いながら、いつまでもいつまでもキスを交わし続けた。
人魚の寿命がどれだけなのか分からない。だが二人は一生死ぬまで共に生き続けた。人間に捕まり、眼球を抉り取られぬよう、人間を警戒しながら。
真紅の海。
そこは人魚が住まう場所。
だが今はもうどこにも存在しない。
どうしてその海が消えたのか、人魚が伝説になったのかは誰も知らない。
ただ同じように昔、人の手により滅びかけて地上から姿を消しつつあった狼達。彼らも人魚と同じように伝説になりかけた。今漸く人間達は過ちに気付き、自然にその存在を返し始め、再び地上に少しずつ狼の姿が戻りつつある。
かつてある所に、人間の娘を愛した狼がいた。
その愛を受け入れた人間の娘は、それぞれの種族を超えてお互い人魚となって生涯、いつまでも共に愛し合った。
それを見守り続けた月は今宵も当時と同じように、夜空に静かに浮かんでいる。
真紅の海に起こった美しい恋物語を、時折思い出しながら……。