彼
闇の中、彼は言う。
「明日を語ることができるのは、未来ある人間だけだ」
彼は言う。
「サブゲノムを許してはいけない。今いる大衆が怯えている。あれは脅威だ、そうだろう、そうじゃないとだめなんだ。でないと俺は、なんのために──」
実物の彼を見ると、見た者皆が沸きあがった。自分達の成している行為、その正当性を、有用性を実感するからだ。彼がどのような気持ちでそこに立っているかも知らず、ただ自分達の求める理想像をあてがった。彼は実際そうであったし、そうなっていった。けれど生まれて初めから完全な肉体が出来上がらないように、彼の中身はまだ、成長と葛藤の過程にあった。
【第三話】
都内は大きく分別されて東西南北の区と、中央区とに分けられている。五十棲と乙藤がやってきたのは西区にある一件の風俗店であった。視庁寮、正義らが住む南区や他と比べ、西区は所謂『繁華街』に当たる。とある一画には、都内外でのありとあらゆる娯楽が集結しているとも言われている。
ため息と共に、五十棲は、『BAR Francesca』と黄色い縁に赤いネオンで描かれた看板の店へと入っていく。何がフランチェスカだ、と思いながら入っていくと、中は至って普通のバーカウンターに見えて、バーテンダーらしき男性が一人二人を待っていたように立っている。顎鬚のある口元に手を持っていき、困った、まったくなんでこんなところで……と呟いていたところへ二人がやってきたのに気が付くと、安堵したように表情を緩めた。それまで張っていた緊張の糸が解れ、肩の荷を下ろしたのだろう。
バーテンの男は店長であり、バーテンダー兼風俗店の店長だという。店は表は普通のバー仕様になっており、イギリスの立ち飲み酒場をイメージさせる。風俗店となるスペースは、奥に別の受け付けがあり、二階に個室やゲストルームがあるという。第一発見者はアンドロイド女性型、二階からの通報により一階にいた店主が駆けつけたという。二階に上がると、情事の最中だったのか前後だったのか、何組かの人間が慌ただしそうに身なりを整え、視庁の二人から顔を逸らすようにした。「現場はそのままに」という言葉どおり、客達もまた留まっていたのだ。
「今更、顔隠したって、後からどうせ証言とるんだっつの」
「昼間からこんなところで遊んでたのが、後ろめたいんだろ」
「ったく、これだから西区はよぉ」
アンドロイドと店主の証言によると、加害者は逃げる様子もなく警察を呼んだと聞いた所で豹変することも無かった。加害者の顔や特徴は、二人ともすぐさっき横切っていくのを見たところだ。店主の話によれば、六課にいる別の班が連行していくまでの数分だが、手錠をかけられるそれまでの間、逃げる様もなく静かに待っていたそうだ。
そうして現在、残されたのは遺体と手の入っていない現場のみである。現場は二階にある201号室、エレベーターから降りて一番手前にある左の一室だった。簡素だが中身は整っており一見普通のホテルに見える。
部屋に入ればスクリーンの背景はオプションとして変更がきくらしく、海が見える。だが設定のせいなのか何かのバグなのか、そこにはなだらかな海辺ではなく、荒れた海原がごうごうと音を立てていた。五十棲が音のやかましさに耳を塞ぎ、設定をテーブル上にあるリモコンで音量を下げながら言う。
「ただの痴話喧嘩に見えるけどな。風俗通いがバレて……ってな」
去り際、被疑者を連行するうちの一人から渡されたデータには争った二人の名と詳細の入ったデータが渡された。被害者の名前は『佐々木 ラスティン』、加害者は『平澤 一郎』戸籍には夫婦とある。被害者は日系だそうだ。そう二人は同性だが、夫婦とされている。戦前嫌に騒がれていたジェンダー問題だが、それも世界大戦後によって大きく変わった。古い考えは一掃され、今までの日本では受理されなかっただろう『パートナー制度』が一定期間、制約されたのだ。それには同性だろうと事実婚だろうと何だろうと、互いが認め合い印を押した書類を各都道府県もしくは市町村に届け出を出せば、実際にパートナーであると認められる働きだ。無理に氏名の性を変える事も無ければ、面倒な手続きも要らない。一定の年齢を、パートナーとでも夫婦とでも呼べる相手と書類上でも一緒になることができるのである。それは資産や子供の有無に大きな影響を与えた。だが、十年経とうと、その制度が認められたことで国にマイナスの出来事は怒らなかったのだ。よって政府は『パートナー制度』を受理し決定することとなった。
つまるところ彼らもまた、その制度に恩恵を受けた二人なのだろうが、トラブルが発生したと思われる。いくら男女ではなくとも、人間によって浮気はするし下心は持つものだ。五十棲は遺体となった被害者にかかるシートをめくって、そう思っていた。だが同じく、別の証拠品を調べていた乙藤の声が五十棲の思考を遮った。
「いや、そうでもないみたいだぞ」
屈んでいた腰をあげて、五十棲が入口付近にいた乙藤のほうへ大股で近づいていくと、目の前に液晶データが表れた。
「これは?」
「アンドロイドの中に残っていた映像記録だ。見てみろ」
廊下で立っているアンドロイドも証言『者』としていたところを、自分の端末と繋げて何が起ったのかを映像の一部だけ許可を得て見ていたらしい。中にはアンドロイドが騒ぎを聞きつけ、部屋の中で言い争いをしている二人の部屋に入って行く動画が見られた。動画は部屋の外、アンドロイドがエレベーターを上がっていくところから撮られているが、廊下にも響き渡るほどの口論が聞こえてくる。
『何で邪魔をするんだ! 分かってくれるって思ったのに!』
『……ょ……って……』
『……だろ……もしかしてお前……!』
ここで何か大きなものを倒したような音がし、アンドロイドが電子キーを使い、部屋の内部へと入って行く。入口から見えるのは曇りガラス式のついたて、そして正面にはややずれた黒いソファ、その奥に電気スタンドが倒れている。
『お客様、申し訳ございません。大きな物音は他のお客様へのご迷惑となりますので』
アンドロイドの冷静な声とは裏腹に、映像ではついたての奥に位置付けられてあるベッドから二人分の足元が視える。先ほどまで騒がしかったのが嘘のように、中から声は返って来ることは無かった。足の一人分はベッドの上に仰向けに、またもう一人分はそれに伸し掛かるように膝を立てているのが見える。アンドロイドは入口付近で返答を待ち、立ったままなので中で何が起っているかは見えない状態である。それから数分もせず、中から立ち上がった一人の男性が青ざめた顔で、アンドロイドの前に出て来た。
『……君は受付のアンドロイドか』
やってきたのは、グレーのズボンに白いシャツ、そしてネクタイを締めたままの男性。細身で一重の顔は先ほどすれ違った男、加害者である平澤に間違いない。
『はい。他の部屋のお客様からクレームが来ておりまして、お伺いに参りました』
『警察に通報してくれ』
『何が行われたのでしょう』
『……を……旦那を、殺した……』
『了解致しました。現在一階店主へ、同時に保安視庁への通報中です……』
動揺のない機械音声、平澤はその後、室内にあるベッド側にあるソファに座って、ベッド側を見つめていた。何か呟いては項垂れ、がっくりと肩を落としている様子だった。
動画はそこで終わっている。それからはそのアンドロイドに見張り役を任せ、店長が店員や他のアンドロイドに客らを留めさせておくように指示したという。映像を見終わり、ちょうど入ったときと同じ入口に立っていた二人は、そこから映像との正面を照らし合わせるように見た。そうして乙藤が中へ入っていくと、ベッドの上には遺体となって仰向けになった被害者が、シーツを被せられているのが見えた。映像音声で倒れたのは奥の電気スタンドだと思われた、被害者が抵抗する際に引っかけて倒したのかもしれない。テーブルには二人分のコップと、水の入ったコップに空のコップ、そしてミネラルウォーターのボトルが一つ立っている。
「ちなみに、この店には二人で来たのか?」
乙藤の質問に、アンドロイドが丁寧に答える。そのやり取りは乙藤が納得いくまで続いた。
「いいえ、お亡くなりになられた方がお先です」
「佐々木が先……と、じゃあ平澤がついた時刻を正確に」
「13時15分です」
「それじゃあ二人がこの店で会ってから、騒ぎがあったのはどれぐらいの時間だ?」
「申し訳ございません、その質問に対する答え方がございません」
「あーじゃあ……後から来た男が上にあがってから、他の客から連絡が入るまでの時間はどれぐらいだ」
「少々お待ちください。……17分と34秒です」
「分かった。ちなみにこの部屋に入れるのは、二人だけか?」
「いいえ、キーとなる自分と、キーを持つ店長も入る事が可能です」
「成る程」
つまりアンドロイドと店長ならば入ることが可能であった線を伺えるが、当事者である本人が通報してきたのだ。横で聞いていた五十棲が乱雑に手帳にメモをしながら言う。
「それで? あいつは自首って事になるのか?」
「だろうな。だが、どっちみちこいつには尋問する必要がある」
「この案件がダイロクに来たってことは……どっちかが第六感持ちだってことだよな」
「そうなるな」
乙藤の返答に、五十棲ががりがりと頭をかき回した。
翌日、一階向かって右奥にある取調室に、第六課D班は集合していた。時間は午後、午前のうちに取り調べは一通り終えたという。立ち会ったのは、先日現場へ入った乙藤と五十棲である。今朝の朝礼で、この件はD班が引き受ける案件となっていた。田宮率いる三人は午前も喋れない老人の元へ向かった帰りである。無言ということは、今朝もまだ手がかりが得られなかったらしい。
マジックミラー越しに、監視官が入口に一人、机を挟んで入口より奥に容疑者である平澤一郎が座っているのが見える。田宮と正義はその男の顔を見るように首を伸ばした。その隣でデータをもう一度、表示しながら話すのは鈴久保だ。
「送られて来た資料データは拝見致しました。持ち物に不審な点は見られず、お互い顔見知りで死因は窒息死。被害者の首には容疑者の手痕がしっかりと残っていた……計画的犯行ではないかと思われますが」
好奇心旺盛な後ろ二人とは真逆に、鈴久保は冷静かつ資料を淡々と並べ直しながら自分の考察を交えて話しを続ける。
「それで、分かったことは?」
「本人曰く、ヤクをやってるのがバレて殺したってよ。あっさり認めやがった。他の客からも全く力になる証言はない、店長は一階のバーにいるのが他の客からアリバイも取れてる」
五十棲の言葉に継ぎ足すよう、自分の端末をポケットから出した状態で見下ろし、乙藤が言う。
「さっき、部屋の捜査をしているC班から連絡が入った。二人は同居しているわけだが、加害者の部屋の机からは麻薬と常用タイプの吸入器が発見されてる」
大麻栽培は、約数年前に一定の栽培と売買が合法化されて以来、活動的になっている。特に北海道という大自然の中では、それを主な職としている人間も少なくはない。加害者の平澤は北海道出身で、母親が麻薬の売人をしていた経歴があると平澤本人が語ったという。実際に出身の籍は北海道にあり、その売買の手伝い傍らに行っていたビジネスが成功し、本人は一人で都内へ移籍してきたのだという。話した内容には全て裏付けも取れていた。
「ヤクから手を離して、真っ当な生き方を選んだが、まぁすべてが白紙に戻っちまったってのが言い分だ。筋は通ってるな」
壁にもたれかかって腕組みをする五十棲は、これ以上聞き出せることはないだろうといった様子で呆れた顔をしている。
一方でまた違った意見を持つ乙藤が、その隣で三鷹と話していた。三鷹は二人からの現場報告書と映像や画像を眺めながら、乙藤へ問いかけた。
「しかし、加害者が第六感保持者だというのは本当ですか」
「恐らく。パートナーである佐々木は定期的に健康診断を行っていますが、彼はそれをしていない。診断では第六感の検診も行われています。それを避けていたという可能性があります」
「だが第六感については話しちゃくんねぇ、ってわけですよ」
もう大麻所持とその使用、それから発端した殺人罪でいいだろうと言いたげに眉をひそめる五十棲。マジックミラーの向こうにいる平澤を三人で睨んでいたところで、五十棲が正義へ小さく小突くと、日本へ着いて以来正義の手より吊られっぱなしのジュラルミンケースを顎で指した。
「ソイツの役目だな」
話し合い、といっても数十分も足らずの時間だが、その結果PDの使用許可が下りた。だがわざわざPDを使うほどの案件なのかを疑問に感じている面子もいた。
「聞いた限り、平澤が人殺しだってのは間違いないと思いますけど、理由に第六感まで必要ですか?」
「それが必要なんだってよ」
そう語るのが田宮と五十棲の二人である。
「死因は窒息死、首にはくっきり指紋の痕。それが平澤のものと一致していて本人も認めていて、喧嘩の理由も大麻所持……だと仮定して、この映像の声と内容もおかしくはありませんよ」
そうそう、と指を差しながら頷く五十棲に対するのは、三鷹と鈴久保である。
「もし第六感持ちだとすれば、罪状が変わります。それにこれだけでは理由も大麻使用だと言い切れません」
「鈴久保の言うように、仮に加害者が第六感保持者だとして、なぜこんな公の場で明らかに分かりやすい殺人を犯したのでしょう。反六感主義者という組織も現れてきているというのに、わざわざ彼らを煽るような真似をする訳とは何でしょう」
熱いというよりは断固とした意志を持つ二人の圧に、五十棲と田宮は押されて顔をしかめる。理論的に話されては二人の右に立つ者はいない。という二つの対立した意見をはっきりとさせるには、正義とその特殊なケース『PD』が必要なのは明らかであった。正義が、テーブルの上にケースを置きながら言う。
「事情は分かりましたけど……、視庁による第六感検査はされないんですか」
「行われてはいるが、PDほど確信できるものじゃない。それに、使われている検査薬では、薬を処方している相手の場合、第六感を持っていたとしても効果を為さない。それが大麻なら尚更だ」
「それは……確かに、今回こそコイツの役目ですね」
ぽんぽんと肩を叩くように、正義の手の平がケースの角を軽く叩いた。銀色のケースは鈍く輝き、部屋の暗さから余計重々しさを増していた。
午後の取り調べとして、立ち合いには元麻薬取締官の五十棲と、冷静な判断を下せる乙藤、そして機械を動かすことのできる正義の三人で行った。平澤はこれから自身に行われる行為の説明に対して何も言わず、無言で了承した。抵抗もなくあっさりと受け入れるというのは、やはりポスト──第六感保持者ではないのではないか、と正義は思いながら慎重に加害者の頭皮へパッドを貼り付けていく。
「さて、じゃあ……」
正面に、平澤と同じような簡素な椅子に座ったのは、乙藤であった。マジックミラー越しに見ている三人は、静かにそのやり取りを待っていた。
「そのパッドは痛いか?」
「いいえ、髪を濡らされるのが、少し嫌ですけど……」
「それは悪い、我慢してくれ」
椅子に深く腰をかけ、背もたれに背を預けている平澤に対し、乙藤は椅子へ浅く座りかけて机に両肘をついた。片方の手をもう片方の腕へかけたまま、軽い様子で話しかける。
「もう一度聞こうか、あんたの旦那……被害者の佐々木グレッグを殺したのは、君か?」
「はい」
「どういった経緯で殺したのか、詳しく聞かせてくれ」
「……あまり、思い出したくないんですけれど……」
そう言いつつも、嫌な食べ物を目の前に出された少年のように渋い顔をし、分かったと頷いて机に視線を落としながら、平澤は語り出した。
「あの店は……一階のバーをたまに使う程度でした。今日は、僕が仕事中に呼び出されて、何故かバーの二階へ来いと。店主も後から来る僕のことは聞いていたようで……すぐに二階へ通されました」
「何故呼び出したのか、理由は聞いたか?」
「いいえ……でも……声のトーンで、きっとあのことだろうなと……」
「あの事っていうのは?」
「勿論……クスリです。彼は……僕がクスリを嫌がっていたことを知っていたので、都内に移ったことを知ってくれていたので……もし僕がそういった行為に手を染めそうなら、止めてくれと、言ってました……」
「つまりクスリをやってることがバレて、口論になって、殺したと?」
「……はい……ええ……」
「じゃあ次は口論の内容について話してほしい、できるか?」
「ええ」
ここが五十棲と乙藤が良くコンビを組む理由の一つである。ジキルとハイド作戦、古いやり口だが、見た目からして威圧感のある五十棲の取り調べと、気だるげで世間話でもするかのような、時には同情的な乙藤の取り調べ。交互に行うことで、取り調べ相手にどちらが有効なのかが見極められる。今回は乙藤のハイド側が有効的らしく、平澤は間を取りながらも話していく。
「話は……向こうから切り出されました、クスリをやってるんだろうって……。初めはあんな言い合いにはならなかった、ただ、僕がやってることは間違っているって諭されて……僕は当然、わかっていると……。でも」
項垂れた頭は変わらず、声のトーンといい、自分のしでかした行為を後悔しているようにも見える。
全ての経緯を話し終えた後に、正義が五十棲へ一声かけ、そのままの状態で壁の向こう側であった三鷹の元へやってきた。
「当たりです」
「ロクか」
「はい、間違いありません。どうします?」
「だとすれば、今の証言の中にどこか偽証があるはず。ただの麻薬所持で殺人まで犯すとは考えられない。もっと根本的な何かがあるはずだ」
二人のほかに鈴久保と田宮がそれぞれ頬杖をつき、腕を組みながら考えを導き出そうとしている。正義は途中で何かに気付いたのか、あの、と声を出した。
「映像音声の中にありましたよね、『何で邪魔をするんだ。分かってくれると思っていたのに』『まさかお前も』って」
「あったな。それが?」
「二人が言い争ったのは事実だとして、薬についてじゃない気がするんです」
その言葉に、次は正義が取り調べをする番を回された。もちろん初めてだという正義の補佐として、後ろには乙藤と五十棲が両側に立っている。パッドは付けたまま、ケースにある機械は正義へ向けてプラナの反応を伺っている。平澤はそのケースと自分に付けられたものへ問いかけることなく、正義の質問にも答えた。
「あなたの旦那さん……被害者である佐々木さんは、『分かってくれると思ったのに』って、言いましたよね」
「ええ」
「佐々木さんは、あなたが『何』を理解してくれていると思っていたんでしょう?」
「それはクスリの……」
「言い回しがおかしくありませんか? もしクスリに対して言及したいのならば、他にもっと責める言葉があったはずです」
平澤はそこで初めて顔を上げ、正義の顔を見た。互いがおかしなことを言う、とでも言いたげな顔で。
「僕に言われましても」
「そして最後、佐々木さんは『まさかお前も』と発言しています。そしてあなたの言葉通りなら、その後あなたは佐々木さんの首に手をかけた。何故、その言葉がきっかけになったんですか?」
「……あなたには分からないでしょう」
もう一度、今度は被害者と加害者二人の住居だったマンションの一室へ、実際に現場調査をしに行くのは乙藤と五十棲である。第一の取り調べ人なのだから、二人は当然といった顔で仕事を引き受けた。
東区に位置するそこは十階建ての、この辺りで言うなれば中の上ほどのマンションだろう。入口には整えられた花壇に花が咲いており、入るとすぐに入口のセキュリティが作動した。捜査のため必要なカードキーと、視官のデータは認識されている。壁に埋め込まれたパッドへカードキーを当て、次に乙藤が右の人差し指をかざせば、するすると奥へと続くドアが開いた。誰もいないのに広いフロントには、どこか寒々しいものを感じ、二人は早速エレベーターへと乗り込んだ。そこにも当たり前だがエレベーター内と外に監視カメラが設置されている、乙藤はカードキーを当てて五階を押した。マンションの構造よると、入口と非常口、そして各フロアごとに監視カメラは設置されており、中へ入ることのできる人間は逐一セキュリティにかけられるため限られるらしい。またこのマンションが他と違う点は、指紋や顔認証で友人の類も厳しくチェックされるという所だ。一人暮らし、もしくは人と関わる事が好ましくない人へオススメされているらしい。
チン、と音がして『五階です』と機械音が聞こえた。中庭は無く、一つの階には三部屋までしかない。エレベーターを降りてからすぐ左に位置する部屋の前には、立ち入り禁止のマークと、勝手に足を踏み入れれば音が鳴る仕掛けのバリケードが表示されている。二人は警備員に手帳を見せ、バリケードの仕掛けを一時的に解き、501号室へと入りこんだ。
部屋は、まだ主人を待っているかのようだ。何事もなく、帰ってくることのない主たちを待ち続けている。現にこの場では何もなかったのだから、当たり前なのだろうが。昨日と本日午前のうちに検視官は去ったため、重ったるしい空気はない。玄関から入ってすぐ右手側にあるのがトイレ、左手にある扉はバスルームだ。五十棲は早速、手袋を身に付けながら個々の個室を探りに行った。乙藤はというとリビングに面したキッチンルーム、そしてベランダの間取りを眺める。二人暮らしには勿体ないほど広い、リビングは約十三畳、キッチンは五畳とある。このマンションに関するデータを開きながら、乙藤はゆっくりとそこらを歩いて見て回った。大きなソファと、それに合わせた木製のローテーブル。上には一昨日の新聞が放置されているが、それ以外にこれといって目立った汚れは見当たらない。綺麗好きなのか、キッチンも同様に洗い物の残しは無かったし、乾いたままのグラスが幾つかかけられているだけだ。冷蔵庫の中には都外で作られた野菜や魚に肉、どれも国産のものばかりがきちんと並んでいる。人参の袋を手にしていたその時だった、奥から乙藤を呼ぶ声が聞こえて来たのは。
「おい、なんかあったか?」
「いいや、特に。そっちは」
「あったよ、ガイシャの言う通りヤクが」
寝室は一つだが、個人個人の仕事が行われるよう別々の部屋が設けられているようだ。そのうちの一つ、加害者の部屋と思われるそこで常用タイプの薬も平澤自身の言う通り、彼の部屋にある机の隠し板の底にあり、何度か使われた形跡があった。おまけにその隠し板には何度か無理やり引き剥がされたような、引っ掻き傷も見られる。これが隠し板だと知っていれば簡単に外せるはずだが。何もかも証言通りだった。薬を常用していたとは思えない程、綺麗な一室だ。丁寧に揃えられた衣類、引き出しの中も小分けにされて整理整頓が為されていた。勿論、ごみくずは一つも見られなかった。
だがもう一方で、乙藤が目をつけたのは佐々木の部屋だ。リビングやキッチンから見て几帳面なのは、平澤であるのが二つの部屋を見比べてよくわかった。ちなみに二人は清掃員や掃除用ロボットは雇っていないという。佐々木の机の上にも、同じようにデスクトップ型のパソコンが、机にどんと座っている。パスワードは暗号化されていたが、『ログインを保持する』のボックスにチェックが付いていたので安易に中を見る事が出来た。
「このご時世に不用心なこったな」
「もしかすると誰かが開けた後、かもしれない」
「誰か?」
「一人しかいないだろう。この家に住むもう一人、平澤一郎だ」
だが何のためにパートナー探りを? そう首を傾げている五十棲を横に、乙藤がデスクトップのアイコンからフォルダまで片っ端から漁っていく。写真のフォルダを一つ開けてみる、中には平澤と佐々木の二人の思い出ともとれる写真が詰め込んであった。この頃からは、あの悲劇が起こるとは想像もつかなかっただろう。フォルダに怪しいもの、何か手掛かりになるものは見つからなかった。五十棲は、「ほらだから言っただろ」とその場から離れようとしたが、乙藤が見ている検索履歴のうちとあるサイトに目を付けた。
「これ、ここ、クリックしてみろ」
「……これは、反六感主義者のシンボルだ。最近あちこちで勃発しているテロ組織。もしかして被害者はテロリストだったのか……?」
「それにこの履歴を見ろ」
「……闇サイト? だが容疑者の平澤ならともかく、なんで……」
「購入履歴がある。日付は三日前、宛て先は近くの取引センターになってるが……中身は」
今度は二人の声が重なる番だった。
「ストリキニーネ」
マンション近くにあるセンターへ訪問し、受付係のアンドロイドに被害者の顔データを送信すると、荷物を受け取った日時とが一致した。
そうして乙藤は、今までとは全く逆の仮説を立てた。あの日、死ぬはずだったのは容疑者である平澤のほうであったのでは。佐々木が反六感主義者だという証拠は、あのパソコンのデータ以外にもあったはずである。第六感がバレたと勘付いた平澤は、糾弾されることを覚悟でバーへ向かったのだ。パートナーが反六感主義者であることは、嫌でも分かっていたのだから、それなりに批難を受けるのは覚悟の上だったはずである。パソコンのロックが外されていたのは、平澤が開いてデータを見た可能性が高い。つまり毒薬の入手についても知っていただろう。もしかすると殺される可能性にも気付いたかもしれない。だが言い争いの中、被害者である佐々木のほうに異変が起きた。それは心の変化なのか、どういった気持ちだったのかは定かではないが、相手に飲ませるはずの毒薬入り飲料水を、何故か、被害者自ら飲んだのだ。それを指摘すると、彼が間違えたのかもしれないと平澤は言うが、そうではないと乙藤はその視線が泳ぐ様子を眺めていた。
正面に座る正義が、容疑者であった平澤へと質問を投げた。
「なら、何故そう言わなかったんですか? 毒薬が入っていたのならいずれ鑑識でも分かるはず」
「言ったところで、私への容疑は晴れないでしょう」
「……なら、何故わざわざ絞殺に見せかけたんですか?」
その質問に平澤は少し、間をおいてふっと息を吐き出すと、肩の荷を下ろしたかのように背中を丸めてこう言った。
「せめて最後まで……一緒にいたかったんです」
いたかったというのは、自分が殺したということにすれば容疑者と加害者という点で繋がる事が出来たという意味だ。自殺した夫と、そのパートナーというだけでは余りにも虚しすぎる、と平澤は話した。
「そうなると口論の内容もまた変わってくる。いいか、俺らはもう毒薬が被害者によって購入されてることも、反六感主義者だったことも知ってるんだ。何があったのか、いい加減本当のことを話せ」
五十棲が押し寄るように圧をかけると、平澤は一度目を閉じ、そしてひとつ深呼吸をしたあとにようやく、自供を始めた。
彼が反六感主義者であることは、分かっていました。付き合う前から、付き合って同棲するようになってからも。けれど『分かった』ところでどうしようもなかった、打ち明ければ彼と別れるのは必然的でした。けれど私は彼を愛していた、反六感主義者の彼に、第六感持ちの私はひたすら隠し続ければならなかったんです。
薬は簡単に手に入ります、でもお調べになられた通り、私自身は使っていません。もし第六感がある事がバレてしまいそうになれば、薬をしているということで隠せると思ったんです。
ある日、彼が自宅ではなくセンターで荷物を取引しているところを目撃してしまいました。そしてそれが毒薬である事、その二日後に第六感持ちを支持する政治家への接待があると聞いていた私は、すぐにそれが何を意味していたかを知りました。そして事件当日は、それを止めさせようと思ったんです。電話がかかって来たのは向こうからでしたが、あのバーで話し合おうと持ちかけたのは私です。
『急な用ってどうした、悪いけどあんまり長い時間は』
遅い昼休みということで、佐々木は仕事着のまま現れました。私も似たようなものなので、スーツのまま、風俗店に来いという話に佐々木は可笑しく思ったでしょう。すぐさま帰りたいような、疑いの目で私を見ていました。私は単刀直入に話を始めました。
『お偉いさんとのセッティングがあるんだろう。分かってるよ、そのことで話しに来たんだ』
『どういう意味だ……?』
『悪いけれど、お前が何をしようとしてるか、分かるんだ。二日後のパーティ、休みを取って、考え直してくれ』
『分かるって……そんな、一体何を……考え直す……?』
『毒だよ、なあ、もう止めてくれ。そんなことをやったって、何も変わりはしないんだ』
『……何で、何でお前が邪魔をするんだ! あと少しだったのに、お前なら、分かってくれるって……思ったのに!』
『ごめんよ……でも俺だって、好きでこんな体になったわけじゃ』
『………………嘘だろ、もしかしてお前……』
そこで私は彼が毒をいれた水を飲もうとしました。彼が向ける絶望の眼差しに、私は耐えられなかったんです。まるで怪物を見るような目つきでした、可愛いくて小さなぬいぐるみだと思っていたものが、恐ろしく逃げ出したくなるような得体の知れない何かに豹変したかのような目だった。愛している人にそんな目を向けられて、普通でいられるはずがない。けれど、そこで誤算が起きました。彼が何故か慌てて、僕からその水をひったくって飲み干したんです。何が入っているのか、何が起こるのかは自分が知っているはずなのに。彼はすぐに苦しみだしました、もうどうしようもないのは見て分かりました。自分が容疑者になるのも。けれどそれならいっそと思い、いつの間にか私は彼の首に手をかけていたんです。毒で死ぬ前に自分が、と。そして受付のアンドロイドがやってきて、通報を頼みました。待っている間、彼が落としたコップを元の位置に戻し、全てが突発的な自分の犯行だと思わせるよう、現場に細工をしました。これが全てです。
平澤の語った真実に、一同はただため息をつくばかりだった。鈴久保は顔をしかめ、田宮は首を傾げるようにし、三鷹は不思議そうに顔をしかめっ面にしたまま、ミラー越しにいる平澤をじっと見つめていた。
「それで……結局、彼は僕の手で死んだんですか。それとも、毒が回るほうが早かったんですか」
「それはまだ鑑定が付いていません」
「ああ……そうですか」
被害者による毒の購入は乙藤と五十棲が確認済みだった、死因が毒薬による死であったのか絞殺による窒息死であったのか、本当は現時点で鑑定結果が出ているはずだ。だが正義にそのデータはまだ送られておらず、後ろの二人も黙ったままだ。平澤の望み通りならば、絞殺死であったほうが嬉しいのかもしれない、だが、と正義は思う。
「一つ、最後に教えてください。何故そこまでして第六感を隠していたかったんですか? 世間体ですか? リスクですか?」
平澤は顔を上げると一言、正義の目を見ると、心の底から哀れむようにこう言った。その口は、僅かに笑っているように見えた。
「刑事さん、あなたは可哀想な人だ」
それきり、平澤がその場で何かを語ることはなかった。
取調室には紙とペンで調書をとっている監視官がいる。映像以外で手書きの調書をとるなど今時珍しいと思われるだろうが、昨今、映像の場合はハッキングされかねない、それこそこの間のようにだ。監視官のページが新しくなっていることに気づき、五十棲が何と無しに話しかける。
「なんだ、俺たちがいない間に誰か来たのか」
「ええ……いえ、はいと言えばそうですし、いいえといえばそうなります」
監視官の曖昧な答えに、二人は納得するような、だが腑に落ちないようにそれぞれ、ああといった顔をした。
「誰が来たんですか?」
そう聞いたのは正義だ。その質問に面食らったかのように、監視官は口を噤んで二人の先輩視官を見やる。乙藤が長い溜息をついて、五十棲が正義の肩を叩きながら後を押して言った。
「そのうち話してやるよ」
六課に残された仕事は、正式に彼へ第六感の検査を行い、証言の裏付けをとるだけだった。それはパートナーであった佐々木の職務内容、そして彼が反第六感主義者であったことと、原因が被害者にあった第六感だということ。来たばかりだというのに、正義に課せられた仕事は多くあった。まだこの国に馴染んでもいないというのに。仕事場とその内容確認、実技体験は既に行われているが、データ整理に事件の引継ぎ、証拠品と証言と揃えるものを揃えなくては。それにまだまだ教えることは山ほどあるぞ、という五十棲の言葉に正義はへこたれることなく、はいと元気な返事をした。
病というのは、その全てが細胞の異常によるものだとされている。少なくとも病理学ではそれが前提になる。精神疾患は機能的疾患とされ、これもまた確定までには至っていないものの、原因は細胞の異常が引き起こしたとされている。ならば第六感は? 医療、化学、生物学、民俗学ありとあらゆる学者の人間が、こぞって議論を交わした。例えば遺伝子性による病の一種なのかもしれない、または放射能が引き起こした病気かもしれない、或いは元々人間が持っていた力なのかもしれない。新たな人種の登場により、千人の学者が千通りの論議を唱えたといわれている。
当事者たちが世間の目にどう晒されたかなど知らずに。
「彼女が戻ってきました。現在六課で捜査中の殺人容疑にかけられている容疑者のデータです」
薄暗さのある中で森のような、海面が弧状に映し出されているスクリーンが部屋一室を覆っていた。その中で静かな女性の声、ヒールと扉の閉まる音を聞いて、彼は言う。
「悪は誰の中にでも存在するものさ」
その声は静かで穏やかだ、自室いっぱいに映し出されている大海原のように。白い波と空を飛ぶ鳥の鳴き声、そして塩水が立てる波音だけが、部屋の中に響いている。なんとも穏やかで手を伸ばせばその海原へ手が届きそうだ。彼は続けた。
「ただひとえに、自分の中にある悪を認めようとしない。画面越し、フィクション越しに悪を指さし善人ぶる、それが人間だ」
そうですね、と彼女は言った。傍のデスク越しに立っている彼女の台詞。それが本意なのか相槌なのか、真意は計り知れない。代わりにデスクに背を向けていた男が椅子ごと振り返ると、男の黒い髪が影となって見え、そして彼女を指さした。
「聖女然とした君にも悪はある。だが君だけはその悪を理解し、許容している。彼女たちもそうだ、そして彼らも。いやはや君らの存在は素晴らしいね」
「そういう貴方は」
どうなんですか、と紫の瞳が男を捉えた。薄い色素の瞳に、柔らかな笑み。しかし、その瞳に映っている男からは何も見えてこない。
「どうなんだろうね」
と言って、無邪気に彼は見つめ返し、そしてにっこりと笑った。