忍び寄る不安
「まだ少し、寄り道していきたいな」
辺りは少し暗くなりつつあったが、せっかくのテスト明けの放課後なのだ。もうちょっとだけ羽目を外しても、親や先生に咎められやしないだろう。小腹が空いていたというのもあり、近くの行きつけの喫茶店に入る事にした。愛莉はもう手持ちがないからと断ろうとしたが、「何が悲しくて野郎2人で向かい合って座らねばならないのだ」と説得をし、雄平と2人で出し合って払うからと引き止めた。4人掛けの席に案内され、愛莉は俺の隣、雄平は愛莉の向かいに座る。
「しかし、俺達も来年には受験かー、もうすぐ夏休みに入るけど3年になると勉強が忙しくてとても遊びに行けないのかねー?」
「は?何言ってるんだよ、勉強に追われるのなんて今年からだろ。推薦枠狙うつもりなら今からでもいいくらいだぞ」
「うへー、そう考えるともうこうしてだべることも難しくなるのは、なんか、さみしいね」
メニューから適当に注文をし、俺たちは会話を続ける。
「ちなみにさ、進路って決まってる?2人はオープンキャンパスどこいくつもり?」
愛莉がそう尋ねてきたのに対して雄平が答える。
「俺は理工系だな。大型機械の設計とかに携われるような、国公立に入れたら、って思って何個か資料集めてる」
いかにもな、雄平らしい真面目な答えだった。こいつの頭なら公立の医大にも受かれそうだが、本人曰く「血を見ることはあまり好きではないから最初から視野に入れていない」との事であった。「でも、薬学系もあるじゃん」と愛莉が小さく呟いたのは雄平に聞こえたのか、聞こえていないのか。
「俺は物理とか苦手だしその方面は無理だろうなー。どっちかっていうと古文とかの方が好きだから、文系の大学かね」
俺はそう返した。まだ将来どうなりたいかとかは特に決めてはいないものの、博物館に勤める学芸員なんかどうだろうか、と少し気にはなっている。
「哲哉は歴史とか得意だもんな。昨年度のテストで一度も勝てた試しがないし、合ってると思うよ」
好きな分野だから、自然と頭に入ってくる。読み解くコツさえわかればテストだって高得点を取ることは難しくない。
「じゃあ皆バラバラだね。私は薬剤師を狙っているんだ。昔からの夢で、憧れてたからさ」
少し照れ臭そうに愛莉が打ち明ける。なるほど?さっきのつぶやきを翻訳すると「1人じゃ心細いから、誰か自分と同じ学校に着いてきてくれないかな」ってところか。
内心、愛莉と雄平が同じ学校を目指していないと知れてホッとした。そんな事で1人ハブられるのなんて、惨めじゃないか。
「でもこないだ基礎的な化学式を間違えてたような奴に薬作ってもらうのはこえーわ」
「同感だ。今のお前にゃ荷が重い」
「なんだとー!」
俺が言うと雄平はウンウンと頷きながら同意を示し、その様子に愛莉は怒る。横に座っていた俺をポカポカと殴り始めた。
「あれは、朝一の授業だったから寝ぼけてただけなの!じゃなかったらちゃんとできてた!」
「いーや、アウトだろ。薬なんてちょっと間違えただけで性質がだいぶ変わるんだぞ?寝ぼけて調合ミスされたらかなわんて」
雄平の正論に、愛莉は返す言葉が見つからなかったようで俺を殴りつつも「もー!」を繰り返す牛になった。いつものじゃれ合いの一環なので、物理的にはそんなに痛くないが、バカをやっているせいでそろそろ周囲の目が痛くなってきた。
ーーーーゥ
また、何かが聞こえたのはそんな時だった。店内に流れているBGMよりも小さいのに、それは確かに俺の鼓膜を振動させた。
「どうしたの、哲哉?」
ふざけていた最中にいきなり俺の様子が変わった事で、愛莉が手を止めて心配そうにこちらを見る。雄平も「なんだ?」と尋ねてきたところを見るに、2人にはまだこの音が聞こえていないのかもしれない。
「廊下で聞いたサイレンみたいなのが聞こえてさ。今も、なり続けている」
2人も目を閉じて耳を澄ませる。が、返ってきたのは思っていた反応とは異なった。
「悪い、俺には聞こえん」
「私も。哲哉の空耳じゃないの?」
気がついてからの音は次第にはっきりと聞こえるようになってくる。精神的に不安になるような不快なこれが、空耳だとは俺にはとても思えなかった。しかし、店内の様子を見るにこの音が聞こえている反応をしているのは俺しかいないと言うのもまた、事実であった。
「もしかしたら哲哉は可聴域が広いのかもしれないな。俺達に聞き取れない周波数の音も拾っている、とか」
顔色が一向に晴れない俺に対し、雄平はそう声をかける。
「疲れから一時的にそうなってる、っていうのもあるかもしれないからここら辺で切り上げるか」
「そうだね、気がついてないだけで疲れが溜まっているのかもしれないし帰ろ?」
2人に気を遣わせてしまい、とても申し訳なく感じた。
◇◆◇
「じゃあ、俺こっちだから。愛莉、あと頼めるか?」
「任せてよ。じゃあね雄平、また明日」
「おう。哲哉、しっかり休めよー?」
分かれ道。雄平が手を上げて自らの帰路につくのを見届けると、愛莉と2人きりの帰り道を歩くことになる。俺と愛莉の家ははす向かいの関係にある、ご近所さんなのだ。
「悪いな、手をかけさせちゃって。もう、大丈夫だ」
耳障りだったサイレンの音は、ここに来て鳴っていたことが嘘のようになりを潜めていた。ざわついていた気分も落ち着いた。
「仕方がないなー哲哉は。そういえば、おばさん達の今日帰る時間は聞いてる?夕飯は?」
「あー、ちゃんとした時間は聞いてないけど、2人ともここのところ遅いかな。冷蔵庫にあるもので済ますわ」
うちは共働きだ。家計が苦しいと言うわけではなく、働けるうちは働いておきたいと言うことで、母さんは俺がある程度の分別のつくようになった時からまた仕事に就いた。
「そっか。よければ、なんか作りに言ってあげようか?」
「え?いや、流石にお前に悪いだろ。芽衣もいるし、大丈夫だって」
芽衣、とは俺の2つ下の妹だ。自他共に認める本の虫で、没頭すると周りが見えなくなる子だ。周りを気にしなく、基本のんびりやである為、少しマイペースが過ぎるのでは、と兄として不安になるが、本人に「テツ兄には言われたくないなぁ」と一刀両断されてしまった。解せぬ。
いや、そんな芽衣の話はさておいて愛莉さんからの提案をうっかり即答で断ってしまった。慌てて愛莉の顔色を伺うも、よかった、まだ不機嫌にはなってないようだ。
「えー?芽衣ちゃん受験生だし、ちゃんとしたもの食べさせてあげないと可哀想だよ?哲哉、さっきまで調子悪かったんだしさ」
「ま、まぁ、そうだな」
普通の男子なら、女子からの願ってもいない提案に飛びついただろう。だが、俺の歯切れが悪いので察しがついたかもしれないが、俺は愛莉の腕前を知っているのだ。
彼女の味付けセンスは独特なのである。例えば、彼女が野菜炒めを作ったとしよう。見た目に関していえば、美味しそうに見えるものを作ってくれるだろう。だが、見かけで騙されてはいけない。彼女は、見栄えを良くするのにこだわっているからだ。発色が良くなるように、普通なら野菜炒めに入れないであろう、酒やみりんみたいな調味料をドバドバと入れるのだ。故に、口に入れた瞬間、思っていた味と違い悶絶する危険性がある。
毒、とまではいかないがそれぐらい加減を知らないのが愛莉なのだ。この辺り、化学の成績に反映されている気がしてならないのだが、彼女は無自覚。傷つけないように教えてあげるのは、なかなか難しい問題である。
「ほら、さっきのお返しだと思って、ね?」
こう言われてはもう断りようがない。腹をくくり、彼女の好意に身を任せるとしよう。もう我が家は目の前だった。