⑧名物いなりずし
名物いなりずし
その小さな食堂は、石段を下りきって、すぐのところにありました。
いちょうの葉が、金色のじゅうたんのように、あたりいちめんをおおっています。
わたしたちは、ザクザクと落ち葉をふみしめながら進み、お店の前に立ちました。
「ごめんください」
引き戸を開けたとたん、おしょうゆとお砂糖のかおりが、ふうわりと鼻先にただよってきて、またもや、グーッ、夫のおなかが鳴りました。
コト、コト、コト
奥の方では、なにかを刻む音がしています。
シュンシュン
お湯のわく音も聞こえます。
それなのに、いくら待っても、だれもお店に出てくる気配はないのでした。
「もしもし、どなたかいませんかあ」
三度目に叫んだ時です。
やっと奥から、はあいと返事が聞こえました。
出てきたのは、色の白い、ほっそりとした娘さんでした。
長い髪を、赤いバンダナですっきりまとめ、真っ白なエプロンを着けています。
「お待たせして申しわけありません」
娘さんは笑顔で頭を下げましたが、お客を待たせるなんて失礼だわと、わたしはちょっとあきれてしまいました。
店内をぐるりと見わたしてみると……。
四人がけの、どっしりとしたテーブルが五台。
テーブルの上の一輪ざしには、おみなえしの花が飾られていました。つんできたばかりのように、生き生きとしています。こじんまりとはしていますが、とても清潔な感じのするお店でした。
「こちらの名物が、いなりずしだと聞いたものでね。ちょっと寄らせてもらったんだ」
夫が話しかけました。
「ありがとうございます。では、おいくつ、さしあげましょうか?」
娘さんも、うれしそうにたずねました。
「六個にしようか」
夫は、わたしの方を見やりました。
けれどもわたしは、わざと知らん顔をしていました。
どうしても素直になれないのです。
「どうしたんだい?」
「ぜんぜん、おなかすいてないもの」
そっけなくこたえたつもりなのに、おなかの方が勝手にグーと鳴いてしまいました。
「なるほどね」
夫はうなずき、六個注文しました。
「おなかがすいてるとな、小さなことにも腹がたってくるものだよ」
さっきのことなど、とうに忘れてしまったかのように、にっこりとほほえんでみせるのです。
小さなこと?
ぜんぜん小さなことじゃないわ!
「ねえ、くやしくないの?」
そう言い返そうとしたとたん、お茶と、いなりずしのお皿が、わたしたちの前に運ばれてきました。
「どうぞ、ごゆっくり」
娘さんがもどったあとで……。
わたしたちは、しばらくお皿から目を離せないでいました。すぐに手を出す気分になれないのです。
「これ、なんなの?」
わたしは、お皿を見つめて言いました。
「いなりずしだと思うよ」
「でも……」
「なんか、ちがうよな」
「うん、ぜったいちがうわよ」
顔をつきあわせて、ひそひそとささやき合いました。
お皿に入っているそれ。それはまさに、真っ黒な六つのカタマリだったのです。
「ちょっと食べてみようか」
夫は、そっと口に運びました。
「どう?」
わたしは、夫の顔をのぞきこんでたずねます。
夫は、口をモゴモゴさせながらこたえました。
「うん、だいじょうぶ。いなりずしにまちがいないよ。ほら、おまえも食べてごらん」
そこで、わたしもおそるおそる、口に入れてみました。
たしかにいなりずしの味なのですが……。
なんとも甘みのないおあげです。それにかためで、パサパサしているのです。
「おあげがかたいわ。それに甘さもないし……」
そうつぶやいたところへ、娘さんがお茶のおかわりにと、急須を運んできました。
「いかがですか? 当店名物のお味は?」
娘さんは、湯飲みにお茶を注ぎながら、自信にあふれた笑顔でたずねました。
「うん、なかなかの味だね。でも、どうしてこんなに黒いんだい?」
お茶をすすり、三つ目に手をのばしながら夫がたずねました。
「当店では、黒砂糖を使って、三日近くかけておあげを煮込むんです。すし飯にも黒酢を使います。仕上がりは黒いのですが、甘さを抑えているので、二個目、三個目と食べていただくにつれ、おいしさが増していくのですよ」
さも当然といわんばかりに、娘さんはにっこりとほほえんだのです。




