⑰背中のぬくもり
背中のぬくもり
どれほどの時間がたったでしょうか。
ゆっくりと、顔をあげると……。
腰までとどきそうな、うるわしい黒髪をもち、美しい微笑みをたたえた女性が、わたしを見おろしていたのでした。
もしかして、このお方は、稲荷大神さま? ああ、白キツネの店に現れたのは、この方だったのだ。
野ギツネ夫婦が、心でしか拝見できないと話していたのは、きっと大神さまのことだったのでしょう。
あの時、娘のいなりずしを食べた夫は、素直にそのおいしさを認めました。
白キツネの娘は、文句を言ったわたしを、ちゃんと受け入れてくれました。
それなのに、わたしときたら。
わたしには、ようやくわかったのです。自分だけが、のけものにされていた理由が。
大神さまのことばが、静かに心の中に流れてきます。
―そこのタヌキよ。わたくしにも、そなたの母の味を供えてはくれぬだろうか。
ー恐れ多いことでございます……。でも、あのいなりずしは、とても大神さまにお供えできるものではないのです
不思議なことに、心の中で申し上げているはずのことばが、大神さまには、ちゃんと伝わっているのでした。
―それでもかまわぬ。そなたが母を思い出して、一生懸命作ったことは確かではないか。
ーでも……わたしは……。
わたしは、大神さまを見上げ、とまどうばかりでした。
その時でした。わたしの背中に、たしかなぬくもりが伝わってきたのです。
すべての迷いをとりのぞいてくれるような、大きい手のぬくもり。
それは、まぎれもなく夫の手でした。
わたしのことを心配して、あとを追ってきてくれたにちがいありません。
ー大神さま。お供えさせてください。私もいっしょに、お参りさせていただきますから。
わたしの横にひざまづくと、夫は大神さまの方を向いて、はっきりとそう申し上げました。
「さあ、行こう」
そして、優しくわたしの腕をとったのです。