どしゃ降り
最近、休日の楽しみがひとつ増えた。我慢して辛くてかったるい早起きなんかしなくてもいいこと、これはもとから。そしてもうひとつ。
重い目蓋を開けたら、この子の寝顔があること。ほんの少し手を伸ばせばほっぺでも鼻でも、唇でも触れられる距離にいる。寝てるから起こすのは可哀相かな、と思うより早く顔に触れていた。
「んん……」
寝息が乱れたけど、起きる気配はない。良かった、まだもう少しこの可愛い寝顔を見ていられる。しかし喜んだのも束の間、彼女は目を開けてしまった。
「……おはようございます、茜さん」
「まだ寝ててもいいんだよ。遠慮なんかしなくていいから、さっさと二度寝しなさい」
「いやです、変なことしそうだから」
私が何をするつもりなのか、この子はお見通しだった。まあ、そうなるよね。でもガードが硬いから、なかなかさせてくれない。
寝起きとは思えない軽やかさでひょいとベッドから飛び起き、体を伸ばす。シャツがめくれて可愛らしい窪みが見えた。朝からちょっとした幸せである。本当に、ちょっとだけね。
「ラッキー、碧のお臍見ちゃったぁ」
すると碧は伸ばしていた腕をいきなり下げて隠してしまった。どこ見てるんですか、と恥じらう。こういう感覚を私は忘れてしまったと思う。まあ、仕方ない。この子からすれば私はお姉さんであり、私からすればこの子は年下である。
私だってまだ20代の半ばまではいってない。乙女の恥じらいというものを忘れるには早すぎるのだが、やはり高校生には勝てない。でも、こういうのは勝ちとか負けとか、野暮だから。
「そんなところ見られたくらいで赤くなるなんて、まだまだ子供ね。じゃあこれからもっと色んな事しちゃうぞー」
「きゃあぁ変態が起きたー、こっちに来るー誰か助けてー!」
私がずっと寝てるままだと思い込んでいたのか、簡単に碧を捕まえることができた。腕の中から逃げようとするけど、簡単に放してやるつもりはない。今日はいっぱい困らせてやるのだ。
肩にあごを乗せて、ちょっとエッチな言葉なんかを囁いてみる。すると碧はびくん、と胸板を強ばらせて不安そうに私を見つめる。でも、半笑いだから本気で怖がってはいないだろう。
「君もだいぶお姉さんに体を許してくれる様になってきましたね」
「そういう言い方はやめてください」
「お、うっ」
不意に喉をぐにゅ、と押し込まれ思わず嗚咽してしまった。不意のセクハラにも対処できる様になってきて、お姉さんは嬉しかったりする。生意気になってきた、ともいえるかもしれない。
「AカップがGカップに逆らっていいなんて法律は無いのよ?」
「Bです、何度も言わせないで下さい。それに、大きいからって威張っていい法律もないはずですけど……」
こんな子供みたいな会話でも、碧と大切な時間を過ごしているのは変わらない。私が彼女と初めて出会った、いや、拾った日はどしゃ降りだった。
私がこの子を拾ってここに連れてきた。出会ったというよりは、その方が正しい。もしかしたら、一目惚れだったかもしれない。
「痛い!」
雨で目の前がよく見えない中、なんの警戒もしないまま家路を急いでいたあの日。いきなりつまづいて盛大に転んだ。目の前の水溜まりに派手に飛び込み、胸までびっしょり濡れてしまった。
いったい何に足をとられたのかと思いきや、そこには女の子が足を投げ出して座り込んでいた。近頃のコンビニは不良だけでなく女子高生までいるんだな、と関係ない事を思ってしまった。
それはさておき足を取られた事を叱ろうとしたが、出来なかった。傘をさしてるならまだしも、雨に打たれるまま座り込む彼女は、何だか穏やかではない様子である。
「あ……だ、大丈夫、ですか?」
ようやく私が転んだ事に気付いたらしいけど、思わずその言葉を返してやりたくなるくらいびしょびしょになっていた。時刻は、確か夜の7時過ぎだった。なるほどね、と心の中でつぶやく。
「あんたこそ大丈夫なの?」
ひっついた前髪を分けると、そこには美少女がいた。雨に体温を奪われ顔面は真っ白くなってて、今すぐ保護しないと危険な状態だった。怯えた目で私を見上げているが、もし家出してきたのなら無理もないかもしれない。
「立てる?」
「は、はい……」
彼女は傘立てに手をつきながらなんとか立ち上がった。良かった、体力はまだあるみたい。
「歩けそうだね。おいでよ、近くだから」
「えっ? ど、どこに?」
「私の家。今は私しかいないから。ほら、早くしないと風邪ひくよ」
変質者だという自覚はあった。だって、普通は道端の女の子を家に連れて帰らないから。後から碧に聞いたら私を誘拐犯だと思ったらしい。
命の恩人になんてことをほざくのだろうか、この女は。頭に来たのでその時は泣くまでくすぐりまくってやったけれど、それはまた別の話。
家につくなり私は着ていたものを全て脱ぎ、洗濯機に詰め込んだ。碧は遠慮して上がらなかったから、半ば強引に連れ込んでバスタオルで全身を拭いてやった。
「これ、着替えね。場所がお風呂しかなくて悪いけど、早くその服脱いじゃった方がいいよ」
「…………………………」
碧は私の顔をじっと見つめたまま、口を半開きにして固まっている。時折目線が少し下がるので、どこを見てるのか分かって面白かった。無駄に大きいからそういうのはすぐ気付いてしまう。
これも後から聞いたんだけど、初対面で会ってすぐ全裸になった人は初めてらしい。言っておくけど、どしゃ降りだからそうなっただけ。私は変態でも露出狂でもない。でも、碧はいくら言っても信じてくれなかった。
しばらくして、着替えた碧が出てきた。自分の部屋着を他人が着てるのはなんだか新鮮だった。さて、どうしよう。一目惚れしたとはいえ、勝手に連れてきちゃったけど。
「あ、あの……お名前、なんていうんですか?」
「茜。君は?」
「じゃあ、茜さん……服着てください」
まったくもってその通りだったので、苦笑いしながらその辺にあったものを身に付けた。
「さて、ご飯にしますかね。何か食べたいものある?」
「………………いえ、特には」
「そう、じゃあ出された物は食べるのね。カレーあっためるから座って待ってて」
碧はその場へ座り込んだ。拭いたとはいえ今は濡れて艶をなくしてるけど、それでも綺麗な長い黒髪。正座だったので、崩してもいいよと言ったら女の子座りになった。たったそれだけの仕草だけど、思わず抱きしめたくなる程可愛らしい。
よほどお腹が空いてたのか、私よりも早く食べ終わってしまった。ご馳走さまでした、と微笑んだ時、私は今夜帰さないと胸に誓った。この子を苦しませた彼氏を許さない。
「私はこれでも一応女だからね、あんたの味方だよ。どんなひどい彼氏なのかここで吐きなさい。ほんの少しでもいいから」
「えっ?! か、彼氏? そうじゃ、ないです」
「そうだよね、分かる。あんな男は自分に相応しくないんだって、うん。お姉さんもここしばらくご無沙汰だからさ、私達は仲間ってわけ。さあ、どんなひどい男なのか言いなさい」
「いや……その……勘違いしてますよね? 喧嘩したんですけど、彼氏じゃないです……」
どうやら、碧はお兄ちゃんと口論になったらしい。それも好きな食べ物の事で。仲良しだったのに今日に限って機嫌が悪かったらしく、怒鳴られてショックだったとか。
「お兄ちゃん、今日はなんだか怖くて……」
碧は不意に声を詰まらせ、目を潤ませる。話して少しでも気持ちが軽くなればと思ってたけど、これじゃ逆効果だ。私はとっさにお尻を浮かし、滑り込む様に碧の背中に抱き付いた。
「あっ、茜さん?! 何してるんですか?」
「ごめん……嫌なこと思い出させちゃったね。やっぱり無理して言わなくていい」
最初は体を縮めてたけど、時間が経つにつれて緊張はほぐれていった。少なくとも悲しませるために、わざわざ自宅まで連れてきたんじゃないはずだ。何やってるんだろう、しっかりしなきゃお姉さん。
「…………優しいんですね、茜さん」
しばらくして、碧が呟いた。もう落ち着いたらしい。でも、安心はしていない。暗くなるまでどしゃ降りの中、地べたに座り込んでた姿を見たら、簡単には離してやれない。
「ごめん、まだ名前聞いてなかった」
「碧、です」
「似合ってるね。綺麗な名前だよ」
「ありがとう、ございます。あのぉ…………あ、茜さん……言いにくいんですけど……」
遠慮がちではあるけど、きちんと言いたいことは言う。初対面で感じた印象は今でも変わらない。
「……当たってます……さっきから。は、恥ずかしくて……」
どうやら、密着した時の感触というのは、男はもちろんのこと、女の子であっても気になってしまうものらしい。ずっと背中に押し付けられてて、なかなか言い出せず困ってたみたいだった。
「お姉さんのGは気持ちいい? 碧はいくつあるの?」
「…………ノーコメント、です」
誓った通り、私は碧を帰さなかった。せっかく拾ったんだから簡単には帰したくない。今日と同じ、その日は休みの前日だった。でも翌日、服が乾いたら碧はさっさと帰ってしまった。
またいつでも来なさいと言ったら、たぶんもう来ないと思います、と深くお辞儀をしたのは覚えている。結局はこれが最後ではなく、最初になったんだけど、つまらないだけの現実を生きなきゃいけないんだから、たまにはこんなサプライズがあったっていいはずだ。
「え、うそ?!」
窓ガラスを叩く激しい雨。ほんのついさっきまで晴れてたはずなのに、どしゃ降りである。その様はまるでいきなり機嫌を損ねてしまった人間みたいだった。でも、八つ当たりはしちゃいけない。
「どうしよう茜さん、今日のデート台無しだよ」
泣きそうな顔をこちらに向ける碧。その気持ち、私も分かる。会えるのは週末だけだもんね。せっかく予定を立ててきたのに。
テレビをつけたら今日は1日大雨だという天気予報が流れ、私達の落ち込んだ気持ちに追い討ちをかける。これでもかという程の台無し日和になってしまったけど、私は自分なんかよりも碧が悲しむ方がずっと辛い。
「はいはい、泣かないで碧」
「子供扱いしないでください……」
包み込む様に後ろから抱き締める。私は大して背がある方じゃないけど、碧は私よりも小さくて痩せている。だから余計にほっておけない。こんな時は、気持ちを切り替えればいいのだ。
「だっ、だから子供扱いはやめて!」
ぽん、と頭に触れる。でも本当にしたいのはここからだった。
「そうね。そろそろ子供みたいなのは卒業してみようかな」
腕の中で碧の体を回した。そして、ぷっくりしたピンク色の唇を塞ぐ。ちゅぷ、と唾液が擦れる音がした。ああ、もうダメかも。お姉さん、早くも我慢できないかもしれません。
たまに悪戯でやってたキスだけじゃもう押さえきれそうにない。今度は少し強く碧の唇をはむっとあま噛みしてみた。すると、胸を押される。これは愛撫じゃなくて、拒否の合図だろう。認めたくなんてないけど。
「…………変態」
上目使いでお姉さんを睨む碧。そうね、そうよね、やっぱりお子様には刺激が強かったかしら。
「…………て、ください」
「えっ? なんて言った? ごめん聞こえなかったんだけど」
「もっ…………て、く……い」
「だから聞こえないよ。もっと大きな声で言ってくれなきゃわかんないってば。ちゃんと分かる様に言いなさい、碧」
「………………て、くだ……さい」
何度かお願いしてるのにまるでわからず、碧は加の鳴く様な声で話し掛けてくる。このままじゃらちが明かないので、仕方なくもっと聞こえる様に顔を近づけてみた。
そして、やられた。
ちゅくっ、という私の唇を噛むやらしい音がする。碧は頑張って私の舌をくすぐりながら、唾液をこすり合わせ、しばらくして唇を離した。
「お返しです、茜さん」
まるで勝ち誇ったかの様な、生意気で憎たらしい笑顔。でも、髪に隠れてる真っ赤な耳が見えた。碧にしてはよく頑張った、と誉めておこう。それより、機嫌が治って良かった。
「よーし、わかった。オッケーって事ね。じゃあさっそく」
「えっ、待ってください、待って!! まだダメです、そこまでは!! 心の準備が整ってません、やめてください!!」
「そのつもりでやったんでしょう? 碧はお姉さんがどれくらい変態なのかわかってないなぁ」
「た、助けて、誰かー!!」
まだいただくつもりはない。もう少し碧と気持ちを重ねてからでも遅くはないと思う。
碧と出会って、休日の楽しみが増えた。ひとつは寝起きで碧の寝顔を見ること。
そしてもうひとつ。急に雨が降ってきたとしても、残念どころかそんなアクシデントであっても、一緒に楽しめる相手が出来た、という事だ。
~おしまい~