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木漏れ日が揺れる舗装されていない山道を、美月はほぼ全速力のスピードで走り抜けていく。
漸く山道が終わりに差し掛かった時、目当てのバスがバス停に停まっているのが見える。が、無情にもバスはあと数百メートルといったところで走りだしていった。
「ま、待って待ってぇ!」
悲鳴に近い声を上げながら後を追うも、山道を下りきった時には既に遅し、バスの姿は見えなくなっていた。
「はぁ、はぁ……げぇ、遅刻だ……最悪……」
肩で息をしながら頭を抱えてその場に座り込むと、不意に道向かいから声をかけられる。
「美月? そんな所で何してるんですか?」
「え……? ハル……!?」
美月が顔を上げると、こちらへ向かって歩いてくる少年の姿が目に入る。
サテンの様に滑らかな光沢を放つ栗毛色の髪が穏やかに風に揺れ、香水とは違うどこか花にも似た匂いが鼻孔をくすぐった。ハロルド・ペンドリー。そんな彼の名前が、彼は日本の生まれではないことを如実に物語っている。ともすれば、彼の人目をひく整った顔立ちも大いに納得ができた。
ハロルドは四年前、この水澄に引っ越してきた。
何でも天竜家とペンドリー家は互いの曽祖父の代から交流があったとかで、彼が天竜家にやってくる事はさして珍しいことでも無かった。――無いのだが、朝のこんな時間に彼がここにいるというのはいくら何でもおかしい。
美月は焦ったようにハロルドの肩を掴んで激しく揺すった。
「は、ハル何やってるの!? こんな時間にこんなところにいたら遅刻だよ!?」
「は、はい!? あ、あの美月! ちょっと落ち着いて!」
「落ち着いてられないよ! こ、こうなったら二人で先生に謝ろう! そしたら叱られるのも二分の一で済むし!」
「美月! 何を勘違いしてるか知りませんが、今日は日曜日ですよ!」
ハロルドの言葉に、美月は石のように固まる。
「……日曜日?」
「はい」
「……学校はお休み?」
「ええ」
たっぷりの沈黙のあと、美月は盛大にため息を吐いてその場に崩れ落ちた。
「うっそー……! じゃあ私の勘違いー……!?」
「まあ……そのようですね」
ハロルドが苦笑をしながら美月に手を差し出す。その手を取って立ち上がりながら、美月は肩を落とした。
「ううー……じゃあここまで来たの完全に無駄骨……」
「というより、昨日は土曜日だったでしょう? 何で今日が月曜だと思ったんですか」
「よ、よくわかんない……。ただ今朝起きた時、直感的に今日は月曜だ! って思っちゃって」
「はぁ、そうですか。相変わらず美月はユニークを通り越してキテレツな思考回路をしていますね。こういうのが頭ピーカンというやつでしたか」
「あの、笑顔で言われると傷つくから……。笑顔じゃなくても傷つくけど……」
ハロルドの全く悪意のない天使のような笑顔とともに放った言葉が、美月を撃ちぬく。ハロルドは全く意識せずこういう事を言ってくるのだから、尚さら質が悪い。学内で「天使のM500」などとあだ名されて恐れられているのもよく分かる。至近距離で喰らえば流石の美月もハートブレイクどころか色々とぶちまけそうである。
そうして、何度目になるかわからないため息を吐きながら、美月は元きた道を引き返し始めた。その隣に並んで、ハロルドも歩き始める。
「それにしても、二日連続でウチに来るなんて珍しいね。どうしたの? 忘れ物とかだったら届けに行くのに」
「いえ、今日はまた別の用事ですよ」
そう言って穏やかに笑うハロルドを見て、美月は首を傾げた。
美月の父である仁は地質学者で、その筋では有名らしく、ハロルドも週末毎にやってきては仁から色々と教わっているらしいが、それ以外の用事で来ることはとても珍しかった。
「別の用事? 用事って?」
「美月に会いにですかね」
涼しい顔で微笑むハロルドに一瞬見惚れてしまったが、美月は慌てて首を振る。
「もう、やめてよ。ハルってばいっつも冗談で誤魔化すんだから……」
「――案外冗談じゃないんですけどね」
小声で何事かをハロルドが呟いた時、木立の隙間を縫うように吹いてきた風が辺りの木々をざわめかせ、ハロルドの言葉をかき消した。美月は目を瞬かせてハロルドの方を見る。
「え? 何か言った?」
「いいえ、何も」
笑顔できっぱりと言い切るハロルドの語調は、これ以上の追求を許してはくれそうにもない。四年も付き合いがあれば、それくらいのことは察せるようになってくる。美月は諦めて別の話題を切り出すことにした。
「そういえば、今日はリタさん一緒じゃないの?」
リタはハロルドの付き人をしているメイドの女性だ。いつもは常に傍に控えているのだが、今日は何故かその姿が見当たらない。
「リタは野暮用で外しています。買い物か何かでは?」
「ふぅん……?」
またもや要領を得ない説明に、美月はますます首を傾げる。まあ、ハロルドが気にも留めていない様子なので、この話題もこれ以上広がることはないだろう、と一人納得して美月は家の門をくぐった。
「あ。そういえばね、ハロルド」
思い出したようにハロルドの方を向いて声をかければ、ハロルドも首を傾げながら美月の方を見やる。
「はい、何でしょう?」
「今日、何だか不思議な夢を見たの」
「夢ですか?」
「うん、頭はライオンで体が人間の……えっと、そういうの何て言うんだっけ」
必死に、記憶の中から今朝夢に見た『それ』に似つかわしい単語を引っ張りだそうと唸っている美月の声にかぶさるように、ハロルドが口を開く。
「獣人、でしょうね。でもそれがどうかしたのですか?」
「あ! うんそれ! そのライオンの獣人と一緒に踊る夢見たんだよね」
「獅子の獣人……」
何かを考え込むように黙り込んだハロルドの顔を、美月は怪訝そうな表情で覗きこむ。
「どうしたの?」
「……いえ、何でも。ところで、どうして急にその話を?」
「え? どうしてって言うか……何だか凄く気になっただけなんだけど……」
問いかけたつもりが逆に問い返され、美月は思わずしどろもどろになる。何故その話をしたのかと聞かれても、明確な答えはない。
確かに、変な夢はたまに見る。花火に襲われたり、巨大なトカゲに追いかけられたり、コップで溺れたり。
だが今日の夢はとにかく気になったのだ。そう、まるで……。
「……まるで現実みたいだった、っていうか」
「現実?」
「うん。まず状況が全然現実っぽくないけど、何だか凄くリアリティがあってね」
「ふむ……」
ハロルドは暫く黙ってから、やがて大きく頷く。
「なるほど、ミツキは感受性も豊かなんですね」
「え?」
「夢にリアリティを感じるというのは、芸術家肌の人によくありがちなんだそうですよ」
「そ、そういう事なのかなぁ……」
ハロルドの言葉は妙に納得行かないが、この夢についてこれ以上議論することもないし、そもそも議論をするような夢でもない。
自分の中でそう結論づけて、美月はため息を吐きながら玄関の戸を開けた。
ふと、妙な違和感を感じて美月は辺りを見渡した。隣のハロルドが不思議そうに美月の顔を覗き込む。
「どうかしたんですか、美月?」
「……いや、何だか変な感じがして」
「変? 貴方が変なのは割といつもの事ですよ」
「ち、違う! そういう事じゃなくて! 何かこう、落ち着かないっていうか、ざわざわするっていうか」
「うん、それもいつもの貴方ですね」
「わ、私じゃなくて! もっと、こう、周りの空気っていうのかな……」
「空気?」
「うん……。説明しづらいんだけど、見えない誰かが騒いでるっていうか」
「……今日は夜から雨という予報も出ていますし、きっとそのせいでしょう」
多少の気になる間の後に、ハロルドが微笑みながらそう告げる。確かにそうかもしれない、と無理矢理自分に言い聞かせ、美月は先に歩き出していたハロルドの後を追った。