堕ちる者
暗い部屋に窓はなく、電球がむき出しの光源が一つ。冷たいコンクリートの床と壁、部屋の広さは四畳半ぐらいだろうか、その部屋の中心でヨキは膝を抱えて俯く。サイに斬られた傷が痛み、さらに体を丸くした。
「うぅ…」
自分の呻き声が部屋に反響する。音の逃げる場所がないようにヨキにも逃げる場所はない。扉は一つだけ、鍵を閉められて出ることは出来ない。扉を破壊しようという気力はなく、部屋でうなだれることしか出来なかった。
「雨月…」
今すぐにでも彼に会いに行きたいが、その気持ちに呼応するように左の鎖骨下にある【服従の印】が痛んだ。この印のせいでサイに逆らうことは出来ない。【服従の印】により嫌でも体が命令に従うようになってしまったのだ。どうすることも出来ない、この印から逃げる方法は一つしかない。
扉が開き、サイが中に入って来た。ヨキはゆっくり顔を上げるとサイの目を見たが、すぐに膝を抱えてうずくまってしまう。そんな姿を満足そうにサイは見下ろした。
「気分はどうだ?ヨキ」
ヨキはうんともすんとも言わず、ただ黙り込んでいる。
「鬼として生きることを決めたか?」
「…俺は、人間だ」
目を合わせることもなくヨキは答える。【服従の印】は命令こそ聞かせることは出来るが、心までは操れない。サイはその答えに目を細めて舌打ちした。
「まだそんなこと言っているのか。お前は鬼だ、俺と互角で戦った…それこそが何よりの証拠じゃねぇか」
「なんて言われようが、俺は鬼じゃない。気に食わないなら命令でもすればいいんじゃない?俺はそれに従うしかないわけだし」
その言われ方が気に食わなかった。なぜここまで鬼を拒否するのか、どうして自分を受け入れないのか、サイにわかるはずもない。サイはしばらく黙ったがヨキは一向に顔を上げることはなかった。
ヨキの体は手の中にあるのに、そこにヨキの心はないのだ。体は捕らえることが出来ても心は捕らえることが出来ない。それにサイは腹が立った。
思い通りにならない、弟分に。
「そうかい、そんなにチビのことが好きかい」
「…愚問だろそんなの。答える必要もない」
サイはその言葉を聞いて部屋を出た。重たい扉が閉まる音の後、すぐに鍵を掛けられた音がする。
「雨月…どうか無事でいて」
静かに手を組んで雨月の無事を祈ることしか、今のヨキには出来ない。
どうして、どうして。サイは苛立って机の物をぶちまける、物が落ちる音と割れる音がしたがお構いなしに机を叩き割った。自分がどうしたいかなんてわからない、どうしたかったのかもわからない。
ただ、ヨキが。人間を好きになることが許せなかったのかもしれない。俺を兄と慕ってくれた弟分、彼は俺を信じてくれていたし俺も彼を信じていた。どうして人間として生きる?どうして人間なんて愛す?どうして俺の言うことを聞かない。
モニターの中でひっそりと膝を抱えて動かない弟分を睨んだ。こうして捕らえているのに、心は手に入らない。
「…手に入らないなら」
サイはゆっくりとリモコンに手を伸ばした。
「え?」
ピクリと耳が動いてヨキは立ち上がる。急に体を動かしたせいか、脇腹に痛みを覚えて足がふらついた。倒れそうになったが壁に背中を預けてヨキは無理にでも立つ。
この音、この音は…ヨキの嫌な予感は当たり、部屋の天井から壁を走るように水が流れ始める。
「あぁ、いや…いやだ!」
水が床を埋めて、くるぶしのほどの深さになるには瞬きする間もなかった。水を掻き分けるように歩いてヨキは扉に縋りついて叩き続けた。
「出して!お願い!!ここから出して!!」
しかし、扉が開く気配はない。扉のドアノブを無理矢理に回して引っ張って、泣き叫ぶように声を張り上げた。そんなヨキに構わず水位を増していく。腰辺りの深さになり、ヨキは涙目になりながら扉に向かって叫び続けた。
「水だけはっ、水だけはぁ!お願い出して!!」
窓がない部屋にもちろん水の逃げ道などない。ヨキの叫ぶ声は虚しく、電気を消されて真っ暗な世界になってしまう。それがさらにヨキをパニックにさせた。
「出してっ!!出してよ!!」
「手に入らないなら、壊せばいい」
サイはモニターから響くヨキの叫び声を聞きながらそう呟いた。心が手に入らないなら壊せばいい、壊して作り直してしまえばいい。
「ヨキ、お前は本当に馬鹿だよ。どうしてそんなに水が苦手になったのか、よく思い出すといい」
サイは腕を組んで弟分の叫び声に目を閉じた。
***
「サイ、テン。新しい仲間だよ」
金髪に片目だけが赤い目で奇妙な姿をしたクソガキ。最初の印象はそうだった、本当にそれだけ。俺は関わるつもりなんかなかったし、興味もなかった。
ただヨキは赤目を持った俺に興味を持ったようで、隙があれば俺に話し掛けて来た。
「サイ兄ちゃん」
「またお前か。今度はなんだよ」
「サイ兄ちゃんみたいに強くなりたいんだ、ねぇ俺に稽古つけてよ」
「い、や、だ、ね」
べーっと舌を出して、追い払ったがあまりにもしつこくて叩きのめした。気絶して動かなくなったヨキを見つめながら少しやりすぎたかと反省する。
「…なんでそこまで強くなりたいんだ、こいつ」
俺に嫌な顔をされても、叩かれても蹴とばされてもどんなに追い払われても。どうしてこんなにも頼み込んでくるのか、わからなかった。
興味本位にヨキの頭に触れる。俺には人の記憶を覗く力があった、だから覗いてやって理由でもわかればと思っていた。
どうせ、珍しい姿でいじめられたから。いじめっ子に仕返しをしたい。そんなバカみたいな理由だろうと思った。
彼の記憶を全て見た後、俺は心の底からこいつに同情した。
***
モニターから水の音としかしなくなった頃。サイは静かにリモコンのボタンを押して部屋の中の水を排出させる。一分も掛からず部屋から水が抜かれると部屋の電気を点けた、びしょびしょで力なくヨキが倒れている。しばらくして、ヨキは激しく咳をして飲んでしまった水を吐き出していた。荒い息をして床にうずくまって泣いているヨキを見て、サイは目を細める。
「憎いだろ、こんなことする俺が」
自分の声は部屋にいるヨキには聞こえない。
「でも、そのトラウマを植え付けたのはお前の両親だろ。ヨキ」
「はぁ、はぁ…出して。ここから出してよ…」
濡れた服が体に纏わりついて体を重くする。寒くて暗くて、苦しい。
あの時と同じだ。あの時と…あの時と。水の音。また水の音がする。ヨキは震えながら、また流れ込む水に襲われる。
「お願い、出して…ここから出してっ…お願いだから」
そうして、また水に呑み込まれて。
ヨキは暗い水底に引き込まれていった。
***
『疫病神っ』
そう言われて母親に突き飛ばされた。母親の手の感触が背中に残っている、突き飛ばされて俺は川に落ちた。川に流されて水面に手を伸ばす、泡だけが浮上して自分は沈んでいく。バタバタと暴れても、水が自分を真っ暗な川底へ引き込んでいく。昨晩降った雨が川の勢いを強くしているのか、子供の自分は泳げることもなく溺れた。
母さんが俺を突き飛ばした。
鼻から口から水が入り込んで息が出来ない。そんな苦しさよりも母親が川に突き飛ばしたことの方が胸を裂いたように苦しかった。どうして?なんで?俺が、俺がこんな姿になったから??
疫病…神…?
疫病神、疫病神。その言葉が重りになる。俺のせいで、父さんと別れたから。みんな失ったから。
だから、俺が悪いんだ。俺がこんな姿になったから。だから、だから。
***
「げほっ、げほっ…うぅ」
再び目を覚まして水を吐き出す、荒い息をしながら冷たい体を起こした。目を覚ました途端に部屋に水が流れ込む、ヨキはもう立ち上がることが出来ず水に呑み込まれるだけ。
「う、づき…」
すっかり冷え切った体に自分の涙がこぼれた。涙の熱はすぐに奪われて、ただの水に変わる。
また水が自分の呼吸を奪う、ヨキは目を閉じて水の底に沈んだ。
***
「目が覚めたか?」
「もう…ゆるして…」
力なく倒れたままヨキはサイに言った。何度水の中に沈んだんだろう、時間がどのくらい経ったのかもわからない。体の感覚が遠のいて、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
「…くるしいの、もう。もういやだ、たすけて…たすけて」
「意識が朦朧とするだろ?水責めは結構好きなんだ、俺」
意地悪く笑うサイにヨキは許してほしいと足に縋りつく。
「で、聞かせてもらおうか?俺と一緒に鬼として生きるか?」
「…いや、いやだ。おれは…人、だから」
「へぇ、まだ言うか。水の中にまた沈められたいか?」
ヨキは泣きながら首を横に振る。サイは「はぁ」とため息を吐いてヨキを睨んだ。ヨキの心を支えている柱はまだ黒髪の少年のようだ、だから人間で居たいと願っている。それを自らの親に捨てられたトラウマで崩してやるつもりだったが、上手くいかない。
「図太い奴だ。だったら、お前が一番堪えることをしてやるよ。最終手段だ」
「…え?」
これ以上辛いことなんてあるのだろうかと、酸欠の頭で考えたが思いつくはずもない。
「ちょっと待ってろ。食事の時間だ」
しょくじ…?嫌な予感がした、ヨキは逃げようとしたが体が上手く動かない。水で体力を奪われたのか、トラウマで動けなくなってしまったのか。手と足、頭と体まるで別々になってしまったように噛み合わない。そんなヨキを横目に見て、サイは部屋を出て何かを引きずってきた。
「ほら、とっても美味しそうだろ」
引きずって来たのは雨月と同じぐらいの年齢の少年だった、ガムテープでぐるぐる巻きにされ、動けないまま泣きながらこちらを見ている。
「なにを…」
ヨキは後ろへ下がる、部屋の壁まで下がってヨキは首を横に振った。怯える少年の目にヨキも怯えた。サイが何をしようとしているか、そんなのことすぐわかった。
「食えよ」
「いやだ、食べるわけないだろ!」
「命令は絶対だろ?逆らうのか?」
体が震えて、ヨキは首を嫌だ嫌だと振ったが体が勝手に動いた。少年に手を伸ばして肩を掴む。
「やめてっ、人なんて、人なんて食べたくないっ!!」
叫ぶヨキとは真逆にヨキの体はサイに操られ、少年を羽交い絞めにする。首筋に顔を近付けて、口が無理矢理開き噛みつこうとしている。
「こんなことするぐらいならっ、こんなことするぐらいなら死んだ方がマシだっ!!」
一瞬の隙を突いてヨキは自分の戦器を呼び出す。白い刀で自分の首を斬ろうとした瞬間に、サイはヨキの顔面を蹴った。ヨキはそのまま壁に頭を打ち付けて意識を失ってしまう、ヨキを見下ろしてサイは舌打ちした。
「まだ逆らうか。まぁいい。時間ならたっぷりある、嫌でも自分から食べに行きたくなるさ」
そう言って餌の少年を部屋に放置したまま、サイは外に出た。
***
「…うっ」
額から鼻に掛けて顔が痛み、ヨキは目を覚ました。蹴り飛ばされた時に鼻血が出たのか、鼻下に黒い酸化した血の痕が出来ていた。鼻をすすると、血の味が口に広がってヨキは「はぁ」とため息をした。
少年の呻き声がして、ヨキは少年を見る。ガムテープでグルグル巻きにされたまま横に倒れていてヨキを見ていた。ヨキは少年の目から逃れるように背中を向けて膝を抱える。
少年の目は自分をバケモノとして見ていた、その目に胸が痛くなって胸を押さえる。
「バケモノ」
鬼の里で師匠と一緒に暮らしていた時、鬼の子供たちから向けられた目と同じ。
人間の世界に来ても、この異様な姿で引かれてしまう。
俺は好きでこんな姿になった訳じゃない。
好き好んでこんな目になったわけでも、こんな髪の色にした訳でもない。
どうして?
俺ばっかりこんな目に遭うの?どうして?俺は何か悪いことをした?
みんなと同じように生きたかった。みんなと同じように、愛されたかった。
母さん、どうして俺を捨てたの?
父さん、どうして俺から逃げたの?
なんで、なんで俺ばっかりこんな目に。
誰にぶつけていいかわからない怒りが沸々とこみ上げてヨキは静かに膝を抱えて目を伏せた。
***
あれから水が流れ込むことはなくなり、同時にサイが部屋に訪れることもなくなった。窓がないせいで今何時かわからない。あれからどれくらいの時間が経ったのか、わからないままだ。
「…お腹空いた」
ヨキはポツリと呟いた。空腹で頭が痛くなって、吐き気すらした。水の恐怖に体力を奪われて、もう残っていないのだろう。最後に食べたものは…雨月と食べた朝食だろうか。
ちらりと少年の方を見た、少年は恐怖のあまりか意識を失っている。
「…」
お腹空いた、お腹空いたと。頭にぐるぐるとその言葉が廻った。
「何考えてるんだ、俺…」
その考えを振り払うようにヨキは頭を振った。しかしそれは振り払われることはなく、ヨキの頭の中にこびりついている。お腹が切なく鳴ってヨキは顔を顰めた。
「…駄目だ俺は人間だ、人間を食べるわけには…」
そう、言い聞かせているのに。ヨキの目は少年を捉えることをやめない。よだれが出て、息が荒くなった。この少年を食べてしまいたい、そう体が訴えているように。
「食べる、わけには…」
自制が利かなくなっていく食欲、鬼にとって食欲は厄介なものだった。鬼は人間よりも身体能力が高い故に人間よりもよく食べる。ヨキもその特性を体に宿していて、時間は決まってはいないが一日五食が基本だった。よく食べる、そう人間の友達からは笑って言われたが。これを一食でも抜くと…
「たべ、るわけ…には…」
その友達が美味しそうと、思ってしまう。それが怖くて怖くて人間の食べ物を食べ続けた。
「…」
ふと、少年は目を覚ました。ヨキは驚いて後ろに下がったにも関わらず、少年はヨキに怯えた。
そこで何かが切れた音がした。そうヨキには聞こえた。
多分、理性というやつなのだと思う。どうして切れたのかはわからない。
ただ、少年の目が未だに「来るなバケモノ」と言っているような気がしたからだと思った。
俺は好きでバケモノになったわけじゃない。
普通で居たかった。普通になりたかった。
どうして。
どうして、そんな目で見るっ!!
誰にぶつけていいかわからない怒りが、おそらく理性を断ち切ったのだろう。
ヨキが我に返った時。
もう、全てが遅かった。