忠誠と服従
時刻は日暮れ時、皆家に帰ろうと道を急いでいる。雨月はその波に逆らうように走っていてビルを目指した、ビルが大きくて迷うこともないが不安が動きを遅くさせる。
(ヨキに何かあったのかな…天野さんに連絡した方が…)
それが頭をぐるぐると巡る。速く行かなければと足を速めようとするが、やはり天野と連絡を取った方がいいのかもしれないとその勢いが緩まる。
(でもやっぱり先に行ってみた方が早い、天野さんを余計に心配させてしまうよりそっちの方が)
雨月がさらに速く走った。
高層ビルを見上げると首が痛くなる。ガラス張りの大きな入り口からビルの中に入るとビジネススーツを着た人やおしゃれな格好の女性が多く、高校生の自分が入ることに抵抗があった。目立たたないように壁際を歩きながらビルの階層案内を見る。有名なオフィス事務所や、レストラン、美術館など階層によって店や事務所などが開かれているようだ。
「…あれ」
この案内図、屋上への案内は書かれていない。どうやって行けばいいのだろうかと雨月が困っていたところにエレベーターが到着したので乗り込んでみることにした。エレベーターには自分だけが乗っていて、扉が静かに閉まる。
「やっぱり屋上にはいかないんだ」
ボタンに屋上行きを示すRの文字がない、とりあえず最上階のボタンを押して降りてみた。降りた階は映画館だったようで入口から少し暗めの空間が広がっていて、夜からの開場待ちをしているカップルが多い。
スマホが震える。雨月は取り出して画面を見るとメールが届いていた。差出人はヨキだった。
『最上階の非常口を開けておいたよ。そこから屋上においで』
非常口?雨月はきょろきょろと辺りを見回して見ると天井に非常口の案内が点灯している。それを辿って映画館の受付広場を抜けた。非常口と書かれ、防火用の重たい扉の前に雨月は立つ。ドアノブを回して扉を押し、ゆっくり開いて見ると階段があった。ここを上がっていけば屋上のはずだ、雨月の足が速まる。
屋上の扉を勢いよく開いて、辺りを見る。真っ暗な空にビルの光が広がっていて足元は暗くない、屋上には何もないことがすぐにわかった。そして誰も居ない。
「ヨキ?」
彼の名を呼びながら屋上の真ん中に歩いて行く。屋上に物影はない、誰かが隠れているとは考えられない、そう思った時だった。
「ほぅ、ヨキが人間に入れ込んでいると思って呼んで見たら…まさか男だったとはなぁ」
低い声に雨月は振り返る。いつの間にか雨月の後ろには男が立っていて雨月を見下ろしていた。
「だ、だれ?」
「俺?俺はこいつの兄弟子。あぁ、破門されたから元だけど」
赤い瞳がこちらを見てニヤリと歪む、雨月はゆっくり後ろに下がると何かが足に当たった。後ろに振り返ると足元に…何かが転がっていた。
「ヨキ!?」
血だらけで弱ったまま動かないヨキを抱き起して肩を揺する。一向に反応がなく意識を失っているようだった。呼吸はしているが浅く、弱々しい。雨月は男を睨む。
「ヨキに何をしたの!?」
「ピーピーうるさいな。少し遊んでやっただけだ、殺しちゃいないさ」
「なんでこんなっ、あなたにヨキが何したって言うんですか!?」
雨月の質問に男の表情は一気に豹変する、それと同時に空気が張り詰めて肌がピリピリとした。その気迫に圧倒され雨月は生唾を呑み込んでしまう。
「ヨキは俺を裏切った。俺はヨキに力というものを教え込んでやったわけだが、鬼としてではなく人間として生きてやがる」
「…それのどこが裏切りだって言うんですか?」
「俺はなぁ、鬼として生きて行くための力をこいつに技として叩き込んだんだ。ヨキ自身もそれを望んだ、だからこそ俺は教えてやったんだ。なのにこいつと来たら俺が破門されてから人間の世界で人間として生きてやがるんだ。これが裏切りでないなら、なんだというんだ?」
「そんなのヨキが決めることで、あなたが決めることじゃない!!」
雨月の叫び声にヨキが弱々しく目を開く、雨月の服を必死で掴むと掠れた声で雨月に言う。
「う、づ…き」
「ヨキ、大丈夫!?」
「にげ…にげ、て」
雨月の目の前に刀が突きつけられる。
「こんな人間の何がいいんだか」
「やめて、兄貴…雨月は関係ない…」
雨月の腕の中で呻くようにそう言ったヨキに男は目を細めた。
「関係ない?お前がなんで人間やってるのか、その目と態度でわかるよ。このチビに惚れてるんだろ?」
男は声を荒らげてさらに続けた。
「ヨキ、俺はお前がここまで馬鹿だと思わなかったよ。自分の母親と同じ選択をするとはな。人間を愛した挙句にお前を産み落とし、その結果…どうなったか、お前が一番分かっているだろうに。本当に馬鹿な奴だ」
その言葉にヨキは顔をうつむけた、返す言葉がないらしい。
鬼だったヨキの母親は人間の世界に来て人間の男と結婚した。そして自分が鬼であることを隠しヨキを生んだ。しかし嘘は隠し通すことは出来ず…結局、男は自分の子供から逃げ出し。母は別れる原因となった彼を捨てた。
ヨキから聞いたことだ、この男の言うことに間違いはなかった。しかし雨月はその言葉にどうしても納得がいかなくてヨキを静かに横にして、立ち上がる。
「兄としてあなたを慕うヨキにどうしてそんなことが言えるんですか…ヨキとヨキの両親のことは関係ないはずです。それに、俺は鬼だろうが、そのハーフだろうが…ヨキからは逃げません」
「ほぅ、チビには話してたのか。じゃあヨキが何者であるかもわかってるわけだ」
「ヨキはヨキです。鬼の子でも、人間と鬼のハーフでも、そんなことで変わらない」
「へぇ、じゃあヨキを殺そうとする俺からも逃げないわけだな?だって大切な人なんだろう?」
そう言って男は刀を振り上げる。
人間は逃げ出すと思っていた。誰だって自分の命が惜しいはずだ。戦いに慣れていない人間でもわかるような殺気、殺意を向けて自分の言葉は嘘でないと証明しているのに雨月は逃げなかった。
逃げない雨月を睨みつけ思い通りに動かない彼に低い声で問う。
「…どうして逃げない」
「あなたの言った通り。ヨキが俺にとって大切な人だからです」
「愛…?そんなくだらないもの…何の役にも立ちやしないっ!」
男の視線がヨキに移る。その動きを雨月は見逃さなかった。
「どうして…どうしてお前だけっ!」
同じ赤い目を持っていて、同族からも嫌われて。
どうしてお前だけが好かれる。どうしてお前だけが幸せになる。
仲間だと思っていた、兄弟だと思っていた。でも。なんで、お前だけ愛されるんだ。
男の振り下ろされた刀の先には雨月が居て、ヨキを庇った。
「う…雨月?」
赤い血が飛び散って。ヨキの耳には何の音も届かない。無音の世界に少年一人が倒れていて、少年の倒れている屋上の地面を赤く染める。少年はピクリとも動かない。
そして、ヨキはようやく理解した。少年は自分を庇い、兄弟子に斬られたのだと。
「庇ったか、人間にしては良い度胸してるじゃないか」
男は返り血を指で掬い舐め取る。雨月の血の味に感嘆の声を漏らした。
「へぇ、こりゃすげぇ。男でも夢中になるのがわかる。少し勿体ないことしたな」
男の言葉なんて届かない。ただ、広がる雨月の血の匂いと色に目を見開いたまま動けなかった。
心臓の音が次第に自分の耳に届く、自分の心臓の音のはずなのに他人の物のように音が大きい。体が熱くなり、呼吸は速くなる。そうして、自分の世界が心臓の音と呼吸の音に支配される頃、ヨキは立ち上がった。
赤い血の色だけしか見えなかったぼやけた世界に焦点が合い、ヨキは男を睨む。
「もう、あんたを兄だなんて思わない」
戦う力、鬼の力。呼び出すは戦う意志を形にした…心の武器。ヨキはその手に戦器を持った。
黒い刀と白い刀、二本の刀が光り男を威嚇する。
「そうだ、その目を待っていた。鬼の目だ」
男は嬉しそうに刀を構え直すとニヤリと笑った。そんなことはヨキにはどうでもよくてヨキは一気に距離を詰める。そのスピードに刀を乗せて下から斬り上げ、男の首を狙って来た。男は刀でそれを防ぐが、ヨキの二本目の刀が男の腕を斬った。ビッと赤い線が男の腕に引かれてその返り血がヨキの顔に掛かる、男は腕ならくれてやると笑ってヨキを蹴り飛ばす。
蹴り飛ばされたヨキはすぐに受け身を取り、また男に斬り掛かる。
さっき戦った時と動きは雲泥の差、完全に男を殺しに掛かって来ている。
それが男には嬉しかった。
横一線にヨキは刀を振り、それを男は避ける。避けたところを二本目の刀が振り下ろされたが刀で受け止めた。
「良い顔してるぞ、ヨキ。お前のガキの頃を思い出す」
「黙れ」
受け止めている男の刀を叩き割ろうと振り上げた瞬間に、受け止めていた刀を引きヨキの顔を目掛けて斬り上げた。ぎりぎりで刃先を避けたがヨキの頬を斬り裂いた、そのまま刀をヨキの胴体目掛けて振り下ろそうとしたがヨキはそうはさせないと刀で防ぐ。刃と刃がぶつかり、火花が飛べば嫌な金属音が鳴る。
男は自分の刀に体重を乗せると瞬時に飛び退く。そうして瞬間的にヨキの態勢を崩させるとヨキの腰から肩にかけて斜めに斬り上げた。
完全に入ったと思った、しかしヨキは体を仰け反らせて間一髪で避ける。
油断した男にヨキが一閃叩き込もうとした時。
「…ョ、き」
誰かの掠れた声がヨキの耳に届く。動揺し、振り返ってしまったヨキを男は蹴り飛ばした。受け身が取れず、転がったヨキはすぐに立ち上がって掠れた声の元へと走る。
「雨月!?雨月俺がわかるか!?」
戦器を投げて、血だまりの中で沈んだように倒れていた彼を抱きしめる。
「ヨキ…?ヨキ…大丈夫…?」
意識が朦朧としているのか、雨月は焦点をどこに合わせているかわからない目で辛うじてヨキを見ていた。斬られた自分よりヨキのことを心配しているようだがそれどころではない。
雨月は斬り殺されたと思っていた、ヨキは泣きながら彼を抱きしめたが。それが一瞬で地獄に変わる。
血が止まらない。
雨月は右肩から左腰あたりまで胸側を大きく斬られていた、そこから溢れる血が止まらないのだ。手で必死に押さえても止まらない、辺りを見回しても止血に使える物なんてない。
「くそっ」
上着を脱いで傷口に押し付け、血を止めようとした。上着が一気に赤く染まり、止まらない血が恐怖としてヨキの心を刺す。
そこへ男が後ろから歩いて来る。
「なんだ、生きてたか。でもその傷じゃ…もう助からないな」
男はヨキの後頭部に刀の先を向ける。ヨキは振り返らず雨月の止まらない血に震える手で止血の処置をし続けた。
「何しても無駄だ、お前の力じゃ」
「…」
ヨキは振り返り、男をしばらく睨んだが。睨むのを止めて目を閉じる。
「お願いします、雨月を助けてください」
そうして頭を下げる。
「何の真似だ?」
男はヨキの言いたいことをわかった上で問う。ヨキは頭を上げずに地面に頭をつけたまま彼に言った。
「雨月を助けてください。俺には治癒能力がないから、だから、助けてください。雨月を死なせたくないんです」
この男にはキキと同じく人の傷を癒す力がある。傷を塞ぐことなんて一瞬のはずだ、事態は一刻を争う。ヨキは唇を噛み締めながら地面を睨んだ。雨月をこんな風にした男に助けを乞うなんて、悔しくて仕方がなかった。
「へぇ…いいよ」
男はヨキの髪を掴んでぐっと顔を上げさせる、悔しそうに唇を噛んだ跡が残っていてヨキの口からは血が流れている。男は腰を下ろしてヨキの視線と自分の視線を合わせて言った。
「お前が俺に【忠誠】を誓うなら」
「…」
鬼の世界にも【忠誠】という言葉がある。
人間の言葉では【忠誠】とは心の底から君主や国に尽くすことを意味する。つまり、国または君主を信じ尽くすことがこの言葉を示す意味なのである。
鬼の世界では違う。
鬼が鬼に誓う【忠誠】は絶対に主人に逆らわないことを意味する、その関係に信頼関係はない。
下僕に変わりないのだ。
「どうする?迷っている時間はないと思うけどな」
ヨキが雨月に振り返る、意識を失って力なく横たわる真っ白の彼に残されている時間はもうない。
「わかった、だから。だから雨月を助けて」
「聞きわけが良い弟だな、でも最初から俺の言うことを聞いていればこんなことにはならなかったんだぞ?」
男はにこりと笑ってヨキの髪から手を離す。その手を雨月に向けると、ゆっくり傷を撫でるようにして治してしまう。
「雨月っ」
彼に触れようとしたヨキの手の前に刀が振り下ろされる、寸で手を止めて男を見上げた。
「勝手な真似するな、お前はもう俺の持ち物に変わりねぇんだから」
「…はい」
ヨキに刀を向けると、左の鎖骨下にぐっと刃先を突き立てる。痛みで顔を顰めてヨキは呻いた。
「うっ…」
「さて、誓いの儀といこうじゃねぇか。まず、戦器を体に突き立てるだろ、次はお前の番だ。ヨキ」
「…私はこの戦器に忠誠を誓います」
目を伏せてヨキは震える声で言った、これでもう戻れない。男の刀から黒い鎖のようなものが現れてそれがヨキの体に纏わりつく。それが消えると男は刀をヨキから引き抜いた。左の鎖骨の下には黒く痣になっている、それが模様に変わりヨキは目を細めた。
「これで完全にお前は俺の物ってわけだな」
満足そうに男は笑ってヨキに手を伸ばした、ヨキはその手を取らず立ち上がり静かに雨月を見下ろす。傷を治したとはいえこの量の出血は人間にとってみれば危険だろう。
「もう一つお願いが」
ヨキの言葉に男は振り返る。
***
「はいはい、大人しくしとけよお前。往生際が悪いんだよ!暴れんなよ!」
暴れる不審者を押さえ込んでいるところにスマートフォンが震えた。舌打ちし、後輩を呼んで「押さえとけ」と言って変わってもらうと長い振動を起こしているスマートフォンを取り出す。通知している画面には電話の文字が出ていて相手はヨキだった。ため息をして電話に出る。
「もしもし、お前なぁ。今仕事中なんだよ、一応警察官だからな?」
「…」
返事が返ってこない。自分から電話を掛けておいて、と天野は少し声を荒らげた。
「おい、こら聞いてんのか?」
「天野のおっちゃん。ごめん」
「…どうした?なんかあったのか?」
涙声の弟分に天野の体に緊張が走る。電話の向こう側の声はヨキの声で間違いはないが聞いたこともないような涙声だった。
「…俺、俺っ」
「今どこにいる?今から行くから言え」
「ロゼルシャルタンのビル…屋上」
ヨキの声に混じって強い風が聞こえるのはそういうことか、しかしなぜそんなところに。そう思いながら天野は返事をした。
「わかった、今から行く」
後輩に本部に引き継いでおくように言い残して天野は走り出した。
幸いにもロゼルシャルタンのビルは近くにあって、天野はエレベーターに飛び乗った。最上階まで向かい、屋上に出る扉をすぐに見つけて屋上に向かう。春に向かう気候の風は強く暖かい、目を凝らして屋上を見た。
「ヨキ!」
雨月を抱えたままヨキは振り返る。天野ははぁはぁと荒い呼吸をして様子を見た。ヨキは血を流したのか被ったのか、酸化しきってどす黒くなった血の痕があった。雨月には血の気がなく、彼の服は真っ赤のままだった。
「何があった!?」
ヨキは黙ったまま天野に雨月を預けるように押し付けてきた。天野は雨月を落とすわけにはいかないために抱きとめる。ぐったりしたまま目を覚まさない雨月は冷たくて今にも息が絶えそうに弱くなっている。
「よう、テン。久しぶりだな」
ヨキの後ろからぬっと手が現れて抱き寄せる相手がいた、その顔も声も天野もよく覚えている。師匠と対立して破門された自分の兄弟子だった男。
「サイ…お前、ヨキに何をした!」
「おいおい、これでも一応兄弟子だったんだぜ?そんな言い方するなよ、テン」
「破門されたあんたを兄と慕ってるのはヨキぐらいだ、そのヨキに何をしたか聞いてるんだ!」
怒りで叫ぶ彼にサイと呼ばれた男は得意気に笑ってヨキの服を引っ張る。ぐっと引っ張られた服の襟元の隠されていた左鎖骨下の辺りに奇妙な模様が浮かび上がっている。天野はそれを見てさらに怒った、その模様は鬼の中でも残酷な歴史を生み出した負の遺産そのものであったからだ。
「お前っ!何したのかわかってるのか!?」
「怒るなよ、ヨキは俺の物だって証明しただけだろ?」
「ふざけるな!【服従の印】を弟分に付けるなんて考えられない!!」
昔、鬼が鬼に【忠誠】を誓わせると称して行っていた儀式。しかし実際には【忠誠】ではなく【服従】として行われていた儀式である。今は禁忌として四鬼が取り締まっている。自分の師が取り締まっている禁忌を使う元兄弟子に天野は腸が煮えくり返る思いで詰め寄ったがサイは余裕の表情で返す。
「おっと、殴り掛かるなよ?チビが死んでもいいならそれでいいけど、ヨキが困るよな、なぁヨキ」
ヨキは黙ったまま頷き、ゆっくりと口を開いた。
「天野のおっちゃん。雨月を頼む」
「そういうことだから、テン。弟のお願いだからしっかり守れよ?」
サイは指笛を吹くと、どこから現れたのかカラスの大群がビルに集まる。
「テン、追っかけて来てもいいけど。今すぐチビを病院に連れて行ってやらないと多分死ぬぜ?あそこの血だまりチビの血だから。人間って本当に脆いからなぁ、ヨキとの約束守ってやれよ。じゃあな」
サイがそう言って手を振るとカラスが集まり黒い渦を作る、その量に目を伏せてしまい…再び目を開けた頃には。
雨月と天野だけが屋上に居るだけだった。