好きっていう意味
「俺、きっと雨月のことが好きだ」
そう、ヨキは雨月を抱きしめ返してきた。その言葉が耳に入ってからしばらく雨月は固まったまま動けずにいた。聞いた時は驚いたが時間が経つと人の好意が自分に向いたことを嬉しく感じた。
今まで誰からも認めてもらえなかった、好かれなかった、その透明な世界に色が付く。ヨキの色、赤い色。その赤い好意が、自分に向けられたことが本当に嬉しかった。
それと同時にその感情から生まれた気持ちに雨月は戸惑っていた。この気持ちに素直になっていいのか、それがわからないのだ。
でも。
雨月はそれを受け入れるように抱きしめる腕に力を加える。黙ったまま、でもきっと気持ちは伝わっているのだろう。ニ人はそのまましばらく抱き合った。
なぜだろう。涙が止まらなくて、鼻をすすった。同情の果ての愛情か、傷の舐め合いか。そんなことはわからない。でも今は。今だけはその愛情に縋ってもいいのだと雨月は静かに思った。
「俺もだよ、ヨキ」
***
「クソが!!あいつ今度会ったら絶対に倍返しだ!」
声を荒らげながら兄が言う、俺はため息を吐きながら兄に言い返した。
「やめろよ兄貴、みっともない。親分だって花神は相手にしたくないんだろう」
「うるさい愚弟。人間混じりに一発貰った俺の気持ちがわかるか?」
盛大に壁に叩き飛ばされたのに兄はピンピンしている、ただプライドの方がズタボロだが。他人の心を読む力でそれはよくわかる。怒りで溢れかえった心の中を覗くのは疲れるので止めた。
「ルサもラゼツとも仲がいいな」
「親分!なんで手を引いたんですか!?」
俺と兄が話していると後ろから声が掛かる。濡れた髪をタオルで拭きながらニ人を眺めている親分は柔らかく笑っていた、そこへ兄が詰め寄る。
「人間混じり程度、俺たち三人なら大したことないでしょう!」
「落ち着けラゼツ、お前はすぐ頭に血が昇るから困る。まぁ飲め」
風呂上りで薄着の親分は椅子に座ると酒瓶をドンと兄の前に置く。兄は酒瓶を取ると黙ったまま蓋を開けた。
「ルサも飲め、今日は止めたりして悪かったな」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ルサも酒瓶を受けると兄と同じように蓋を開ける。親分は苦笑を浮かべて話し出した。
「花神の弟子だからな、私も迂闊に手を出せないんだ」
「…正直親分でも花神の相手は厳しいんですか?」
ルサは思い切って聞いてみた。正直、親分よりも強い鬼をルサは知らない。その親分が恐れるということは…花神はかなり強い鬼なのだろう。
「花神には勝てないなぁ。おじょーさんって遊ばれて、勝てやしないさ」
親分は一瞬真顔に戻ったが、また苦笑しながら返した。そしてそのまま酒をラッパ飲みする。ルサもラゼツも納得がいかない顔をして同じように酒を飲んだ、親方がおじょーさんと呼べるなんて想像ができないほどの実力に納得がいかないのだ。そんなことを知らず親分はふぅーっと満足そうにため息を漏らして言葉を続けた。
「花神は変わった鬼でな、孤児を引き取っては育てる鬼で。ヨキもその1人ってことだ」
「それは知ってますけど…」
ラゼツとルサにはそれがよくわかっていた。ヨキをいじめている時にふらりと現れる満面笑顔の鬼、今思い返せばその鬼が花神だったのだろう。もっとも、その笑顔が怖すぎてみんな逃げ出したために真実は定かでないが。
「四鬼と呼ばれる鬼の1人だからな、私でも太刀打ちができない。しかし噂だが…花神を超える弟子が破門されたと聞いたことがあるな…」
「そんなことはともかく!俺はとにかくヨキと戦えればいいんですよ!」
親分の話を遮り、ラゼツは乱暴に酒瓶を机に叩き付ける。その音に目を細めて親分はラゼツの意図をはっきりと突いてきた。
「全く、お前の場合はあの少年の血肉が食らいたいだけだろう」
「うっ」
ラゼツは図星だったようだ。ルサもラゼツの心を覗いたが親分が言ったことが彼の本心だ。相変わらず、親分には頭が上がらないと兄弟揃って思う。
「たしかに、あれは美味しかったからなぁ…私ももう少し味わいたかった」
親分は酒を飲み、口惜しそうに舌なめずりをする。
「ふふ、別に諦めてなんかいない。また機会があれば…狙うさ」
***
「んん…」
ふと目を開けると、ヨキの顔があって雨月は静かに瞬きする。ソファーで猫のように体を丸めて二人で眠ってしまったようだ。顔が近くて、彼の吐息が掛かる。
『俺、きっと雨月のことが好きだ』
その言葉がいきなり頭に浮かんで恥ずかしくなった。
好き…って。好きってどういう意味なんだろう。冷静になって考えてみれば、ドンドン恥ずかしくなった。ヨキにとって好きってどういう好きなんだろう。家族とかの好き、友達として好き。
…恋人として好きってこと?
わからない。ヨキが何を考えているのか。俺をどう思ってくれてるのか。
知りたいと思って彼の寝顔に顔を寄せた。
…じゃあ、俺は?家族としてじゃない、友達…とは違う気がする。
じゃあ、俺は。俺はヨキのことを…
「うわぁあぁぁ!!」
ドンとヨキを突き飛ばしてソファーから落とした。恥ずかしくて、心臓の音がとてもうるさかったのだ。それを隠そうと彼を突き飛ばしたが、今思えばなんでそんなことをする必要があったのか…自分でも謎である。
「んぁっ?何するんだよ…」
頭から落ちたのか、ヨキは起き上がりながら頭を撫でた。顔を真っ赤にした雨月が慌ててヨキに返す。
「だって…だって近いからっ!」
「んん?あ、嫌だった?雨月温かいからさ。つい」
少しシュンとしたヨキは立ち上がると自分のスマホを見ながら目を見開く。
「げっ!日付変わってる!キキから電話が!」
そう言い焦りながら電話を掛けている。繋がるなり怒鳴られているのかヨキはスマホから少し耳を離した。その後、事情を説明するために雨月から距離を離す。言い争いになっているのか段々声が大きくなっていく、ヨキは雨月に振り返り「ごめん」と言いたそうな顔をしながら手を挙げて部屋を出た。
おそらく会話の内容を聞かれたくなかったのだろう。一人になった雨月は弾む胸を押さえながら、呼吸を整えていた。そして問う、自分自身に。答えなんて自分しか知らないのに。それなのに、どうしていいかわからず心が締め付けられた。
「俺は…ヨキのことが」
その後、ヨキの提案でヨキの家にまた泊めてもらうことにした。理由としては怪我で動けない雨月を放っておけないことと、この時間に帰る理由を妹のキキに説明することである。
ヨキが雨月を背負い、歩いて行く。空は明るく朝焼けが見えた。一体何時まで寝ていたのか、と二人で呆れて笑ってしまった。
ただ家に帰ってきたら、玄関に仁王立ちして待っていたキキを見て2人とも黙ってしまった。
「…き、キキ、ただいま」
背負ったままヨキは笑う、キキは表情を崩さず低い声で返す。
「とりあえず、雨月君を降ろしたら?治してあげるから」
「あ、ありがとう」
雨月を玄関に降ろすとキキが近付いて来る。噛まれた傷を診ると話しながら雨月の傷に触れた。
「兄ちゃんから色々聞いた。なんか、勘違いしてごめん。兄ちゃんの目を綺麗なんて言ってくれたなんて、本当に嬉しかった」
少し腫れている傷をゆっくり撫でる。
「力抜いて、少し痛いけど。動ける程度にはするから」
キキは目を閉じて、ゆっくり開いた。目は赤く輝いているように思えた。ヨキの右目と同じ、でもそれは一瞬ですぐに黒い瞳に戻る。雨月がキキの触れた傷を見ると塞がっていた。
「どうやって…」
すっかり塞がった傷を自分でも触れるが、痛みは全くなかった。キキはふっと自慢げに笑い雨月の質問に答える。
「兄ちゃんの力と同じで私にも変な力があるのよ。ただ、あんまり連発できないんだけどね…」
ぐらりと揺らぐ妹の体をヨキが支える。
「大丈夫か、キキ」
「ん、もう。大丈夫じゃない。明日休むぅー」
甘えたような声を出してヨキに身を預け、ニヒヒと意地悪く笑う。笑ってはいるが顔色が悪く、額から汗が流れていた。ヨキは「よっ」とキキを軽々と抱え上げる。
「わっ、兄ちゃんっ!やめて、恥ずかしいー」
「はいはい、早く寝よう。明日学校休んでいいから」
パタパタと暴れるキキを二階まで運ぶ際にヨキは雨月に振り返る。
「雨月ちょっと待ってて。キキ寝かしつけるから」
「え…うん」
しばらくするとヨキが頭を掻きながら降りてきた。心配そうな顔をしていて落ち着きがない。雨月はゆっくり立ち上がると歩いてみる、キキの力のおかげで歩いても痛くなかった。
「キキちゃん大丈夫だった?」
「多分大丈夫。熱出る前にちょっと薬飲んだりなんだりしてきたから」
「そっか。なんか、悪いことしちゃったね」
「…いや。キキが望んでしてくれたことだから。でも、なんか雨月のこと少しわかってくれたから良かったよ」
そう苦笑いしてヨキが言う。雨月もつられて笑うがそれは少しの間ですぐに真顔に戻ってしまった。
「ヨキ、目は大丈夫なの?」
「ん?大丈夫だよ?」
ヨキは前髪を掻き分けると目を見せる。白目は充血していてまだ痛々しい、雨月が触れようとするとヨキはその手を止めた。
「…やっぱり痛いの?」
「バレた?」
「もう、強がらなくてもいいのに」
雨月がそう言った時、ヨキがゆっくりと寄り掛かって来る。力が抜けてしまったのか、彼の体重が自分の体に掛かった。受け止めるように彼の背中に手を回す。
「ありがとう、どうも…兄貴やってると気張っちゃってさ」
「いいよ、寝る?」
「少し、寝ようかな。雨月も寝るでしょ?」
雨月の返事を待たずヨキはいきなり雨月を抱き上げる。
「えっ、ちょっと!?」
「えへへ、一緒に寝よう」
さっきのキキと同じく、抵抗など空しくがっちりと抱えられていた。
「ねぇヨキ」
「ん?」
笑顔の彼に雨月は問う。
「ヨキ、俺のこと好きって言ってくれたよね?それってどういう、意味なの?」
「んー…全部言わなきゃわからない?」
ヨキが少し頬を赤らめて質問で返す。雨月が言葉を返す前にヨキは口を開いた。
「だからさ」
そのまま顔を寄せると唇を重ねてくる、しばらくすると顔を離した。
「ヨキ…っ」
「わかった?」
ヨキは意地悪く笑って皆まで言わなかったが雨月は静かに思う。自分がヨキを想う気持ちとヨキが自分を想う気持ちに差異がないことを。
そしてしばらく狭いソファーで二人、寝転がった。人の肌の温かみを感じながら、心地よい寝息を聞きながら。ヨキのことが好きなんだなと実感しながら。ヨキの隣で眠った。
***
結局、次の日は学校に出ることにした。制服はヨキの家にあったし、学校の持ち物も最低限なら鞄の中にあったため行けないわけではなかったのだ。
「本当に行くの?休んじゃえばいいのに」
ヨキは心配そうにしていたが雨月は首を横に振る。
「大学みたいに無断で休むわけにはいかないよ。それに…学校に家族のこと感づかれても困るしさ」
鞄を持って雨月はヨキの家を出る。
「送ろうか?」
「ううん。ここからなら学校すぐに着くし」
雨月が外に出るとヨキはついてきた。雨月は振り返り、不安そうに話し掛ける。
「ねぇ、ヨキ」
「ん?」
「また…ここに帰ってきていい?」
自分の家に帰ることがもう嫌だった、帰りたくないと思ってしまった。あんな寒いところよりも、赤く温かいヨキの隣に帰りたいと思った。だから、訊いてしまった、こんなこと訊くなんてどうかしてるんだろうけど。
それでもヨキは優しく笑って、答える。
「いいよ。帰っておいで」
「ありがとう」
***
帰る場所があるのは凄く楽で。嬉しい。学校に行く足取りも軽く感じた。もうあの家に帰らなくていい、待っていてくれる人が居る。それがとても嬉しかった。
「…あれ?」
おかしいな、ここさっきも通ったような。きょろきょろとあたりを見回したが、通学時間帯なのに人が全然居ないのだ。ぞっとしてスマートフォンのロックを外し、地図のアプリを見てみるが圏外で使い物にならない。
「…おかしいな。もう大通りに出るはずなのに」
ヨキの家は大きな通りのすぐ側にある。しばらく歩けば大きな道に出るはずだ、なのに。
「ふふ、おはよう。迷子の子猫ちゃん」
女の声、雨月は冷や汗を浮かべた。誰もいない十字路に立ち、あたりを警戒する。
「誰っ?」
まさか、鬼?そう思った時、思いもしなかった言葉を投げ掛けられた。
「あなた、ヨキのなんなの?」
「え?」
黒い風を纏い、現れたのは自分と同じぐらいの背の少女だった。赤い髪をなびかせて鋭い目で雨月を睨んでいる。いきなり近付いて来るかと思えば、下から覗き込んでくるように雨月をじろじろと見ている。値踏み、まさにその言葉がぴったりだ、採点するようにぶつぶつ何か言っている。
「…ふぅーん、ヨキってこういう子の方が好みなんだ」
「誰なの?」
「あたし?あたしはミラギ。ヨキの恋びっ」
そう自慢げに言った瞬間に綺麗に吹っ飛んだ。ぜぇぜぇと大きく息をしながらヨキが雨月の傍に立っている。どうやら彼女を蹴り飛ばしたのはヨキのようだ。
「はぁはぁ、雨月、大丈夫…?」
「う、うん…」
雨月が困惑しながら瞬きをしていると蹴り飛ばされたミラギはむくりと起き上がる。
「え~ん、ヨキヨキ痛いよ~、優しくしてよ~」
蹴り飛ばされたというのに目を輝かせてヨキを見つめている。まるで少女漫画のヒロインのようだがヨキは彼女のことをばっさりと切るように強く言った。
「うるせぇストーカー。雨月に触んじゃねぇ」
雨月を後ろに下げミラギを睨んだ。しかし三人の鬼と戦った時のような殺気はない。なんというか…コミカルに動いている気がした。ヨキとミラギに何があったかは知らないが、悪い関係ではないような気がするのだ。雨月はミラギとヨキのやり取りを見ていることにした。
「絶対にあたしの方がこの人よりヨキヨキのこと好きなのに。あ、あたしが女だから!?だから、好きじゃないの?じゃあ、男になればいいんだ!」
「違うわっ!俺は別に男だから好きとか、そういうんじゃないんだよ!」
「え!?じゃあ、あたしと付き合うチャンスくれるの!?」
ぱぁーと明るく笑う彼女にヨキは近付いて真っ黒に笑って言った。
「それは、絶対ねぇよ」
そのまま彼女を投げ飛ばすと彼女は姿を消した。なんだか本当に漫才みたいだと雨月は警戒を解きながら拍子抜けする。
「ヨキ、今の人…だれ?」
「えぇーっと話すと長いんだけどさ」
ヨキが指を指して学校の道を教えてくれた。そうして歩きながら彼女の話をすることになって、ヨキは困ったように言う。
「あれはさぁ。昔ここら辺一帯を牛耳ってた奴でミラギっていう鬼なんだけど。俺が倒したらなぜか知らないけど、ストーカーされるようになってて。困ってるんだよね」
あーっと雨月が納得する、彼女がヨキに惚れたということだ。
「そうなんだ」
「あいつの戦器が鏡だから。そういう面倒な力があるんだよ。あ、ほらあれが本当の通学路」
ループしていた道が元の姿に戻っている。雨月を惑わせていたのは彼女の力ということらしい。
「せん、き?」
「鬼が使える武器のこと。戦う意志を器にしたものって言われてるけど、鬼によってそれぞれ違うんだ」
「ヨキも使えるの?」
軽々しく、そう訊いてしまった。ヨキは足を止めて少し俯く。雨月は振り返り、黙ったままの彼を見つめた。彼は少し小さな声で返す、悲しそうに笑って。
「…使えるよ。でも、あんまり使いたくないんだよな。でも強い力だし、いざって時は…ね」
そう言い終えると歩き始める。雨月の手を取ると悲しそうな表情を消して笑顔で言った。
「俺が雨月を護るよ、心配しなくていいから」
彼に手を引かれて大きな通りに出る。自分と同じ制服の人たちが学校に向かって歩いていた。ヨキはゆっくり手を離す。
「ここまでくれば大丈夫かな?帰り迎えに来ようか?」
「ううん、今日はささっと帰って来るから。大丈夫だよ」
「そっか、気を付けて。あ、そうそう」
ヨキは思い出したように雨月に何かを差し出した。それはお弁当袋のようで中にはお弁当が入っている。袋の底に手を添えて受け取るとまだ温かい、急いで作ってくれたようだ。
「これ、あり合わせで作ったんだけどさ。よかったら食べて。でもよかった、お弁当渡そうと思ったら…まさかミラギが雨月に接触してるとはね。本当に何もなくてよかった、ちょっかいだすなんて…」
ちょっかい、確かに。そう静かに笑ってしまった。
ミラギは雨月を食べようとしていたわけではなく、ヨキの心を掴んだ雨月に興味と嫉妬を抱いていただけだったのだから。それは雨月でもなんとなくわかっていた。こういう鬼も居るんだと、思い出し笑いをしてしまう。雨月の笑顔を見たヨキもそれはわかったようでそれ以上、ミラギについては言わなかった。
「ありがとう、俺…いつもコンビニで買ってるから。お弁当なんていつ以来だろう」
「だろうと思った。じゃあ、いってらっしゃい」
ヨキに手を振って通学路へと歩いて行く。
もう、透明なんかじゃない。色味のない自分の世界は遠く感じた。ヨキの色、貰った色で生きていく。もう…透明なんかじゃないんだ。
でもそれは。
カラフルな日常の始まりではなく。
鬼と人の戦いが始まる合図だったのだと。
気が付くのは、また随分先の話になる。