遅過ぎた助け
『鏡尾さん、ご両親は?』
担任は困った顔をしながら雨月に問う。なんで三者面談なんてあるんだろう。面倒臭い、そう思いながら雨月は顔を上げた。
『二人とも出張なんですよ。他の親族は遠方に住んでますし…』
そう言葉を濁した。担任は少し黙っていたがゆっくりと返してきた。
『そうなの…困ったわね。三者面談なのに。いつ帰って来られるのかしら?』
知るか。二度と帰って来ないだろうと雨月は思った。二人揃って自分を捨てたのだ。迎えに来るはずもない。
『そのうち…ですかね』
乾いた笑みを浮かべて、そう返した。
***
暗い…冷たい、ここは…。
「うぅ…」
動こうにも動けず呻くことしかできない。目を開けているのに視界は真っ暗のまま。手は後ろに縛られていた。足も縛られている。動けるわけがない。
「なんで…」
なんでこんな目に遭うんだと叫びそうなるが、自分の置かれている状態がわからないために言葉を飲み込むしかない。冷たい床に倒れていたのか体の芯から冷えきり、鈍く痛みを感じる。
「もうやだ」
なぜ襲われるのか、その理由がわからず雨月は静かに言葉を漏らした。誘拐する利点がわからないのだ。恨まれているわけでもなく、金品を要求するわけでもないはずだ。
目的は自分自身。だから意味がわからない。上玉…一体、なんのことなんだろう。
「…」
でもまぁ、と。心の中で呟く。
(どうせ。心配してくれる人もいないし)
家族も友達も居ない。だったら何も怖くないじゃないか。自分には何も無いし、何も残らない。
しかし、何故か。
金髪の青年が頭の中に思い浮かぶ。確かに、彼は自分を助けてくれたが。なぜ何も無いと思ってた自分に、彼が思い浮かぶのか。
理由がわからぬうちに部屋が明るくなる。眩しさに目を細めたが、すぐに明るさに慣れた。そうすると、ようやく自分がいた場所が檻の中だとわかる。まるで動物園の飼育小屋のようにたくさん檻のある部屋には自分以外にもたくさんの人が居て雨月は驚いた。
それと同時に異様なその光景に息を飲んだ。
皆うつむき、うなだれ、目を合わせようとはしない。生きているかどうかもわからなかった。女性や子供が多く、複数人で檻の中に居る。雨月は「なぜ、こんなことを」と思考を巡らせていると誰かが部屋の扉を開けた。
「お目覚めかな?うちのやつが手荒な真似をして済まないね」
檻の中に入って来た者をゆっくりと見る。スラリとした女性だ、しかし雨月の身長よりも大きく肩幅も広く感じた。髪は長く、綺麗な黒い髪に白いメッシュが入っている。年は…おそらく二十代、といったところか。口元のホクロが妖艶さを出している。
雨月は横目で彼女を睨みながら言葉を放つ。
「じゃあ、縄を解いてください」
「いいよ、ただ…君が絶望するだけだと思うがね」
彼女はすんなり縄を解いてくれた。その素直さを奇妙に思いながらも雨月は体を起こし、縛られていた手首を摩る。腕には痣ができ、くっきり縄の痕になってしまっていた。
しかし目的が見えない。
縄を解けば抵抗されるはずだ、少なくとも自分は抵抗する。それに相手は大人ではあるが女、自分は男だ。逃げるのは容易だろう。
彼女がなぜ縄を解いたのか。すぐにわかった。
「さぁ、願いは叶えたんだから。今度はこちらの願いを聞いてほしいな」
女が笑い、雨月は身を強張らせた。縄を解いたお礼の求めることが目的だったのだ。気付くのが遅かった、女はぬっと顔を近付けて囁く。
「束縛から助けてやったじゃないか、さぁ。代わりに…一口頂戴」
一口…?歪ませた唇が開かれ、鋭く白い歯を確認した。まさかと思った瞬間に押しつぶされるような、突き刺さる痛みを感じた頃には女は雨月の右腕に噛みついていた。
「い゛っ!?」
左手で女の顔を自分の腕から離そうとしたが、女の手が雨月の左腕を掴み上げる。女とは思えない力に太刀打ち出来ず雨月は痛みで叫ぶことしかできない。
「ふむ、確かに…これは上玉だな」
ようやく噛み付くのをやめて、雨月から手を離す。女の口からは血が滴り、それを舐め取っていた。あまりの痛みに起き上がれず、噛まれた腕を押さえながら荒い息をした。血が流れるのを感じる。ぬるりとした感触と温かさに気持ち悪さを覚え、恐怖が彼を包んだ。
「はぁ…はぁ…」
恐る恐る噛まれた腕を見る、噛まれた部分は皮と肉が剥がれる寸前でとても赤く見えた。その腕を無理矢理引っ張り、女は何も言わず舐めだした。流れる血を床にこぼすまいと、強く舐め取る。血を舐め取る動物的な仕草に雨月は嫌だ嫌だと首を振った。
「あ゛っ、うう…嫌だ…やめてっ嫌だ…っ」
傷口に舌が当たるたびに体が震えて、涙が溢れた。痛みと屈辱的な感覚に体が震えているのだろう、女はようやく雨月の反応に気が付いた。
「おっと、つい我を忘れてしまった、すまない」
謝りながらペロリと雨月の頬に流れていた涙を舐め取る。体に力が入らず雨月はぐったりと倒れたまま、女を見た。血で真っ赤な顔をして笑みをこぼしている。実に狂気的な表情だった。
「親分どうです?愚弟が言った通りです?」
男が二人、ゆっくり部屋に入って来た。声でわかった、二人は自分を誘拐した者たちだと。背が大きい方が兄、背が低く細身な男が弟のはずだ。
女は呟くように話した。
「ルサの言う通りだ。こいつは本当に人間なのか?」
「さぁ…得体の知れねぇガキです」
ルサと呼ばれた細身の男が首を横に振りながら答えた。
「ふむ、気になるところだが…今日はもういいだろう。どちらにせよ、この味では同胞ではないだろうからな」
女は檻の部屋から出て行く。
「つまみ食いはいいが、殺すなよ?」
そう言って、扉を閉めた。
「つまみ食いって、どこまでがつまみ食いなんだ?」
「指とか?」
二人がゆらりと近付いて来た、まるで腹を空かせたライオンのようだ。動けない獲物にどこから噛みつこうか、喉を鳴らしながら考えている。
「来ないで…」
「おいおい、兄貴の顔で怯えてるぜ?可哀想になぁー」
ルサは雨月の肩と頭を抑えた。大きく口を開け、勢いよく肩に噛み付く。
「あ゛ぁ゛ぁぁぁぁ゛!!やめっ、痛い!!いやぁだぁ゛!」
狂ったように叫んだ。痛くて、気持ち悪くて、苦しくて、もう嫌だった。そんな雨月など、どうでもよいのか。動じることなくルサは噛み付いた痕から溢れる血を舐める。
「うまっ…やっぱりな。上玉だわ」
美味しそうに舐め続け、傷の上からさらに噛みつき血を求めた。
「もうやだ…お願い、痛いの嫌だ…」
痛くて痛くて震える声で許しを求めた。しかしそんなことで止まるような味でもないのかルサは無言のまま舐めている。不機嫌そうにルサの兄が見ていたが、痺れを切らして声を荒らげた。
「長い。早く変われ愚弟、うるさいから口塞いでおけ」
「はいはい」
暴れないように押さえていた兄がルサと変わり、ルサは雨月に馬乗りになるとニコリと笑い見下ろしながら言う。
「悲鳴と泣き顔が唆るのに。わかってないなぁ兄貴は」
すっと出された手に口を塞がれた。厚い大きな手に簡単に塞がれ、叫ぶことはおろか噛みつくこともできない。
「逃げると困るからな、足を潰しておくか」
兄が雨月の視界から消えた。
乱暴にスボンの裾を捲りあげると勢いよくふくらはぎに噛み付いた。こもった声は叫びにならず鼻から抜けていく、痛みで呼吸が乱れれば息ができなくなり意識は遠くなる。
「ほぅ、これは美味い」
「おいクソ兄貴、食うなよ。俺だって血だけで我慢してんだから」
「馬鹿たれ。食ってねぇよ、念のため足を潰してるんだ。逃げれないようにな」
もう逃げられない、そう思うと絶望しかなかった。いっそ殺してほしいと願いながら悲痛な心の叫びは叫び声にならず鼻から息と共に抜けていく。しばらくはそうしていたが。
ふと、何かが切れたかのように雨月は騒がなくなった。意識を失う前のことをいきなり思い出したのだ。家畜、そう彼は言っていた。
人を家畜と言っていたのだ。
つまり。
(どこにも逃げられない。ずっと…このまま?)
とうとう気が付いてしまったのだ、彼らの目的に。
(そんな…そんなことって…)
たくさんの檻、その中の女と子供。そして…自分。一見繋がりなど無さそうなこの接点から求められる答えは簡単だったのだ。人…人間、繋がりはそれだけなのだ。
彼らは己の欲求を満たすためだけに人を飼育しているのだ。その欲は食欲。たったその欲だけに人を捕え、永遠に檻から出さないのだろう。人を食べるという欲を目の当たりにした雨月には逃げる術も希望も無い。今、有るものは家畜として彼らの欲を満たすだけの未来である。
「んんっ」
何も怖くないはずだった。何も怖くないと思っていた。
一人で、どうにかできると考えていた。
なのに。
体か震えて、涙がこぼれて。叫べない口から助けてと声をあげようとしていた。
(誰か…)
親も友達も居ない。だから助けてもらえるはずがない。家に帰らなくても、学校に行かなくても、誰も何も思わないのだから。
「俺、わかっちゃうんだよね」
涙を流す雨月にルサが言い放つ、彼の黒い笑みは残酷に見えた。
「お前、独りだろ?だから狙ったんだ。だってそういう奴の方が居なくなっても誰も騒がないからさぁ。そしたらこんなに美味い奴だとはねー、大当たり」
自慢するように笑いながら話を続けた。
「イイじゃんか、ここにいれば。何にも考えなくていいし、楽だぜ?」
「んん…んふっ」
嫌だと首を横に振るが、ルサの力が強い。上手く首が振れなかった。
「誰からも必要とされないより。ずっといいと思わないか?」
びくりと肩を震わせ雨月は目を見開いた。それを見てルサはニヤリと笑う、弱みを見つけたと言わんばかりに。
「なぁ?わかってんだろ?独りは寂しいだろ??俺たちが飼ってやるから、もう居場所探しはやめろよ。楽だぜ?」
ゆっくり雨月の体から力が抜ける。そして止めを刺すように言われた。
「お前なんて、誰からも必要されてないんだよ。もう気が付いてるだろ?」
気が付いたら、震えが止まり抵抗をやめていた。
奈落に突き落とされた気分になる。深い、暗い、底がない闇から這い上がれる力はもう無い。そう思えば、食われる恐怖の中で脱力するのも簡単だった。
「そう…そうしてればいい」
ルサは笑いながら言った。完全に希望を断ち切ったのだ。
ここから逃げる奴の精神なんてお見通しだ、出れれば辛くことが終わると信じてる馬鹿な奴らさ。だから教えてやるのだ、外へ出ようが、逃げようが。お前たちに居場所などないのだと。孤独に耐えられる者など人間にほとんどいない。必要とされない、要らない、居場所がないと、囁いただけで簡単に希望が断ち切られる。人間とは本当に脆い。
「力が抜けたから噛みやすいな」
兄はガジガジともう片方のふくらはぎを噛んでいる。これで動かせなくなったはずだ。「まぁ、もう精神が砕けてるのだから逃げもしないだろうけどな」とルサは思いながら彼に話し掛ける。
「兄貴、いい加減にしとけ。人間は俺たちと違ってすぐ貧血起こして死ぬんだぞ。せっかくの上玉だ、こいつを殺したら俺たちが親分に殺されちまう」
「へいへい」
名残惜しそうに兄は雨月の足から手を離す。もうピクリとも動かない雨月を見降ろしながら血を服の袖で拭き取った。
「あぁー、壊しやがって。愚弟、本当に性格悪いな」
「なんだよ。うるさいって言ったは兄貴だろ?いいじゃんか、もう逃げもしなければ叫びもしない」
「気味がわりぃんだよ。無表情で居られんのも」
「兄貴はワガママ過ぎるんだよ、なんなら元に戻してもいいぜ」
雨月の傷口を止血するために乱暴に布で縛る。さっきまでなら泣き叫んで居ただろうが、もううんともすんとも言わなかった。止血を終えるとルサは文句を兄にぶつける。
「そもそも、俺はまだまだ楽しんでたかったんだよ。なのに兄貴が」
「人のせいにするな、お前のその奇妙な力に振り回されている身にもなれ」
兄はそう言ってルサに背を向けた。
奇妙な力。自分には感情の向こう側を見ることができるのだ。怒りの先の孤独も、抵抗の先の喜びも。兄も例外ではなく見ることができる。簡単に言えば、他人の心と考えが読めるのだ。兄はこの力に頼る自分が嫌いのようで、いつからか愚弟と呼ぶようになった。
(使えるものは使って何が悪いんだ、バカ兄貴)
そう思いながら、ふと感じ取ったそれに鳥肌が立つ。
「殺気…?」
呟くルサに兄は振り返るが、訊き返す前に衝撃が走った。
いきなりズンっと大きな音と振動が壁を突き抜けてきたのだ、ルサも兄もその壁を見る。
壁に大きなひびが入り、ひびからはパラパラと屑が音を立てて落ちていた。しかし、それは一瞬で壁は次に与えられた衝撃で崩れ落ちる。兄弟は壁に空いた大きな穴の先を睨んだ、その先には。
「やっぱりな」
そう呟く金髪の青年が静かに立っていた。ルサはその奇抜な姿に嫌な顔をしながら言う。
「お前は…あの時、邪魔した奴」
しかしルサの言葉に耳を傾けず、青年は話し出した。
「いい加減にしろ、食欲に忠実な下等種め」
蔑んだその言い方に二人は一気に不機嫌になる。特に兄は戦う気満々だ、しかしルサは冷静に考えた。青年の手には何も握られていない。ならば壁はどうやって崩したのか。答えは簡単だ、彼は壁を己の力のみで破壊したのだ。
つまり。彼は。
「…ヨキ?」
答えに達した瞬間に掠れた声が聞こえた。青年は声の元を辿り、倒れている雨月を見た。血まみれで力無く横たわる彼を目にした時、空気が一気に張り詰めた。ルサも、兄も息をするのがやっとのレベルだ。怒りによる重圧、身で体感できるほどのプレッシャーに二人は思わず構えてしまう。
「雨月に何をした…お前ら」
戦わずとしてもわかる、おそらく兄よりもこいつは強いのだと。
ただ、意味が分からなかった。ルサが感じ取った怒りは獲物を横取りされた怒りではなかったのだ。では、何に対しての怒りなのか。それは仲間を傷付けられた怒りに近いと心を読めばわかるのだが。
なぜ?人間を仲間と考えているのか…意味が分からなかった。そう考えている間にも彼の怒りの先にある殺気は増し続けていた。
「ヨキだって?」
兄がプレッシャーに慣れたのかようやく口を開いた。雨月が言った言葉にやっと反応できたのだ。しかしその反応は意外なものだった。
「ヨキって、あのヨキかよ」
兄はいきなり笑い出した、腹を抱えて苦しそうに笑っている。
「兄貴、知ってるの?」
「知っているも何も…愚弟、お前も会ったことあるはずだぜ」
笑いの中、途切れ途切れに兄はそう伝えた。ルサはもう一度、じっと青年を見つめた。金色の髪、そして前髪で見え隠れする赤い目。
「まさか、泣き虫ヨキ?」
ルサが呟くと兄はさらに笑った。
「そうそう!!一人で勝てるわけがないのに、大人数の鬼相手に泣きながら戦って。馬鹿な奴!」
全然気が付かなかった。彼は昔、兄と一緒になっていじめていた少年だったのだ。体格も雰囲気も変わってしまっていて兄が笑い出さなければずっと気が付いて居なかったかもしれない。
兄はからかうように口を開いて続けた。
「そうそう…『人間混じりのヨキ』、こいつ人間と鬼の」
そう言った瞬間に兄の体がぶっ飛んだ。向こう側の壁を突き抜け、兄の姿を消える。ヨキは平然と兄の立っていた場所に入れ替わるように立っていて黙ったままルサを睨んだ。
「随分お喋りな鬼だな、次はお前が何か話す番か?」
「…本当にヨキか?お前」
威圧的なその目にルサはジリッと音を立てて足を引いてしまった。それを見た青年は鼻で笑いながら答える。
「いじめた相手ぐらい覚えとけよ。まぁ、いじめっ子は覚えてないもんな」
ヨキがルサに殴りかかる前にヨキの腕は誰かに掴まれた。指の柔らかさでわかる、相手は女だ。しかしヨキにとってそんなことはどうでもいい。邪魔する奴が居る、怒りのせいでそれだけしか認識ができないのだから。
「そこまでにしてくれないか?」
ヨキは振り返ることもなく淡々と腕を掴んでいる者に答える。
「…先に手を出してきたのはあんたたちだろ」
「君のテリトリーだって知らなかったんだ。許してくれ、君をいじめると花神に怒られちゃうからね」
「テリトリーでもなければ、人間を食べたりなんてしてない、俺はあんたたちとは違う」
「そうか…可愛いなぁ。どんなに否定しても君は」
女が全てを言う前にヨキは腕を振り払い、バランスを崩したところを殴り掛かる。その速さに女は反応できなかったが、彼女に拳は届かない。届く前に彼女を守るようにいきなり盾が現れヨキの拳を受け止めた。
「ふふふ、怖いなぁ。そう怒らないで」
「俺はお喋りな鬼は嫌いなんだ。と、いうより鬼が嫌いなんだけどな」
盾は砕けることはなく、反動をそのまま跳ね返しヨキの拳を砕いた。骨が大きな音を立てて割れる。その音にヨキは無表情で何も反応しない、彼女の周りで宙に浮いている盾を睨んだ。
「ふふ、怖い怖い。お願いだ。もう手を引くから。ね?」
ヨキが返事を返す前に盾がいきなり光り出す。
「ふふ、今回だけは…ね」
光が消えた頃には三人組は居なくなっていた。ヨキは舌打ちをしながら、怪我をした手を見る。もう、傷が治り始めていた。
『どんなに否定しても君は』
「うるさい」
ヨキは静かに呟いて女のさっきの言葉を否定した。
その後、雨月に近付いて傷の具合を見る。重傷ではないが軽傷でもないなとヨキは眉間に皺を寄せた。噛まれてできた傷は血が固まり始めて、黒くなっていた。痛かったのだろう、涙で頬が濡れたまま彼は気絶していた。目を覚ましそうにない。
「…ごめん。怖い目に遭わせて。もっと早く、来れればよかったんだけど」
聞いているはずもない雨月にヨキは涙を指で拭きながら、謝る。謝ったところで傷が癒えるわけではない、特に心の傷は。
「もしもし、天野のおっちゃん?見つけた。うん。すぐに来てくれる?場所は…」
天野の携帯に電話を入れ、ヨキはため息を吐きながら雨月を抱き起した。体が冷たかった、温めるように抱きしめ、天野が来るのをじっと待った。
「でも大丈夫。全部忘れれば。俺のことも忘れれば…」
ヨキはそう悲しそうに言った。