非日常
いつも通りに学校が終われば何もない放課後で。誰かと帰るわけでもなく歩き出す。冬は暗くなるのが早い、通学路を歩きながら寒さと暗さから冬を実感した。
冬は嫌いじゃない、むしろ好きだ。冬になると生き物が一斉に姿を消す、この虚無感が好きだった。独りが一番楽だから。
通学路の途中にある本屋に寄って、ウロウロと本を眺めた。個人経営の本屋で、小さな本屋ではあるが店主の本を選ぶセンスに惹かれてずっとここを使っている。
本は好きだ。人みたいにうるさく不規則に話さないし、何より汚い嘘をつかない。
(…どうしよう)
今月の新刊は恋愛小説ばかりで悩んでしまう。恋愛小説は苦手ではないのだが…回りくどく、もどかしいために読んでいて時間が掛かる上に疲れてしまうことが多い。あまり好みではなかった。
(ここはライトノベルとかはあんまり置いてないし…あれ?)
ふとライトノベルの売り場をふと見たら中学生ぐらいの少年が二人、片手にたくさん本持っていた。嫌な予感は的中し、大きなサブバックを開き始める。
(…万引き)
止めるべきかと頭の中で悩んだが。彼らの後ろを通り、見ている感じを出せば止めるだろうと考えた。わざと靴を鳴らしながら、後ろを通ると二人がこちらをジロリと睨んだ。
(あ、ヤバイやつだこれ)
そう思ったがもう遅い、注意はしたくないが万引きを止めさせたいという考えが裏目に出た。
「お前、何見てんの?キモいんだけど」
二人が詰め寄って来た、俺は逆撫でしないように返す。
「いや、動きが怪しいし…誤解されるからやめた方がいいよ、そういうの」
しかし俺の言い方が悪かったのだろうが一人が俺の胸倉を掴んできた。
「はぁ?いい子ちゃんかよ。こいつ、マジキモい」
キモい、キモいと彼らには語彙というものが無いだろうか。呆れた目で彼らを見ていると声が掛かる。
「お客様〜どうしました〜?」
店員にしては間の抜けた声で緊張感が喪失するが、そこを振り返りみれば一気に緊張感が溢れ返した。
「いっ!?」
店員を見た二人が変な声を上げる、そして持っていた本を急いで平面に置いて走って逃げて行ってしまった。
「全く、万引きは犯罪なんだよ?…はぁ」
店員は腰に片手を当て、もう片方の手で頭を掻いていた。男性特有の丸みのない手は大きく、力強そうな腕が捲り上げられた袖から見えた。店員は俺を見てにっこりと笑い話し掛ける。
「君、ありがとう。注意してくれたんだよね?助かったよ」
「…」
風貌が変わっていた彼に俺は緊張していた。言葉が上手く出なくて、つい黙ってしまう。それには店員も困ってしまったようで、苦笑いで俺を見ていた。
「あ、いや…俺は何も」
ようやく言葉を返すと満面の笑みで店員は返してくる。
「ううん、本当にありがとう」
そう言うと店員はレジの方向に戻っていった。レジに立ち、店主と何やら話している彼を遠くから見る。
金髪、少し長め。一言で言うなら怖いお兄さんだった。身長も百九十センチぐらいあるのだろうか、それがより一層恐怖心を与える。
(中学生だって逃げ出すよ、そりゃあ…)
こんな怖いお兄さんが本屋で働いているとは思ってもいなかったのだろう。中学生が走って逃げ出すのにも納得である。
気を取り直し、俺は売り場に目を移す。悩んだ結果、たまには恋愛小説でもいいかと妥協をする形になった。六冊程の文芸書をレジに置くと、先ほどの店員が商品のバーコードを読み取る。こういっては失礼なんだが見た目に反して丁寧な接客だった。お金を払って、お釣りを貰うと商品を渡される。俺は会釈して受け取り、店を出た。
「はぁ」
ため息をついて疲れたなぁと俯く。いつも通りの日常から外れたことがあれば疲れてしまうようになったのは、いつからか。覚えていないし、思い出したくもない。
近道を通り、重い紙袋を揺らしながら家へと向かう。真っ暗で明かりもなく、道の両側をフェンスで仕切られた狭い道を歩き進むと黒い影を見た。この道の幅で避けられるかなと思いながら相手の肩幅を伺うように目を凝らした。
その時、カチカチ…と嫌な音が前から聞こえて近付いて来る。
「なに…?」
足を止めて耳でその音を拾う。ギギーッ…カチカチ…ギギーッ
「…カッター?」
聞き覚えのある嫌な音はカッターの刃を勢いよく出し入れする音だった。こちらの足音が止まったことに気付いたのか、出し入れしている音が止み、前から誰かが走り出す音が聞こえた。
踵を返し走り出した。
何が目的かはわからないが確実に言えることがある。人通りが全くない暗い道を一人で歩く平和ボケした馬鹿に用があるということ。
息を切らし走るが相手の方が圧倒的に早いことが聴覚から分かった。ドンドン近付いてくる音に恐怖を感じた頃にはもう追いつかれていて腕を掴まれて引き倒される。受け身なんて取れないまま頭を打った。
「った!」
痛いとも言わせず、訳がわからないまま地面に倒れる。クラクラとしながらも上半身を起こしたが、もう逃げ道は無い。なぜなら、さっきまで走っていた道をその者が立ち塞いでいたからである。見上げる顔は暗くてよく見えないが体の形は男だった。右手には事務用の大きなカッターナイフが握られていてカチカチと音を鳴らしている。
「あっ、う」
怖くて声が出ない。助けを呼ぼうにもこの時間だ、誰も気が付いてくれないだろう。諦めと恐怖が心を支配すれば、抵抗なんて自然とやめた。相手はそれを感じ取ったのか鼻でフンっと笑って喋り出す。
「大人しくしてろ」
低い声が俺に非日常を迎えたことを告げた。日常はこんなにも簡単に奪われるなんて思っていなかったし、どうして俺なんだろうと思った。思うだけでもう遅いのだけれど。
男は腰を下ろし俺と目線を合わせる。俺は目を背けた、怖くて直視出来なかったのだ。視線は暗闇に逃げたが五感はそうはいかない。いきなり頬に鋭い痛みを感じて叫び声を上げそうになったが男に口を押さえられた。どうやらカッターで頬を切られたらしい。
「おっと、叫ぶんじゃねぇよ」
カッターを持っている手の親指で切れた頬の血を拭い取られた、それを男は見つめて口を開く。
「上玉だな、お前。親分に良い手土産になる」
男の言葉の意味がわからず、世界が遠くなるのを感じた。息が思う通りに出来ずに酸欠になる、全く頭が働かない。でも…五感が鈍くなるならこれでもいいかもしれないと静かに思いながら目を閉じる。男の手が俺の首に掛かった時、男は背後にある存在に気が付いた。
「お前何やってんだよ」
聞き覚えのある声が聞こえた瞬間、襲ってきた男は逃げる。声の主はそれを追わず、俺に駆け寄って来る。
「大丈夫!?」
霞む暗い視界で顔は見られなかったが助けが来たみたいだ。お礼を言おうとしたのだが息が出来なくてパニックを起こした。
「はぁ…はぁっ」
不規則な呼吸に体がついていけずに、ただただ苦しかった。苦しいから息を吸っているはずなのに全然楽にならない。苦しい、苦しいと過剰に呼吸をしているのはなんとなくわかるのだがどうしようもない。
「落ち着いて、もう大丈夫だから。落ち着いて息をして」
助けてくれた人がゆっくり話した、落ち着いていてぬくもりのある優しい声だった。でもこの声どこかで…なんて余裕もないはずなのに考えてしまう。
「無理に合わせなくていいから、俺の呼吸にゆっくり合わせてみようか」
そう言うとその人は俺を猫でも持ち上げるかのように体を引き寄せると抱き抱えた。相手の体がぴったりと密着し、恐怖で震える体が包み込まれる。その人の両手がマスクのように俺の口と鼻を覆った。「手の中で息をしてみて」と言われる。言われた通りに手で包み込まれて出来ている空間で彼の呼吸に合わせて息をした。
ゆっくり時間を掛けて呼吸を整え、体の震えが止まる。しかし体が思う通りに動かず、意識が朦朧としていた。動けない程に体がだるい。
「…駄目そうかな」
そんな俺の状態を見て言った言葉なのかわからないが、助けてくれた人が立ち上がれない俺を簡単に抱きあげる。
そこから、あんまり覚えてない。
***
「…」
金髪の青年が抱えた少年を見下ろしながら親指を舐めた。走り逃げた後、すぐに三階建の古いビルの壁を登り、身を隠したのだがあいつは追いかけてこなかった。「なぁんだ」と間の抜けた声でつまらなそうにあげる。
「…ははっ、なんだこの味」
言葉に出来ないぐらいの甘美な血の味にペロリと舌舐めずりをすれば、金髪の青年を睨む。
「あーあ、せっかくの御馳走なのに。邪魔しやがって」
口惜しそうに親指をまた舐めて、服に親指を擦り付けるようにして拭いた。
「…まぁいいか」
幸いにも少年は学生。制服の特徴は覚えている。チャンスがあれば、また襲えばいい。
男は闇夜に紛れ姿を消した。
***
「あなたはいつだってそうじゃない!!仕事仕事って!私ちゃんと休み取ったのよ!?」
…まただ。
「何言ってんだ、俺はお前らのために働いてるんだろ」
「何それっ!今日は何の日!?わかってるの!?」
やめてよ…ケンカしないでよ。
「雨月はお母さんの方が好きよね?」
「雨月はお母さんとお父さんならどっちが好きなんだ?」
やめて…やめてよ。子供に選択させるの?
親をどっちか選べっていうの?
俺は選択しなかった。
出来なかった。
その日、寒い冬の日。家に帰ったら誰も居なかった。
母親も。父親も。
静まり返った家に入ると、寒い空間に感じた。冬のせいではない、その寒さが身に突き刺さる。体が震えて静かな空間が怖くなった。
静寂を切り裂いたそのメールの通知音が今でも忘れられない。二通のメールはほぼ同時に来ていて俺はメールを順に開く。
『お母さん、海外に転勤が決まりました。お父さんに伝えておいてください』
『お母さんと仲良くやりなさい、お父さんは家に帰りません』
…一人が一番楽だから。だから冬が好きだ。
…汚い嘘をつかないから。だから本が好きだ。
***
嫌な夢を見た。ゆっくり目を覚まし起き上がろうと体を動かす。しかし体が全体的にだるくて起き上がれない。
「…ここは」
首だけ動かして辺りを見ると見知らぬ部屋の見知らぬベッドで寝かされていたことがわかった。手に違和感がして、見てみれば毛布から出ていた手を誰かが握っていた。びっくりして手を振り払った。
「んー?おはよー」
手を握っていた相手が椅子の上で伸びをする。相手の顔を見る以前になんで知らない部屋に寝かされていたのかが理解できずにその人から離れる。
意味が分からない、ここはどこだ、あんたは誰だと頭が混乱し飛び起きてしまった。無理に起きたせいか頭痛が酷く、頭を押さえながらベッドに倒れた。そこを相手は抱き止めて、ゆっくりベッドに寝かせる。
「無茶して動かない方がいいよ。過呼吸の後なんだから安静にしていて」
「あ…本屋の…」
ようやく顔を見て俺は落ち着いた、相手はそれに気が付いてくれたようで笑顔で話してくれる。
「いやー、びっくりしたよ。バイトの帰り道に変な奴に襲われてる子が居て、まさか君だとはねぇ。大丈夫だった?」
「大丈夫…です」
「そっか、なら…まぁいいんだけど」
心配そうにこちらを見る彼と目を合わせられない。大丈夫なんかじゃなかった。怖くて怖くて体が震えそうになる。でも大丈夫じゃないと言った所で…そう思った時、青年が話しかけてきた。
「しばらくうちで休んでいきなよ。まだ…深夜の二時だしさ」
少年は壁に掛けられた時計を見て、そんな時間なのかとぼんやり思いながら返事をする。
「はい…」
「今から妹の夜食も兼ねて飯作るんだけど、うどんなら食べれるかな?」
「え…いや、俺は」
要らないですと言いかけた時にお腹が鳴った。大きな音に驚きながらもお腹を慌てて押さえる。青年が優しく笑い返した。
「遠慮しなくていいよ、二人前も三人前もかわらないから。残ったら俺が食べるし」
そう言って立ち上がると青年は部屋を出て行く。しかし、その手前で何かを思い出したかのように振り返り少年に訊いた。
「あ、君。名前は?」
「…鏡尾、雨月っていいます」
「かがみお、うづき??わかった、俺はヨキ、花神ヨキ。いや、自己紹介が遅れたなぁと思ってさ」
「は、はい…」
「じゃあ少し待っててね、雨月」
ヨキと呼ばれる青年は静かに扉を閉めて部屋を出て行った。部屋に残された俺は体を横にしたまま、彼に手を握られていたことを思い出す。いつも冷たい手が温かくて、ポカポカとしていた。
***
部屋を出て静かに扉を閉めたヨキは二階から降りて台所に向かう。相当怯えていたなぁと思いながら台所に着き、鍋に水を入れた。せめて満腹になって、あの恐怖を忘れてもらえればと袖を捲る。
「あーっ、兄ちゃんのうどん!?食べる食べる!!」
「しーっ!声でかいな、お前は」
呆れて振り返る気にもならないが、相手は誰かわかっている。雨月を遠慮させないように話にも出した夜遅くまで勉強している妹である、料理を作ろうとするといつも二階から降りてくるのだ。
「私にもくれるよね?」
「はいはい、お前を口述に使わせてもらったし作りますよ」
「口述?」
「いや、こっちの話」
そう言って冷蔵庫から食材を取り出していると妹も手伝ってきた。深夜の台所に似合わず、トントンとリズミカルに具材を着る音が響く。
「ねぇ、兄ちゃん。兄ちゃんが助けたって言ってたあの人、制服見て気が付いたんだけど私と高校同じ子だよ。しかも同じ学年」
それを聞いてヨキは手を止める、妹もそれに合わせて手を止めた。
「まじか。明日お前、学校休みだよな?」
「うん、開校記念日」
それは運がいいと思いながら再び調理を進めた、妹もそれに合わせて手を動かし始める。
「そっか、じゃあ…明日は様子見かな。なんか…ワケアリっぽいんだよな」
「ワケアリ?」
妹が手を止めてこちらを見た。しかしヨキはそちらを見ずに鍋の様子を見ながら話す。
「普通、子供が帰って来なかったら親が電話ぐらいするだろ…心配して」
ヨキはポケットから雨月のスマートフォンを取り出し、画面を妹に向ける。妹はそれを受け取るとホームボタンを押す。時刻表示のみでメールも着信もSNSのアプリからも通知はなかった。
「ヨキ兄ちゃん、スマホ勝手に持ってきたの?」
妹がうわぁ、と引くような目でヨキを見た。
「親御さんに状況を説明するために持ってたんだよ、そんな引くなよ」
この年頃の子はやたらプライバシーを主張したがるのはヨキもわかっているが、いざ親から電話が来た時に雨月が冷静に説明できるとは思えなかったのだ。雨月が寝ている間も彼のスマートフォンを確認していたが何の変化もなかった。
「泊まりに行くとか事前に言ってたんじゃないの?」
妹がそう言ってスマホを返して手を動かす、再び野菜を切り始めた。
「制服のまま?着替えどころか、持ってたの本と勉強道具だけだぞ、あと財布。何にせよ一旦は家に帰るだろうし…親だっていくら子供が大きくても、それぐらいは気にするだろ」
ヨキはスマホをポケットにしまい、冷凍されているうどんの袋を開けた。
「そうじゃない親もいるよ」
妹は暗い顔をして手を止めてしまう。ヨキはため息をついて返した。
「そうだな。案外…俺たちと似てんのかもな」
***
ようやく体が落ち着いた頃にゆっくり上半身を起こし、痛む頭を抑えながら辺りを見る。白い壁紙に茶色のフローリングの部屋には必要最低限な物が置かれていて清潔で整頓されている印象を受けた。本棚には参考書ばかりが並び、机の上にはパソコンと書きかけのレポート用紙が広がっていた。
「あれ…」
スマートフォンを探すように自分の服に触れたらいつもと全く違う感覚だったため改めて自分を見た。雨月は制服ではなく、ぶかぶかのジャージを着ていたことに今気が付いて困惑した。思い出したかのようにさっき切られた頬に触れるとガーゼが貼られてあった。
「なんで…助けてくれたんだろう」
雨月は呟き考えたが、答えは出なかった。ガーゼに触れながらカッター男の言葉を思い出す。
「上玉って…どういう意味なんだろう」
何をどう考えても答えは出ないのだろうと思うと考えることをやめるしかなかった。起きているのも疲れてしまうのでまた横になることにすると時間も経たない内に雨月はまた静かに眠りに落ちた。