第六十六話 “完了”
大統領は狂っているのかもしれない。
そんな噂が、彼の側近や軍司令官の間でまことしやかに囁かれていた。
彼がある夜を境に、変わったのは事実だ。
とはいえ、国民から見て分かるほど変わった、というわけではない。
彼のごく近くにいる人間が、微かに感じる程度の変化だった。
目が、変わったのだ。
温度がなくなったと人は言う。
その数日後、大統領は正田と計画を練り始めた。
“ラグナロク”を迎えるための、破壊のシナリオを。
そして今、彼は全てを遮断するシェルターの中の暗闇で一人、“黄昏”を待っていた。
正田でさえ、自分の妻子をシェルターの中で保護したのに、彼は一人だった。
「・・・・・・・・・おかしい。こんなにも、静かなものなのか?」
彼は通信を完全に切っていたので、何も知らなかった。彼は正田と違って、失敗したときのことなど考えていなかったのだ。
彼は頑なに信じていた。
“人類は滅びるべきだ”と。
そう、彼は神託を受けたのだ。その日を境に、彼の思いはそれにしか向いていなかった。
人の生み出す闇、醜さ。
戦に明け暮れる者たち、欲におぼれる者たち、自分が世界一不幸だと信じている者たち、それに、他者の足を引っ張ることで満足を得る者たち。
今、この瞬間にも、人は死んだり、苦しんだりしている。
しかも、ほとんどは人が招いた災厄によって。
「・・・・・・・・・・人は、滅ぶべきなのだ・・・・・・・・・・・」
“そうかもな”
突然、彼の目の前にあるモニターの電源が入る。
「何だ!?この部屋は・・・・・・・・・・」
“完全に遮断されてる。まぁ、確かに。軍の連中もあんたの居場所、必死で探してるみたいだぜ?”
大統領はモニターの眩しさに目を細めた。そこには、東洋人の少年がにこやかな表情をして映っていた。
「お前は・・・・・・・・・?」
“俺は石井 哲。・・・・・・・・・・・“Loki”って言った方が分かりやすいですか?”
大統領は息を呑んだ。最大の敵と思っていた奴が、こんな少年だとは思っていなかったのだ。
“どうやら知らないようだから教えておきましょう。あなたと正田の計画は失敗した”
「・・・・・・・・・失敗、だと?」
彼は“ そ ん な こ と は あ り え な い ” と 思 っ て い た 。“ 自 分 は 神 に 命 じ ら れ た こ と を し た の だ か ら ”と。
しかし、哲は冷たく言った。
“失敗です。残念ですが、あなたは“神の言葉”とやらを勘違いした”
「勘違い・・・・・・・・!?どう勘違いしたと言うのかね!?“人類を滅ぼせ”というこのみ言葉を!!」
哲が“神託”のことを知っているのはなぜか、などということは彼にはどうでもよかった。
ただ、哲の冒涜と、中傷が許せなかったのだ。
「人は滅びるべきなのだ!!君自身、さっき同意したではないか!!!」
哲は静かに言った。
“そうです。人は滅ぶべきだ。それでも・・・・・・・・・”
静かな声とは反対に、表情は―――特に目は、ものすごい力を帯びた。
“世界は滅ぼすべきではなかった。あなたのミスは、“核”で全てを焼き尽くそうとしたことだ”
「?何を言っているんだね?人類を滅ぼすべきでも、世界は滅ぶべきではない、と?」
“あなたもやはり、人間中心の考え方をなさりますね。人と世界はイコールで結ばれませんよ”
大統領は目を閉じ、頭を振った。
「すると、君は死すべきは人間だけと言うのかね?」
“そうです。地球上に生きる数多の生物、植物を滅ぼす理由はありません”
「馬鹿な男だ!そんなことが可能だと思っているのかね!?」
大統領は激しい口調で言った。
「人も生物だ!動物達と同じように生きている!その生物を滅ぼすほどの力が加われば、他の生物にも影響が及ぶのは必然!お子様の理想は通用しないのだ!!」
“それが可能かどうか、 今 か ら や っ て み る ん で す よ ”
少年は歪んだ笑みを浮かべていた。大統領は寒気を覚える。
「・・・・・・・・・どういうことだ・・・・・・・・?」
答えはなく、画面は消える。
「・・・・・・・・・?」
画面にパーッと数字が並んでいき、スピーカーから不思議な音が聞こえてくる、
大統領は訝しげに画面に見入っていた。
・・・・・・・・パシュン
画面に“完了”の文字が表示されたとき、大統領の表情は消えていた。
彼の心臓は鼓動を続け、彼の肺は空気を吸い込んだり吐き出したりしていた。
血液は体中をめぐり、酸素を細胞に供給していた。
だがしかし、彼は死んでいた。
彼の脳は―――とくにものを考える部分は―――完全に機能を停止していた。
彼はもう、感じることも、考えることもしない。
10秒後、“完了”の文字も消え、シェルターの中は完全な闇にとらわれた。