94 人に散々心配や迷惑かけておきながら、随分とまぁ……幸せそうな顔してやがる
白で統一された病室の中央にあるのは、台風の様に渦巻く黒雲を思わせる、半透明に見える黒き夢世界の光。
その禍々しき黒い渦の中央にいるのは、楽しい夢でも見ているのだろう、幸せそうな笑みを浮かべて、ベッドの上で眠っている志月。
そんな幸せそうな志月とは対照的に、疲れ切った表情の大志と陽子の夫婦が、ソファーに並んで座っている。
照明が点いたままの明るい室内で、肩を寄せ合って二人は居眠りをしていたが、夢見は悪いらしく、その表情は辛そうだ。
大志は事故の際に負った怪我のせいだろう、頭に包帯を巻いている。
入院用の服ではなく、水色の甚平風の病衣姿なのは、大事を取って入院中の大志が、自分の病室を抜け出して、志月の病室を訪れているからだろうと、慧夢は推測する。
陽子の方は白のブラウスにモスクグリーンのスカートという、素っ気無い出で立ち。
髪は乱れ気味で化粧っ気も無いのは、見た目に気を使う余裕が無いのを窺わせる。
夫婦揃って志月の様子を見守っていたが、疲れに負けて寝入ってしまった感じに、慧夢には思えた。
(俺が黒き夢から戻り損なったら、父さんと母さんも……こんな風になるんだろうな)
志月の両親の姿を見て、そんな考えが慧夢の頭に浮かぶ。
(まぁ、俺は絶対に戻るから、こんな風に心配かけたりはしない……いや、結果的に戻るのだとしても、実際に戻るまでは心配かける事にはなるのか)
早目に戻る事が出来なかった時や、最終的に戻れなかった時の為、慧夢は両親に置手紙を残しておいた。
明日の朝までに、黒き夢から慧夢が戻れなければ、両親は置手紙を読んで、慧夢が何故目覚めないかを知るだろう。
そうなれば、死の危険の最中にいる息子の身を、両親は案じるに決まっている。
医療関係者であるが故に、娘の命の危険を察し易かった、志月の両親と同様に。
「俺も親不孝してると言えば、してる事になるのかもねぇ?」
そう呟きつつ、慧夢は志月が眠っているベッドに向かって歩いて行き、その少し手前で立ち止まる。
ゆっくりと時計回りの回転を続ける、中が透けて見える黒雲の如き黒き夢は、ベッドからはみ出ているので、とりあえず触れぬ様に、慧夢はベッドから少し手前の所で、立ち止まったのだ。
黒き夢世界の光のせいで、黒いスクリーン越しに見ている感じになるのだが、見下ろす慧夢には志月の表情は、はっきりと見て取れる。
とても幸せそうで安らかな笑顔を見て、慧夢は微妙に癪に触る。
「人に散々心配や迷惑かけておきながら、随分とまぁ……幸せそうな顔してやがる」
そして、最も志月を心配しているだろう、志月の両親の方を一瞥してから、慧夢は目線を志月に戻す。
「兄貴が死んで自分が辛い様に、自分が死んだら親も辛い思いをする事に思い至れない程、精神的に追い込まれていたって事なのかな?」
志月の顔を見下ろしながら、慧夢は自問する。
伽耶が言っていた、「精神的に追い込まれている時期には、正しい判断が出来ない」といった趣旨の話を、思い出しつつ。
自問に対する答を、長々と考え続ける訳にもいかない。
幽体でいられる時間には、制限があるのだから。
慧夢はポケットから懐中時計を取り出し、現在時刻を確認。
時計の針は、午後十一時四十六分であると、慧夢に現在時刻を告げる。
病室の壁にかけられている時計の針も、同じ時刻を示している。
自室でも一応確認したのだが、幽体の装備とした懐中時計が正確に機能しているのに安堵してから、慧夢は懐中時計をポケットに戻す。
「霊力が高まったせいかな、九分過ぎているのに霊力に結構な余裕を感じる。あと五分くらいは、このままでいられる気もするけど、気のせいかもしれないし、そろそろ夢世界に入った方が良さそうだ」
いざ、黒き夢の世界に入る段階となり、慧夢の心臓は緊張で高鳴る。
目の前に存在する、禍々しい黒い渦に入る事を考えると、幽体であっても肌には嫌な汗が滲み始める。
それでも散々悩んだ挙句の行動なのだから、今更慧夢は怯んだりはしない。
意を決した慧夢は、引き締まった表情を浮かべて、時計回りで回転を続けている、禍々しくも不吉さを感じさせる黒い渦巻きに、右手を伸ばして触れる。
直後、夜の海に発生した、黒い渦潮に巻き込まれた小船の様に、慧夢の幽体は黒き夢の光の渦に引き込まれると、その中央に吸い込まれる形で消え失せてしまう。
慧夢の幽体は、志月の夢世界の中に、入って行ったのである。
「黒き夢は半月の内に夢の主を殺し、入りし夢占の者をも殺す、死の夢也」
志月の夢世界は、そう夢占秘伝に伝えられる黒き夢。
そして、志月が黒き夢の主となってから、九日目が終ろうとしている時に、慧夢は志月の夢世界に入った。
慧夢に残された日数は、事実上六日間。
この六日間の間に、黒き夢と化している志月の夢世界の、夢の鍵を見つけ出して破壊しなければ、慧夢は黒き夢に殺される羽目になる、志月と共に……。
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