93 また一つ、頑張る理由が増えたか……。別に悪い事じゃないけどさ
(雨雲は見当たらないけど、空気が湿ってるねぇ。そろそろ梅雨入りなんだろうなぁ)
頬に触れる空気が、普段より粘り気がある様に思えた慧夢は、昨夜……地平線辺りに重たい雨雲を目にして、梅雨入りを予感したのを思い出す。
「出来れば梅雨入りする前に、籠宮の夢世界から戻って来たいんだけど……」
そんな希望を口にした慧夢の視界に、既に見慣れた風にすら感じられる、周りの建物より一際高い、籠宮総合病院が現れる。
まだ午前零時前のせいか、古びた団地を思わせる暗い灰色の建物は、前に幽体で訪れた時よりも明りが灯っている窓は多く、夢世界が放つ光は少ない。
慧夢は高度を落とし、籠宮総合病院の最上階……七階と高さを合わせる。
その際、まだ明りが点いている窓に、慧夢は近付く。
その明るい窓の部屋の向こう側にある部屋に、黒き夢の光が存在するのを、既に慧夢の視覚は捉えている。
明るい部屋を通り抜けて、慧夢は黒き夢の存在する病室に、向うつもりなのだ。
建物の外は暗い為、慧夢にとっては明るい室内は見易い。
仕事机に置かれたノートパソコンのモニターを睨みつつ、スマートフォンで誰かと会話中らしい、深刻な表情の志津子の姿が、慧夢の目に映る。
「籠宮の叔母さん、まだ仕事中なのか。籠宮の事かな?」
就寝には程遠そうな白衣姿であった為、そう慧夢は判断したのだ。
慧夢は窓を通り抜け、志津子の部屋に入る。
機能的で派手さとは無縁、仕事机の周り以外は寝泊りする為だけといった感じの、志津子が仕事で泊り込む時に利用する為の部屋。
部屋に入った直後、慧夢の耳に飛び込んで来たのは、英語と思われる言語で喋っている、志津子の真剣な口調の声。
「え、英語? 外人と喋ってんの?」
英語で喋っているというのは予想外だったので、慧夢は驚きの声を上げる。
無論、その声は志津子には聞こえない、慧夢が霊力を消耗して、聞こえる様にした声では無いので。
床に降り立った慧夢は、隣にある志月がいる部屋に向う為、志津子の部屋の中を歩き始める。
その途中……志津子の後ろを通り過ぎた時、慧夢は何気無く立ち止まり、ノートパソコンのモニターを覗き込んでしまう。
「あれは……籠宮!」
モニターの中には、志月の写真や名前と共に、様々な症状が記述されている、いわゆる電子カルテが表示されていた。
モニターに表示されているデータなどを見ながら、スマートフォンで電話をしている事から、志津子が志月の件で誰かと電話中であるのが、慧夢には分かった。
「籠宮の永眠病について、海外の医者に相談でもしているのかな?」
慧夢の推測は正しく、志津子は海外の睡眠障害の専門家から、情報を得ている最中だったのだ。
実は以前、永眠病と似た症状の患者が、アメリカで数例確認されたという情報を入手した志津子は、その患者を担当した、アメリカの睡眠障害の専門家に、連絡を取ったのである。
「――昨日も余り寝てないだろうし、大変だな」
楽しげだった食事の時とは違い、疲れの色が見える真剣な表情の志津子を見て、慧夢は言葉を続ける。
「籠宮を助ける事は、この人を助ける事にもなる訳だ。そういう意味でも、絶対に成功させないと……」
志津子による医学的なアプローチは、永眠病には意味が無いだろうと、慧夢は考えている。
永眠病は医術ではなく、霊術や魔術の類の側にいる者の領分であるのを、知っているからだ。
そして、無駄であろうが……何の効果も無かろうが、志津子は志月の治療を諦めないだろうとも、慧夢は考えている。
精神や肉体が追い込まれようが、志津子は必死で志月の命を救う為に、努力し続けるだろうというのが、志津子の人となりを知った慧夢の考えである。
必死の努力が報われず、患者であり姪である志月が永眠病で死んでしまえば、志津子の精神的なダメージは計り知れないだろう。
故に、志月を助ける事は、志津子を助ける事にも繋がるのだ。
「また一つ、頑張る理由が増えたか……。別に悪い事じゃないけどさ」
志津子の真剣な横顔を眺めつつ、そんな風に呟いてから、慧夢は再びドアの方を向いて、歩き始める。
幽体なので、別にドアで無くても通り抜けられるのだが、床を歩いている時は、何となくドアを目指してしまいがち。
ドアは開けずに通り抜けて、慧夢は薄暗い廊下に出る。
廊下に出ると同時に、志津子が英語で話す声は、殆ど聞き取れなくなった。
建物に入る前から見えていた、志月の黒き夢の光は、既に壁一枚しか遮る物が無い至近距離となっているので、はっきりと見え過ぎる程に、慧夢には見えてしまっている。
渦巻く暗雲の如き、黒き夢の光の見た目に、慧夢は言い様の無い禍々しさを覚える。
見続けていると気圧されそうになる気がしたので、そのまま立ち止まらずに歩き続けて、慧夢は廊下を挟んだ向い側にあるドアを通り抜け、病室の中に入る。
志月が眠り続けている、黒き夢が存在する病室の中に。