92 行ってきます!
慧夢の意識が回復したのは、プレイリストの四曲目の途中。
勇ましいホーンセクションの演奏が特徴的な、ハリウッドのボクシング映画のテーマ曲が流れている最中。
何時も通り幽体となった状態で、慧夢が瞼を上げると、目に映るのは天井の木目。
幽体の慧夢は身体を裏返し、ベッドの上に仰向けになっている、肉体の自分を見下ろす。
幽体となった直後、自分の肉体を確認するのは、慧夢の癖に近い行為だ。
半袖の白いワイシャツと黒いズボンに加え、靴まで履いているという、そのまま学校に向えそうな格好をしている自分の肉体を、慧夢は見下ろす。
宙に浮いている幽体の慧夢の格好も、肉体と見た目は同じ。
「あ、そうだ……懐中時計と斧、ちゃんと幽体の装備に出来たかな?」
仄かな不安感を覚えつつ、慧夢は右手を右後ろのポケットに突っ込み、財布に似た斧のケースを取り出す。
そして、ケースの中から斧を取り出し、折り畳まれていた斧を開く。
斧は折り畳めるし、開く事も出来る。
ずっしりとした重さもあるし、刃の部分も鋭いので、十分に斧として機能すると、慧夢には判断できた。
斧をケースに仕舞って、右後ろのポケットに戻しながら、不安感が消え去った慧夢は、安堵しつつ満足げな笑みを浮かべる。
「斧はOKだ! 次は懐中時計だけど、こっちは斧より複雑なのよね……」
左前のポケットに左手を突っ込み、慧夢は懐中時計を取り出して蓋を開く。
時計が示している現在の日時は、六月九日木曜日の午後十一時三十七分。
「この日時、合ってるのかな? 合ってるなら、時計として機能していると判断して良さそうだけど……」
現在の正確な日時を、慧夢は知らない。
そんな幽体の慧夢が装備している、懐中時計が示している日時が、本物の時計と同じ時刻を示しているなら、正常に機能していると判断していいと、慧夢は考えたのだ。
再び不安感を覚えつつ、幽体の慧夢はベッドの近くまで降下、ベッドボードの手前にある棚の上の時計を見て、その日時を確認。
オレンジ色の光を放つデジタル時計が示している日時は、六月九日木曜日の午後十一時三十七……懐中時計と同じ。
「良し! ちゃんと時計として機能してるじゃないか!」
斧と懐中時計を両方とも、ちゃんと機能する形で幽体の装備に出来たのを確認し、慧夢は喜びの声を上げる。
「この装備を、ちゃんと黒き夢の中に、持ち込めれば良いんだが」
呟きながら、慧夢は懐中時計をポケットに戻す。
機能確認を終えた斧と懐中時計は、確実に黒き夢の中に持ち込める訳では無い、運次第なのだ。
「じゃ、行くとするか……」
確認を終えた以上、霊力を無駄にしない為にも、さっさと部屋を出て目的地に向った方が良い。
慧夢は自分の幽体を、上昇させ始める。
迫り来る天井に突入し、天井裏と屋根を通り抜け、慧夢の幽体は屋根の上に飛び出る。
満天の星空が視界に飛び込んで来て、慧夢の心を躍らせる。
そのまま星空に吸い寄せられる様に、慧夢の幽体は空を飛んで、家を離れ始める。
だが、程無く……家の方が気になり、慧夢は後ろを振り返ってしまう。
夜景の中、見慣れた家の窓から漏れる明かりが、慧夢の目に映る。
その明かりに照らされている部屋には、慧夢の家族がいるのだ。
見慣れた光景である筈なのに、今夜の家は何かが違う様に、慧夢には感じられた。
そのせいだろう、幽体となって家を後にする際、普段は言わない言葉が、ふと慧夢の口をついて出る。
「行ってきます!」
そう言うと、慧夢は再び進行方向を向き、満天の夜空の下、目的地である籠宮総合病院に向かって、スピードを上げて飛び始める。
スピードを上げた為、眼下に広がる景色が、勢い良く流れ始める。
街明りに加えて、既に眠りに就いている人々が発している、多数の夢世界の光も慧夢には見えるので、眼下の景色は星空に負けぬ賑やかさだ。
(そう言えば、気のせいかな? 前は見えなかった辺りにある夢世界の光まで、見える様になっている気が……)
通常の光同様、夢世界の光も距離が開けば減衰するので、遠くで寝ている人の夢世界の光は、見辛かったり見えなかったりする。
その見える限界の距離が以前より伸びて、より遠くの夢世界の光が見える様になった気が、慧夢にはしたのだ。
(黒き夢を見て、霊力が強くなったせいなのかな?)
答えの出ない問いを、慧夢は心の中で呟いている。
慧夢の推測は正しく、より遠くの夢世界の光が見える様になったのは、黒き夢を見て霊力が強くなった影響だった。
(まぁ、遠くまで見えるからって、別に何か便利になる訳でも無いか。今のところ、夢占秘伝に隠されてた文章が、読める様になったくらいだな、便利になったの)
霊力が強くなったのなら、もっと何か役に立つパワーアップでもあれば良いのにと思いながら、慧夢は川神市の北側に向かって飛び続ける。