90 ――志月を救い損なったら、父さんや母さんとの食事も、これが最後になる訳か
ここ数年慧夢も暇な日は、アシスタントとして借り出され、ベタやスクリーントーン、簡単な背景処理などを手伝わされている。
アシスタントをした日に風呂に入り、肌に貼り付いていたスクリーントーンの切れ端が湯船に浮かぶのを見て、「俺は夏休みだというのに、何をやっているんだろう?」と自問する羽目になったりしていたのだ。
「そう言えば、五月ちゃんの夏休みは、あのイベントの為にある様なもんだったね」
和美は残念そうに呟く。
和美本人も過去にオタクな世界に深く足を突っ込んでいた時期があり、今でも漫画やアニメ、ゲームなどを普通に楽しんでいるタイプの大人である為、五月の夏休みがコミケに費やされる事を、理解していた。
「あ、夏休みといえば……」
話題を切り替えるのに丁度良い、夏休みに関連する両親に話しておきたい話があったので、慧夢は話を切り出す。
「俺、今年の夏休み……バイトしたいんだけど、良いよね?」
バイトをしたいなどと、慧夢が言い出すのが意外だった両親は、顔を見合わせる。
「――もうバイトとか出来る歳なんだなぁ、慧夢も」
しみじみとした口調で、唆夢は感想を呟いてから、慧夢に答を返す。
「社会勉強にもなるし、やるが良いさ」
「どうせバイトするなら、女の子との出会いが多いバイトにしなさいね。学校の女の子達に相手にされていない現状、あんたは学校の外にも出会いを求めないと!」
和美の言葉を聞いた慧夢は、半目で呟く。
「何気に俺、結構酷い事言われてる気がするんだけど」
「実際、学校の女の子達には、相手にされてないでしょ」
しれっとした顔で、和美は言葉を続ける。
「そうじゃないと言いたいなら、せめて五月ちゃんとの仲を、もう少しどうにかしなさい」
(五月も一応は学校の女の子なんだろうけど、また五月推しするとは……。母さんも昔は結構凄いオタクだったらしいから、相性がいいのかな?)
和美が過去に結構なオタク生活を送っていたのは、本人も別に隠してはいないし、唆夢もたまに当時のエピソードを話したりもするので、慧夢は知っていた。
「ま、俺としてはバイトの許可が貰えれば、それでいいんだけど。女の子との出会いが多いバイトって何だろう?」
ふと思い浮かんで、慧夢が口にした疑問に、唆夢が答える。
「飲食店やカラオケの店員、あと遊園地や球場のスタッフとかの接客業は、女の子多いぞ。逆に倉庫業務とかはバイト代は良いけど、女の子は殆どいないな」
「――そういえば唆夢くん、大学時代は接客業のバイトばかりしてたな。あれって、まさか……女の子との出会い目当てだったんじゃないでしょうね?」
疑惑の視線を向ける和美に、唆夢は焦りの表情を浮かべて弁解する。
「いや、俺はホラ……体力が無かったから、肉体労働系の奴は駄目だったし、勉強も得意じゃなかったから、家庭教師や塾の講師も駄目で、結果として接客業のバイトが多くなっただけだって!」
「本当でしょうね?」
「本当だって! 俺には和ちゃんという彼女がいたんだから、バイトに女の子との出会いなんて、求めていた訳が無いじゃないか!」
(いい歳して、何を今更……学生時代の事なんかで揉めるんだか)
疑わしげに言葉を投げかける和美と、弁解を続ける唆夢を半目で眺めながら、慧夢は心の中で呟きつつ、箸で餃子を口に運んで食べる。
賑やかな食卓での夕食は、慧夢にとって日常的な光景。
(――志月を救い損なったら、父さんや母さんとの食事も、これが最後になる訳か)
ふと、そんな考えが頭に浮かんで、慧夢は悪寒に背筋を震わせる。
(もう覚悟を決めたじゃないか。何を今更、ビビってんだか)
覚悟を決めた後でも、時折……心の中で不安感や恐怖感が膨らんでしまう経験を、慧夢は何度もしていた。
その度に不安感と恐怖感を、慧夢は頭の中から意識的に消し去って来た。
(あれだけ考え尽くした挙句に覚悟を決めて、情報も集めて準備も整えた。後は……やるべき事をやるだけだろ)
心の中で自分に言い聞かせつつ、慧夢は餃子とご飯を交互に食べ続ける。
じゃれ合う様な両親の口論は、命懸けの行動を起こす前の食事のBGMとしては、少しばかり喧しい様にも思えたが、それはそれで悪くは無いなと慧夢は思う。
× × ×