85 ――どれにしたもんかな?
「――どれにしたもんかな?」
アウトドア用のナイフが、ずらりと並んでいる棚の前で、慧夢は迷い続けている。
場所は川神市の中心部にある商業地区のホームセンター、アウトドア用品のコーナーだ。
明るい店内、様々なサイズや形状……値段のナイフを目に、どれを買うか慧夢は悩んでいた。
ナイフの購入目的は、志月の夢世界に持ち込む為。
眠りに入って幽体離脱した慧夢は、眠った時と同じ姿の幽体となる。
眠りに就いた時に身につけている物は大抵(確実では無い)、幽体となった時にも身につけた状態になるのだ。
この幽体となる時の法則を利用し、実は慧夢は人の夢世界の中に、道具を持ち込む事が出来る。
ただし、多くの物は持ち込めないし、複雑な物を持ち込む事は出来ない。
多くの物を身につけると、幽体となった時に消えてしまう確率が高く、確実には持ち込めない。
確実に持ち込めるのは、着衣以外だと二つというのが、慧夢の経験則だった。
シンプルな道具は持ち込み易いが、複雑な機械は持ち込めない。
より正確にいえば、持ち込めても、まともに機能しないというべきだろう。
以前、携帯ゲーム機やスマートフォンを、慧夢は夢世界に持ち込もうとした事がある。
夢の中でゲームが出来ないかなと思って持ち込んでみた所、形こそは携帯ゲーム機やスマートフォンのまま持ち込めたのだが、まともに動きはしなかったのだ。
持ち込めるのはシンプルな道具や機械が二つだけというのが、色々と試した結果だった。
しかも、夢世界の中で慧夢がモブではない、メインキャスト級の役割を振られた場合は、着衣が役割に合わせられるので、持ち込みに失敗する確率が高い。
何故、慧夢は道具を夢世界に、持ち込もうとしているのか?
それは、夢占秘伝に記されていた、幻夢斎が霊的な力を込めて記した、黒き夢の主を目覚めさせる方法についての文章のアドバイスに、従っての事である。
黒き夢の夢世界で、鍵を破壊する為、幻夢斎は黒き夢に入る際、時計と武器を持ち込む様に、アドバイスしていたのだ。
幻夢斎自身が黒き夢に何度も入った経験上、黒き夢の夢世界において、目的を果たすのに有効な道具は、自分で持ち込んだ方が良いと、判断していたが故のアドバイス。
黒き夢の夢世界は、主にとって異常に都合が良い世界。
その世界を壊そうとする侵入者である幻夢斎が、夢世界で手に入れた武器や道具で、夢の鍵を破壊しようとした場合、失敗する確率が高かったのだ。
主にとって都合が良い様に、夢世界の道具が異常な動作をして、夢の鍵を壊そうとする幻夢斎の目的を、邪魔する場合があるのである。
何度かそんな経験をした為、幻夢斎は黒き夢の夢世界の中に、慧夢が夢世界に道具を持ち込むのと同じ方法を使い、武器を持ち込んで、夢の鍵の破壊に利用したと、夢占秘伝には書かれていた。
夢占の者が、眠りに就く際に身につけておく事により、夢世界に持ち込んだ武器は、夢占の者が自分の霊力で作り出した物なのだ。
夢世界の主が作り出した武器では無いので、主にとって都合が良い様に動作し、夢の鍵を破壊しようとする幻夢斎の行動を邪魔せず、安定的に動作するのである。
時計の方は、夢世界の中で正確な時間を、把握しておく為の物。
夢世界の中は、時間の流れが出鱈目な場合が多く、夢世界の中で現実世界の時間や日時を、正確に把握し続けるのは、かなり難しい。
普通の夢に入るなら、正確に時間を把握しておく必要性など無いのだが、黒き夢には見始めて半月という時間制限が有り、その時間制限に達する前に夢の鍵を破壊しなければ、夢占の者は夢世界の主と共に死んでしまう。
夢の鍵を破壊するまで、どの程度の時間が残されているかを把握しておくのは、生きて戻る為には重要な事。
故に、現実世界での時間の進行を把握出来る時計を、黒き夢の中に持ち込むのは、重要な事なのだ。
幻夢斎も当時としては最新式であり高価な品であった、印籠の中に時計を仕込んだ印籠時計を、黒き夢の中に持ち込み、現実世界での時間の進行度合いを把握していたと、夢占秘伝には記されていた。
印籠時計とは、今で言えば手巻き式の懐中時計に相当し、機械という意味ではシンプルな部類である為、夢世界への持ち込みも可能だった。
デジタル時計やクォーツ式の時計は複雑過ぎて、夢世界に持ち込むのは難しいと思われるので、慧夢は手巻き式の腕時計か懐中時計を買いに来たのだ。
普段はスマートフォンを携帯用の時計としている為、腕時計や懐中時計の類は、持っていなかったので。