38 ち……痴漢よ! 誰か来て! 痴漢よ! 目付きの悪い変態よ!
(ちょ……やばいって、おい!)
急いでいた為、勢い良く部屋から飛び出した、慧夢の身体の勢いは止まらない。
目の前に現れた志津子に衝突し、押し倒す様に前のめりに倒れ込んでしまう。
転倒した結果としての衝撃と同時に、慧夢は妙な柔らかさを感じる。
(むにょん?)
柔らかさを心の中で、擬態語として慧夢は表現してみる。
自分より少し背が高い、志津子の身体をクッションの様にして、うつ伏せで倒れた慧夢が、顔で感じた柔らかさだ。
目に映るのは、柔らかそうな肉を包んでいる、白いシャツの布地。
布地越しにでも分かる、志津子の体温と……胸の鼓動。
(こ、これは……ひょっとして?)
慧夢は慌てて身を起こし、自分が何に顔を埋めたのかを確認する。
見下ろす慧夢の目線の先にあるのは、白衣の下に着た白いシャツに包まれている、豊かな……志津子の胸。
自分が志津子を、その豊かな胸に顔を埋める形で押し倒してしまったのを、慧夢は悟る。
「す、すいません! いや、わざとじゃないんですッ!」
焦りながら慧夢は、謝罪の言葉を口にするが、既に手遅れ。
「ち……痴漢よ! 誰か来て! 痴漢よ! 目付きの悪い変態よ!」
少女の様に頬を染めながら、同時に恐怖心に顔を歪めるという、羞恥と恐怖が入り混じる複雑な表情を浮かべ、志津子は叫び声を上げる。
通路どころか、病院中に響き渡りそうな大声で。
「いや、だから……痴漢じゃなくて、偶然なんだってば!」
言い訳を口にするが、志津子の表情から言い訳は通じそうにないと、慧夢は判断。
慌てて立ち上がり、慧夢は通路を走って逃げ出す。
「あと……目付きが悪いってのは、余計なお世話だッ!」
通路に面した事務室や病室のドアが開き、病院の医者や看護師、職員らしき人々が姿を現し、声を上げる。
「痴漢だと?」
「今の……志津子先生の声だよな?」
「志津子先生が痴漢と変態に襲われたと?」
「目付きの悪い痴漢が、志津子先生を襲ったって?」
「目付きの悪い変態が、志津子先生に痴漢行為を働いたらしいぞ!」
「目付きの悪い痴漢が、志津子先生の豊かな胸を揉みしだいただと!」
「何それ羨ましい、俺も志津子先生の胸を揉みしだきたい!」
「あそこに目付きの悪いガキがいるぞ! あいつが志津子先生を押し倒し、あの豊かな胸を揉みしだく痴漢プレイを楽しんだ変態だ!」
「捕まえろ! あの羨ましい真似した、目付きの悪い変態痴漢野郎を捕まえろ!」
「捕まえて吊るせ! 奴を吊るせ! 痴漢を吊るせ! 変態を吊るせ! 目付きが悪い奴を吊るせ!」
通路に姿を現した男性の医師、看護師……職員達が上げる声は、どんどん妙で過激な方向に、エスカレートして行く。
しかも、声を上げるだけでなく、実際に慧夢を捕まえようと、襲い掛かって来始めた。
慧夢はラグビーやアメリカンフットボールの選手であるかの様に、襲い掛かって来る者達をかわし、通路を走って逃げ続ける。
まるでシリアスな医療ドラマが、アクション性の強い犯罪ドラマにでも、いきなり路線を変更したかの様に、夢の内容が変わってしまう。
夢世界の中だと、暴力を受けても慧夢は死んだりはしないのだが、痛みは現実世界と同様に感じる。
故に、慧夢を捕まえて私刑しそうな勢いの者達に、慧夢は捉まる訳には行かず、必死で通路を逃げ続けなければならない。
通路を走り抜け、階段を駆け下り、慧夢は病院の出口を目指す。
一階に辿り着いた慧夢は、広いロビーの様な待合室を駆け抜け、ドアを開けて病院の外に駆け出す。
「ここまで逃げれば、大丈夫だよな?」
病院の外に出て、隣接する駐車場まで逃げてから、慧夢が自問した直後、背後で物凄い音がする。
大気を震わす程の、ビルが爆破解体でもされたかの様な、激しい爆音と轟音。