35 永眠病……
その部屋は、病室という感じでは無く、病院内だと知らなければ、ビジネスホテルの一室かと思うような設えの部屋だった。
華美さや派手さは無い、機能的かつ実用的な、寝泊りする為だけにある感じの部屋。
ベッドは二つ並んでいて、二人の女性が寝息を立てている。
片方は四十前後、もう一人は三十過ぎと思われる女性。
どちらも整った顔立ちではあるのだが、顔には疲れの色が見える。
(――疲れ切って、悪い夢見てるのかね?)
心の中で呟きながら、ふと……慧夢には三十過ぎと思われる女性の方が、志月に似ている様に思えた。
生真面目そうで、融通が利かない感じに見える、堅過ぎる感じが。
これで顔の確認を終えてないのは、黒き夢の主と、その近くにいるらしい、かなり濃い灰色の夢世界の持ち主だけ。
「黒き夢には触れない様に、距離を取って確認する。遠くて顔が確認し難ければ、霊力を消耗しても……灯りを点けて、近づかずに確認!」
声に出して自分に言い聞かせてから、宙に浮いたまま黒き夢の夢世界の主と、おそらく同じ部屋にいるのだろう、濃い灰色の夢世界の主がいる方向に向い、ゆっくりと飛んで行く。
壁を通り抜け、通路を挟んだ向こう側に、その部屋はあった。
壁の前で一度停止し、深く深呼吸して心を落ち着かせてから、慧夢は壁を通り抜ける。
先程の部屋と違い、全体的に白で統一して設えてある部屋は、明らかに病室ではあるが、他の病室よりは広いのに、ベッドは一つしか無い。
常夜灯は点いていて、先程の部屋よりは明るいので、窓際にあるベッドの上で眠っている少女の顔を、黒き夢に近寄らずとも、慧夢は容易に確認出来る。
光というよりは、黒雲の渦の様な……黒き夢世界の中央で眠る、端正な顔立ちの少女の顔を。
その顔を確認した慧夢は、自分の嫌な予感が当たっていたのを知り、声を上げる。
「籠宮!」
黒き夢の主は、志月だった。
楽しい夢でも見ているとしか思えない様な、幸せそうな笑みを浮かべ、志月は眠っているのだ。
まるで夢の神にでも祝福されいるかの様に、楽しげに夢を見ているとしか思えない、志月の寝顔を見て、否が応でも慧夢の頭には、一つの言葉が思い浮かんで来てしまう。
夢の神オネイロスに祝福されて、楽しい夢を見られるという、死に至る病の名が。
「永眠病……」
眠りの神ヒュプノスに祝福され、安らかな眠りに就け、夢の神オネイロスに祝福され、楽しい夢を見ながら、死の神タナトスに祝福され、幸せな死を迎える永眠病。
人を永眠病にするというチルドニュクスを飲み、眠り続けている志月が、夢占秘伝に出て来る、決して入ってはいけない、黒き夢の主となっている。
永眠病と黒き夢が、慧夢の頭の中で……一つに繋がる。
「夢占秘伝の黒き夢って、永眠病になった奴の、夢世界の事なんじゃないのか?」
無論、永眠病という言葉は、夢占秘伝が書かれた幻夢斎が生きていた時代には、存在していなかっただろう。
現代に生まれたばかりの、正式な病名ですらない、ネットのスラングに近い言葉なのだから。
だが、幻夢斎が生きていた江戸時代にも、永眠病と同じ症状に陥った人間が存在し、そういった人間の夢世界を、幻夢斎が「黒き夢」という言葉で表現していたのではと、慧夢は考えたのだ。
無論、永眠病が実在し、志月が永眠病を患っているという前提での話ではあるけれど。
頭に浮かんだ考えについて、思考を深めたいところなのだが、慧夢は霊力切れを感じつつあった。
そろそろ誰かの夢の中に、慧夢は入らなければならない。
「――とりあえず、考えるのは後だ!」
既に、ここから離れた場所にいる人間の夢に、入り込める程の時間の余裕は無い。
無論、志月の夢には、間違っても入りたくは無い。
志月の病室にいる、もう一人の人間……どことなく志月に似た感じの、四十路に見える疲れた感じの中年男の夢も、慧夢は避ける。
黒き夢の主と同じ部屋にいる人間の夢世界に入ると、目覚めた直後の無防備な状態で、引き込まれかねない気がしたのだ。
(顔が似てるし、たぶん籠宮の親父さんなんだろうな……)
娘を案じて、病室で付き添ったまま、ソファーの上で眠ってしまったのだろう。
ソファーに座ったまま眠り、濃い灰色の夢世界の最中にいる男を一瞥してから、慧夢は志月の病室を後にする。
そして、最寄の部屋といえる、少し前に確認したばかりの部屋に移動すると、眠っている二人の女性の夢世界を見比べる。
同様に濃い灰色であっても、僅かではあるが明るく見える方の夢世界を、慧夢は即座に選ぶ。
普段なら絶対に入りたくない色合いの、何かに悩んでいるかの様に、端正な顔立ちを顰めている、どことなく志月に似ている女性。
その周りで時計回りの回転を続けている、灰色の光の渦巻きに、慧夢は右手を伸ばして触れる。
すると、慧夢の幽体は渦潮に巻き込まれたかの様に、灰色の光の渦に引き込まれ、その中央に吸い込まれて姿を消してしまう。
慧夢の幽体は、志月に似た女性の夢世界の中に、入って行ったのだ……。
× × ×