228 昨日は、名前では呼んでいなかった気がするけど、もう下の名前で呼んでるんだ
「ワーウォー3やってたなら、誘ってくれれば良かったのに」
朝の明るい教室の、開け放たれた窓の前で、吹き込んで来る涼しげな風に身を晒しながら、素似合は半目で慧夢を見下ろしつつ、不満を口にする。
素似合の髪やセーラー服の袖は、風に揺れている。
「ワーウォー3やり始めたの、零時過ぎだから、もう素似合寝てただろ」
普段は右隣の席にいるのだが、今朝は窓枠に寄りかかり、風に吹かれて涼んでいるので、左側にいる素似合に、慧夢は答を返す。
バスケットボール部の朝練があった日の朝、熱を持ったままの身体を、素似合が風で冷ますのは、何時もの事なのだ。
朝練の前夜、素似合が零時を迎える前に、眠りに就いてしまうのを、慧夢は知っていた。
翌朝、バスケットボール部は朝練があるのも、慧夢は素似合から聞いて知っていた。
そして、アームド・コンフリクトAからワールド・ウォーズ3に、慧夢が遊ぶソフトを変えたのは、午前零時直前。
故に、慧夢は素似合を、ゲームに誘わなかったのだ。
「零時過ぎか……だったら仕方ないな」
残念そうに呟く素似合の方から、シトラスの香りが、風に流されてくる。
制汗スプレーか汗拭きシートの香りだろうと、慧夢は思う。
部活や体育の後の素似合からは、何時も制汗スプレーや汗拭きシートの香りがする。
ここ一年程は、シトラスが素似合のお気に入りの様だった。
「私も誘われた覚えが無いんだけど?」
素似合がいる窓の方を向いて座っている、右斜め前の席の五月が、スマートフォンを弄りながら、慧夢に問いかける。
ちなみに、五月は同人の儲けがあるので、経済的に慧夢や素似合より余裕があり、ワールド・ウォーズ3とアームド・コンフリクトAの両方を、迷いもせずに買っていた。
「ネームが終わるまではゲーム断ちするって、昨日言ってたじゃん」
ネームとは、漫画の設計図とでもいうべきもの。
夏のイベントに向けたマンガのネームの完成が遅れている為、ネームの作業が終わるまでゲーム断ちをすると、五月が昨日言っていたのを聞いていたので、慧夢は五月を誘わなかったのだ。
「言ったけど、そんなの口だけで、守れる訳がないの分かり切ってるんだから、誘えよ!」
堂々とした口調で、五月は言い切る。
「いや、まぁ……確かに、お前がゲーム断ち宣言、ちゃんと守った事なんて、殆ど無いのは分かってるけど、それ堂々と言う様な事じゃないだろ」
呆れ顔で言葉を返した上で、慧夢は五月に問いかける。
「――で、ネーム終わったの?」
「終わってたら、今やってない」
スマートフォンのモニターを慧夢の方に向けながら、五月は気まずそうに答える。
ラフ過ぎる絵で描かれた、描きかけのマンガのネームが、モニターには表示されていた。
五月は先程から、スマートフォンのマンガ制作アプリケーションを使い、ネームを切る作業を続けていたのである。
「――でも、放課後には終わりそうだから、夜はゲームできるぞ」
そう言いながら、モニターを自分の方に向けると、慧夢に見せる為に中断したネーム作業を、五月は再開する。
「僕も明日は朝練無いんで、夜中まで大丈夫。今夜は一緒にワーウォー3やろうよ」
素似合の言葉に、慧夢と五月は頷く。
「ゲームを一緒にって言えば……」
五月はスマートフォンでのネーム作業を続けながら、大して興味など無さそうな素振りで、慧夢に問いかける。
「『良かったらご一緒に』みたいなメッセージカード寄越した、籠宮の叔母さんとは、ご一緒したの?」
「志津子さんなら、フレンドになったんで、ご一緒したよ。夜中まで一緒にプレイしたけど、かなり立ち回りが上手かったな」
昨夜、志津子とゲームをプレイした時の事を思い出しつつ、慧夢は答える。
「志津子さん……ねぇ」
素似合は意味有り気な笑みを浮かべ、志津子に関する話に、割って入る。
「昨日は、名前では呼んでいなかった気がするけど、もう下の名前で呼んでるんだ」
慧夢は素似合が指摘した通り、昨日までは志津子の事を、大抵は「籠宮の叔母さん」と表現していた。
だが、メッセージをやり取りする様になってからは、「志津子さん」と表現する様になっていた。
「名前……特に下の名前で女の人を呼ぶのは、距離を縮めるには良い手だよ。馴れ馴れしく感じられて、嫌がられる場合もあるけど……」
素似合は楽しげな口調で、言葉を続ける。
「これまでの、女相手だと刺々しくなりがちな慧夢よりは、馴れ馴れしいくらいの方がマシだから、気にしなくていいいんじゃないかな」
思い当たる節が、色々とあった慧夢は、苦い表情を浮かべつつ、妙な勘繰りは止せとばかりに、素似合に言い返す。
「――別に距離を縮めようとか、そんなんじゃなくて、籠宮の叔母さんじゃ呼び難いから、呼び易い様にしただけだっつーの」
「誤魔化さなくていいって。少しずつでも、女の人と親しくなろうと努力するのは、慧夢にとっては良い事なんだから」
励ますかの様に、素似合は慧夢の左肩を軽く叩く。
「慧夢は女に関しては、これまでは駄目駄目だったけど、元々素材は悪く無いんだ。その調子で今から頑張れば、僕みたいに幸せになれるんじゃないかな」
「お前みたいな幸せって?」
大よそ察しはついたのだが、慧夢は一応、素似合に訊ねる。
「ハーレムを作って、沢山の女性を幸せにしながら、自分も幸せになる事に、決まっているじゃないか!」
宝塚の男役の様な、芝居染みた動きと口調で、堂々と素似合は答える。
「――だと思った」
半目の呆れ顔で、慧夢は呟く。
「お前の阿呆なポリアモリー趣味に、慧夢を巻き込もうとすんなよなー」
ネーム作業を続けながら、五月はげんなりした口調で、言葉を吐き捨てる。
「慧夢が僕みたいになった方が、五月だって得なのに」
しれっとした口調の素似合を睨みながら、五月は詰問する。
「何でよ?」