217 ――じゃあ、そろそろ朝飯(あさめし)にしようや
「――じゃあ、そろそろ朝飯にしようや」
笑いを堪えながら、唆夢は提案する。
「慧夢が戻って来たなら、俺も仕事に行けるから、さっさと朝飯食わないと」
「そうね、朝ごはんにしましょうか」
そう言うと、和美は腕を解いて、慧夢から身体を離す。
「俺が戻って来たから仕事に行けるって、今日仕事……休むつもりだったの?」
慧夢は唆夢に、問いかける。
六月十五日は水曜日の平日、唆夢の仕事は休みでは無い。
「今日は、お前が生還出来るかどうかの、期限の日だったんで、和ちゃんだけに任す訳にもいかないから、忙しい時期なんだが休みを取ったんだ」
唆夢は右手で頭を掻きながら、話を続ける。
「まぁ、お前も無事に戻って来た事だし、無理に取った休みだから、休みは取り消して、仕事行く事にするよ」
「あんたは学校、どうするの? 身体の調子が良くないなら、休んだ方が良いと思うけど」
和美に問われた慧夢は、ストレッチでもするかの様に、身体を動かして見せてから、問いに答える。
「夢占秘伝にも書いてあった通り、身体には何の問題もないから、学校行くよ」
「そう、だったら……制服の代え用意しておくから、朝ごはん終わったら、風呂に入って着替えなさいよ。汗臭くとかはなってないけど、制服に変な皺がついてるから」
慧夢は自分の服装を、大雑把にチェックする。
和美の言う通り、シャツやズボンなどには、五日以上寝続けたせいか、皺だらけになっている部分があった。
「右腕、どうしたの?」
制服の状態をチェックした際、慧夢の右腕の異常に気付いた和美は、慧夢に問いかける。
「右腕?」
右腕に目をやった慧夢は、前腕の肘に近い辺りを一周する、赤いリングの様な蚯蚓腫れの存在に気付く。
蚯蚓腫れから五センチ程離れた、前腕の内側には、これまた蚊や蜂に刺された風な、赤い腫れがある。
どちらも、痛みも痒みも無いので、慧夢は今まで気付かずにいたのだ。
二つの腫れが何なのか、慧夢にはすぐに分かった。
(夢の中で弓矢に貫かれた部分と、斧で切断した部分が、腫れてるのか……)
夢の中で経験した強烈な現象が、身体の方に僅かに影響を与える事は、たまにある。
斧と弓矢により、夢の中で右腕を損傷したのは、かなりの激痛を覚えた経験だったので、現実世界の身体にも、腫れという形で、僅かに影響が出たのだ。
弓矢で射抜かれた時と、斧で切断した時の激痛を思い出し、慧夢は顔を曇らせそうになるが、それを堪えて和美に返事をする。
「夢の中で怪我した影響で、ちょこっと腫れてるだけだよ」
「大丈夫なの?」
やや不安げな和美の問いに、慧夢は笑顔で答える。
「痛くも痒くもないし、すぐに消えるって。こんなの珍しい事でも、何でも無いから」
「――だったら、いいんだけど」
そう言いながら、安堵の表情を浮かべる和美に、台所天板の上の皿を指差しながら、慧夢は訊ねる。
「これ、もうテーブルに並べていいの?」
「まだよ、レタス載せてから」
和美はシンクの前に移動すると、洗った後に水を切った状態で、ザルに入れたままシンクに置きっ放しにされていたレタスを、皿に盛り始める。
朝食の準備を、再開したのだ。
「ごはんと味噌汁、よそっとくよ」
食器棚の方に移動しながら、声をかけた慧夢に、和美は言葉を返す。
「お願い」
唆夢も倉庫から持って来たペットボトルの醤油を、テーブルの上の空になった醤油さしに、移し始める。
家族三人で分担して進めた為、朝食の準備は、すぐに整った。
三人はダイニングキッチンのテーブルの、それぞれの席に座る。
唆夢と和美が向い合わせに、慧夢から見ると、唆夢が右斜め前、和美が左斜め前という配置で。
「いただきます!」
声を揃えた言葉の後に、先週の木曜以来の、家族三人揃っての食事が始まる。
慧夢は早速、湯気を立てている味噌汁碗に手を伸ばし、香りを楽しみつつ口元に運ぶと、茶色く熱い液体を口に含む。
味噌汁を十分に味わってから、慧夢は飲み下す。
舌に馴染んだ味噌汁の味は、現実世界に生還出来た実感を、より強めてくれる。
ベーコンエッグにごはん、胡麻ドレッシングのかかったレタスに漬物……と、まずは無言でメニューの全てを味わって、空腹を満たしつつ、生還出来た喜びを、慧夢は文字通り噛み締める。
そして、一気に半分近くを食べ終えてから、両親との会話を再開する。
話題の殆どは、慧夢が眠っている間に起こった、慧夢が知っておくべき事について。
風邪で熱を出して寝込んでいるというのが、学校を休む理由になっている事や、五月と素似合だけでなく、伽耶が見舞いに来た事などを、和美は慧夢に伝えた。
慧夢が問いかけた、ベッドの棚に置いてあった、志津子からのラッピングバックについての話から、大志を助けた礼を渡す為に、家を訪れた志津子も、五月達と共に慧夢を見舞った事なども、和美は話した。
四人の来客に、慧夢が人の夢に入る能力を持ち、志月を助ける為、命懸けで志月の夢に入っているのを教えた事は、伏せた上で。
賑やかで楽しい朝食の時間、慧夢は空腹だけでなく、心までも満たす事が出来た。
何時までも続けばいいなと思う程に、幸せな時間であったのだが、慧夢は学校に行く為の準備をしなければならない。
名残惜しさを覚えながらも、朝食を終えた慧夢は、ダイニングキッチンを後にした。
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