211 人は嫌いな人間の為に、涙を流したりはしないからさ
慧夢の言葉を聞いて、陽志は問いかける。
「何故だい?」
「――俺は色々な人の夢の中に、入った事があるんだけど、みんな夢の事なんて、すぐに忘れちまうものだからさ」
肩を竦めて、慧夢は続ける。
「目覚めた直後くらいは、俺が出て来た夢の事を、覚えてる奴も結構いるけど、殆どの人は……どんな夢だったのか、数十分も覚えちゃいないんだ」
数十分というのは、根拠がある。
学校で居眠りするなどして、うっかりクラスメートの夢に入ってしまった時の経験から、慧夢には分かるのだ。
学校で居眠りして、クラスメートの夢世界に入った場合、目覚めた直後であれば、慧夢が夢に出て来たのを覚えていて、その事について口に出す者もいる。
妹達にプリンを食べさせて貰う夢を見ていたら、慧夢に目覚めさせられ、夢の内容を口走った素似合の様に。
以前、自分が夢に出て来た事を、覚えていたクラスメート相手に、どんな夢であったのかを、訊いて調べていた時期が、慧夢にはあったのだ。
大抵、その夢を見て目覚めた後の、次の休み時間に、その調査は行われた。
居眠りするのは大抵は授業中、その次の休み時間は数十分後という事になる。
その数十分後の調査時ですら、殆どのクラスメートは、夢の内容を覚えていなかったのだ。
故に、殆どの人は、どんな夢を見たのか、数十分も覚えてはいないと、慧夢は言い切れるのである。
ちなみに、人が夢の内容を、すぐに忘れてしまうのは、慧夢が侵入した夢に限った事ではない、人が夢の内容をすぐに忘れ去ってしまうのは、普通の事なのだ。
心理学者や大脳生理学者の解説によれば、脳は夢を長時間、記憶し難いシステムになっているらしい。
ただ、この場合の記憶というのは、意識出来る領域の記憶である。
人間は膨大な記憶を貯蔵しておく、巨大な貯蔵庫を持っている。
この貯蔵庫には、人間が意識的に扱える領域と、意識的には扱えぬ、無意識の領域がある。
無意識の領域は、記憶の奥深く……深層に存在する。
この深層に貯蔵された記憶は、人間は意識的には思い出せない為、失われてはいないのだが、忘れた状態になっているのだ。
夢に関する記憶は、消えてしまう部分も多いが、この無意識の領域にある貯蔵庫……記憶の深層に沈み込み、自覚できぬまま貯蔵され続ける部分も多い。
故に、失われてはいないが、意識的に思い出せもしない状態に、なってしまっているのである。
だが、夢に関する記憶が完全に消滅したり、記憶の深層に沈み込む前に、意識的に覚えておく為の行為を行うと、夢に関する記憶が長時間、意識的に扱える領域に残り続ける。
つまり、覚えていられるのだ、五月や絵里の様に。
慧夢が夢に入れると、冗談半分とはいえ公言している五月の場合は、慧夢が出て来た夢の内容を、スマートフォンのメモやレコーダーに、意識的に記録したりしていた。
記憶し続ける為の努力をしているが故に、五月は慧夢が侵入した夢に関する記憶を、数多く長期間、記憶し続けている。
目覚めた直後に、慧夢と目が合い、慧夢が夢に入れるのではという疑念を抱いた絵里も、慧夢が侵入した夢を、長時間記憶していた。
その疑念について、慧夢に問い質そうと、夢を意識的に何度も思い出し続けた結果、絵里は意識出来る領域に、慧夢が出て来た夢を、記憶してしまっていた。
五月や絵里の様な例外も存在するが、記憶が失われない様に努力し、記憶を維持しているケースは、相当にレアなのが現実。
夢を記憶し続けようという努力など、殆どの人はしないので。
故に、自分が入った夢についての記憶を、殆どの人が……すぐに忘れ去ってしまうと、慧夢は認識しているのだ。
これは慧夢の思い込みではなく、事実である。
「――だから、籠宮も夢の中で何があったかなんて、すぐに忘れちまうんで、俺に感謝したりはしないだろうし、俺への態度も変わりゃしないんだ」
志月を一瞥しつつ、慧夢は話を続ける。
「そんな訳で、これまで通りだよ、俺と籠宮の関係は」
「――志月が夢の中での事を、君の言う通りに、すぐに忘れてしまうのは、事実なのかもしれない」
その点については、慧夢の意見を肯定した上で、陽志は慧夢に反論する。
「それでも、君と志月の関係は、これまでとは違った形になると思うよ」
「何故?」
不思議そうに首を傾げる慧夢に、陽志は理由を説明する。
「夢の中での事を、志月が忘れてしまっても、君が覚えているからさ」
「確かに、俺は夢の内容を覚えてるけど、だからって……俺はこれまで通りで、別に何も変わりはしないよ」
納得がいかなそうな、慧夢の言葉を聞いた陽志は、微笑みながら慧夢に問いかける。
「君は志月と仲が悪くて、『好きか嫌いかで言えば、嫌いなタイプだ』と言ってたよな?」
「――言ってたけど」
「でも、君はもう……志月の事を、嫌いじゃないよね?」
予想もしていなかった問いを投げかけられ、慧夢は面食らう。
そして、やや狼狽気味の表情で、慧夢は質問に質問で返す。
「な、何で……そんな風に思う訳?」
左手の指先で、慧夢の目の辺りを指差しつつ、陽志は問いに答える。
「人は嫌いな人間の為に、涙を流したりはしないからさ」
陽志の返答を聞いた慧夢は、まだ赤くなったままの目を大きく見開き、驚きの表情を浮かべる。
(――籠宮の兄貴の言う通りだ、嫌いな人間の為に、涙なんて流す訳がない)
夢世界が崩壊する時や、目覚めた後の志月を目にして、感極まってしまい、涙ぐんだり涙を流してしまった自覚が、慧夢にはあった。
目覚めた後に流した涙の方は、陽志に気付かれただろう事も、慧夢は認識していた。
(そっか……俺はもう、籠宮の事……嫌いじゃなかったんだな)
慧夢は陽志に言われて、今になって自覚したのだ、自分が既に志月を嫌ってはいない事を。