210 ――分かるよ、言われ……なくても、馬鹿じゃ……ないから
病室にいたのは、志月だけではない。
ベッドの近くには、椅子が五脚置かれていて、その内の二脚には、二人の男女が腰掛けている。
ベッドの右側……窓が無い側の二脚の椅子に座って、志月の顔を覗き込んでいる男女は、大志と陽子。
「夢に入る前より、やつれ具合が酷くなったな……」
大志と陽子の疲れ果てた顔を目にして、慧夢が呟いた直後、慧夢の右側で驚きの声が上がる。
「志月!」
慧夢は右を向いて、聞き覚えのある声の主を確認する。
まだ姿が微妙に透けている陽志が、志月の顔を見下ろしながら、驚きの表情を浮かべている姿が、慧夢の目に映る。
霊力の差のせいか、慧夢よりも病室に死霊として出現するのが、陽志は遅れたのだ。
夢世界の中にいた時は、屋根の上と庭に離れていたのだが、慧夢から一メートル程度しか離れていない辺りに、陽志は姿を現しつつ、声を上げたのである。
陽志はベッドに歩み寄り、志月の顔を覗き込む。
目を覚まさない志月に、焦った風な口調で、陽志は声をかける。
「起きろ、志月! 目を覚ますんだ!」
「聞こえやしないよ……」
ようやく透けない状態になった陽志に、慧夢は話しかけつつ、ベッドに歩み寄る。
「普通の人間には……死霊の声は、届かないから」
死霊の霊力が慧夢並に強ければ、普通の人間に声を届けることも可能だ。
でも、陽志の霊力は並であり、現実世界の普通の人間である志月に、声を届かせる事は出来ない。
「夢占君!」
声をかけられ、慧夢の存在に気付いた陽志は、目線を志月から慧夢に移しつつ、問いかける。
「志月が、目を覚まさないんだが?」
「落ち着けって! 夢世界が崩壊してから、夢の主だった奴が目を覚ますまでには、少し間があるんだ」
慧夢は陽志を安心させるべく、言葉を続ける。
「夢世界が崩壊した後、俺はいつも夢の主だった奴の近くに、幽体で現れるんだけど、その時はまだ……寝てるのが普通なんだよ」
「――そうなのか」
「個人差があるけど、早ければ数秒、長くても二分くらいで目を覚ますから、落ち着いて見守ってなよ」
陽志は慧夢の話を聞いて安心し、落ち着いた様子で目線を志月に、続いてベッド越しの対面にいる両親へと移す。
目に隈を作り、一気に十歳程老けた感じの、両親の顔を目にして、陽志はしみじみとした口調で呟く。
「――本当に、やつれ切ってるな。父さんも母さんも……」
直後、慧夢と陽志の背後から、ドアの開閉音がしたので、二人は後ろを振り返る。
病室に入って来た、白衣姿の志津子が、タブレット型の端末を手にして歩いて来る姿が、慧夢と陽志の目に映る。
二人の目に映ったのは、志津子だけではない。
部屋の中央辺りに置かれたソファーに腰掛け、仮眠を取っている男女の老人の存在にも、慧夢と陽志は気付く。
「爺ちゃんと婆ちゃん……それに、叔母さんまで。こんな、朝早くから……」
早朝と言える時間帯、両親以外の家族までもが、志月の身を案じて病室にいるのを目にした、陽志の言葉は感慨深げだ。
朝早いのは、窓からの朝陽だけでなく、志月の枕元に近い、ベッドの棚に置かれた時計が、午前六時半辺りを示していたので分かる。
陽志の話を聞いて、慧夢はソファーにいる二人が、陽志と志月の祖父母であるのを知る。
ここ数日……余りにもやつれ切った、大志と陽子の身を案じ、祖父母も交代で志月を見守り始めていたのだ。
無論、息子夫婦だけではなく、孫である志月の身を案じた上で、祖父母は志月を見守る役を買って出たのである。
二時間ほど前に、祖父母は大志と陽子と交代し、ソファーで眠り始めたのだった。
ベッドの左側、志月の枕元近くの椅子に腰掛けた志津子も、疲労の濃さが表情から見て取れる。
端末を大志に手渡しながら、志津子は話しかける。
「今日の検査予定と、昨日までのデータまとめておいたから、目を通しておいて」
「夜勤明け早々、済まないな」
大志が志津子に礼を言いながら、端末を受け取ろうとした時の事……。
「――ん……」
突如、気だるげな呻き声が、病室にいる皆の耳に届いたのだ。
生きている者も死霊も、生霊である慧夢も、緊張と期待の入り混じった表情で、呻き声が聞こえて来た方……ベッドの上に目をやる。
それまでは安らかな顔で、静かに寝息を立てていただけだった志月が、僅かではあるが瞼を上げ、眩げに顔を顰めていた。
とうとう志月は、目覚めたのだ。
「志月!」
ほぼ同じタイミングで、籠宮家の四人が、喜びの声を上げる。
死霊である陽志の声は、目覚めた志月の耳には届かないが、両親と志津子の声は、目覚めたばかりの志月の耳に届く。
おぼろげな状態ながら、耳に届いたのが誰の声であるのが、志月には分かる。
両親の声がした右側に、頭を傾けながら、志月は瞼を上げ切る。
例外は有れど、目覚めてしまうと、程度の差こそあれ、夢の記憶は急激に思い出せなくなっていくのが普通。
志月の頭の中でも、見ていたばかりの夢に関する記憶が、記憶の深層に沈みつつあった。
それでも、記憶の深層に沈みきらず……志月の意識に残り続けている、夢の中で聞いた言葉があった。
「これから目を覚ますお前が、最初に目にするのは、やつれ切った両親の顔だ。次に見るのは、目覚めたお前を見て、泣く程に喜ぶ両親の顔さ」
それが誰の言葉なのか、もう志月は思い出せなくなっていた。
でも、絶対に忘れてはいけない様な気がしたせいか、その言葉は記憶の深層に沈まずにいたのだ。
まるで予言であったかの如く、その言葉通りの光景が、志月の目に映っていた。
目に映ったのは、やつれ切った大志と陽子の顔。
一気に老け込んだ感じに見える程、疲れの色が濃い顔をくしゃくしゃにして、大志と陽子は笑顔を浮かべていた。
そして、笑いながらも両目からは、涙を溢れさせていた。
初めて目にする、泣く程に喜ぶ両親の顔を見上げて、先程の言葉に続く、記憶の深層には沈まなかった言葉を、志月は思い出す。
「それを見れば、お前の親が……お前を大事だと思ってるのは、分かる筈だ。お前が余程の馬鹿でもない限りな」
誰に言われた言葉なのか、既に志月には分からない。
それでも志月は、その誰だか分からない相手に、小声で言い返す。
「――分かるよ、言われ……なくても、馬鹿じゃ……ないから」
こみ上げてくる喜びで、胸が一杯になり、志月の言葉は途切れ途切れになる。
目頭が一気に熱くなり、止め処なく涙が溢れかえり、目に映る両親の顔が涙でぼやけ、見えなくなる。
志月は両親に向って、手を伸ばしながら、上体を起し始める。
見えなくなった両親の姿を、志月は手を泳がせて探す。
大志は右手を、陽子は左手を……それぞれ手に取り、志月を抱き寄せる。
両親と娘、親子三人は感涙しつつ、抱き締め合う。
親子三人の姿を目にして、感極まった陽志は、嬉しさの中に……僅かに寂しさが混ざった表情で、見詰めていた。
見続ければ見続ける程に、その寂しさが膨れ上がってしまう気がした陽志は、目線を慧夢に移し、話しかける。
「もう大丈夫そうだね、志月は」
陽志の言葉に、慧夢は頷く。
抱き合う親子の姿が胸に迫り、涙ぐんでいた慧夢は、陽志に気付かれぬ様に誤魔化そうかと一瞬だけ思ったが、不要だと考えを改めた。
既に陽志の頬を、涙が伝っていたのに、慧夢は気付いたのだ。
それなら、お互い様だろうから、涙を誤魔化す必要は無いと、慧夢は考えた。
結果、気が緩んでしまったせいか、熱い涙が慧夢の頬を伝ってしまう。
「まぁ、仮に大丈夫じゃなかったとしても、命懸けで助けようとしてくれる友達が、志月にはいるって分かったから、不安に思う必要は無いか」
「――それ、ひょっとして俺の事?」
慧夢の問いに、陽志は頷く。
「いや、俺……籠宮の友達じゃないんだけど。クラスメートってだけで、どちらかといえば、仲も悪いし」
「志月も、そんな風に言っていたな。でも、これからは今までと、変わるかもしれないじゃないか」
陽志は志月との、慧夢に関する会話を思い出しつつ、笑顔で言葉を続ける。
「夢の中では色々あったが、君は命を救っただけでなく、志月が抱えていた心の問題を、解決したも同然なんだ。志月は君に感謝するだろうから、性格がキツいと感じる様な態度を、君にはとらなくなるだろう」
慧夢が志月の性格を、「キツい」と表現したのを覚えていたが故の、陽志の言葉だ。
「志月の君への態度が変われば、君の志月への態度も変わり、君と志月の関係も、これまでとは違った形になるだろうさ」
そんな陽志の言葉を、慧夢は涼しい顔で否定する。
「たぶん、そうはならないと思うよ」