209 さよなら、志月。父さんと母さんと、幸せにな!
「――何だ、こりゃ?」
手の中に残されたネックレスの糸が、複雑怪奇な文字や紋様に、姿を変えるのを目にして、慧夢は驚きの声を上げる。
ファンタジー系のフィクションで、魔術の呪文を記述するのに使われる、ルーン文字に良く似た感じの文字や紋様に、慧夢には思えた。
散らばった金属球も、糸と同様の現象を、同時に起こしていた。
(チルドニュクスは、西洋の妖術使い……要は魔法だか魔術だかで作り出された薬らしいから、チルドニュクスが作り出す夢の鍵は、その呪文で出来てるって感じなのかな?)
夢の鍵であるネックレスの残骸が、魔術の呪文風の文字紋様に変化した現象を、慧夢はその様に解釈する。
慧夢の解釈は正鵠を射ていて、夢の鍵とは魔術の呪文が姿を変えた存在であり、破壊された事により、本来の呪文の姿を現したのだ。
破壊された魔術の呪文は、夢世界の主である志月が夢から目覚める際、夢世界を破壊する為の機能を果たす部分を、封印していた。
呪文の破壊により、その封印が解除され、夢世界を破壊する為の……夢世界が自壊する為の機能は、復活を果たす。
(これで、夢世界を破壊する機能は復活した。そろそろ、夢世界の崩壊が始まる筈なんだが……)
慧夢は庭にいる志月に、目線を移動させる。
(籠宮の身体が崩れるのは、最後の方だろうな。長い夢だと大抵、夢の主の身体が崩壊するのは、最後の方だから)
夢世界が崩壊する際、夢世界に存在するキャラクターや物が崩壊する順序に、決まりは無い。
だが、短い夢の場合は、夢の主のキャラクターは早目に崩壊を始め、長い夢の場合は、最後の方に崩壊する場合が多い。
この志月の夢は、慧夢が入った夢世界の中では、十五日弱も続いた、最も長い夢であった。
故に、夢の主のキャラクターである志月の身体の崩壊は、最後の方になるだろうと、慧夢は思ったのだ。
(ま、その方が良いか。最後のお別れをする時間に、使えるだろうし)
夢世界の崩壊を前にして歩み寄り、向かい合って立ち止まった兄妹の姿を見下ろしながら、慧夢は心の中で呟く。
「――お別れだ、志月」
寂しげな笑顔を浮かべ、陽志は語りかける。
「夢の中に入るとか、妙な事にはなったが、お陰でこうして……お前にちゃんと、さよならが言えるんだから、悪くは無かった……いや、むしろ面白い経験だったよ」
陽志を見上げる志月は、既に目を潤ませている。
「世の中には、きっと……もっと沢山、俺の知らない面白い事があるんだろう。出来れば、もっと色々と、そんな面白い事を経験したかったけど、残念ながら……俺はここまでだ」
志月の頭に、ぽんと右掌を置くと、軽く頭を撫でてから、陽志は言葉を続ける。
「――でも、お前は違う。この先幾らでも、色々な事を経験出来るんだ……俺には出来なかった経験を、色々とね……」
「兄……さん……」
感極まった表情で、声を震わせながら、志月は陽志に縋り付く。
そのまま、何かを言いたげに口を開こうとするが、嗚咽してしまい、言葉にはならない。
「これから俺が行く所に、お前が来るなら、生きれるだけ生き切った後の方がいい。俺には出来なかった色々な経験の事を、その時……土産話として、聞かせて貰えるからな」
胸に顔を埋め、泣きじゃくり始めている志月を、陽志は優しく抱き締める。
そんな陽志の目に、カラフルな砂粒の如き、色とりどりの微粒子群となり分解し始めている、籠宮家の屋敷が映る。
兄妹が最後の会話を始めた頃から、夢世界の崩壊は始まっていた。
嵐と地響きの混ざり合った様な音を轟かせつつ、遠くの景色から崩れ去り始め、次第に崩壊は兄妹に迫って来て、とうとう籠宮家も崩れ去り始めたのだ。
虹の様に色鮮やかな砂嵐に、世界の全てが飲み込まれていくかの様な、美しく幻想的な景色に、陽志は見惚れそうになるが、見惚れている暇は無い。
自分と志月に残された時間が僅かであるのは、陽志の目にも明らかだったので。
「さよなら、志月。父さんと母さんと、幸せにな!」
込み上げる思いに胸と目頭を熱くしながら、陽志は別れの言葉を口にする。
塀が……庭木や庭石が、モブキャラクター達までもが、陽志の視界の中で、崩れ去って行く。
そして、泣き腫らした目で陽志を見上げる、志月の身体も……手の先から崩れ始める。
嗚咽するばかりで、まともに話せない状態が続いていた志月は、必死で呼吸を整えると、笑顔を浮かべて……口を開く。
「――ありがとう、兄さん」
万感の思いを込めて、志月が最後に陽志に残したのは、別れの言葉ではなく、感謝の言葉。
泣き濡れながら、それでも笑顔で最愛の兄に感謝を伝えてから、志月の身体は本格的に崩壊を始め、陽志の腕の中で、色とりどりの無数の粒子群へと変わってしまう。
消え失せた妹の身体を、抱き締めたままの姿勢で、陽志は涙を流し始める。
志月には見せまいと、目頭を熱くしながらも堪えていた涙が、志月が目の前から消えた今になり、溢れ出たのである。
兄妹の最後の場面に、干渉するのは無粋とばかりに、黙って志月と陽志の様子を見守り続けていた慧夢も、何時の間にか目頭を熱くしていた。
そして、頬を伝う涙の熱で、自分が泣いているのに、慧夢は気付く。
直後、陽志が立っていた庭全体と、慧夢が立っていた屋敷が、ほぼ同時に崩壊を開始。
まずは陽志の姿が、砂嵐に巻き込まれたかの様に掻き消され、続いて慧夢自身も、荒れ狂う無数の粒子群に、飲み込まれてしまう。
暴風吹き荒ぶ中、慧夢は目を開け続ける事すら出来ない。
慧夢は瞼を下ろし、経験した覚えが無い程に激しい、夢世界の崩壊を迎えた。
何も見えなくなるが、暴風が吹き荒ぶ音が聞こえるので、激しい崩壊が続いているのが、慧夢には分かる。
(旋風に、巻き込まれた時みたいだ)
慧夢は小学生の頃に校庭で、突然発生した旋風に、巻き込まれてしまった事がある。
その時の感覚に似た、砂混じりの激しい風に、全身を打たれたかの様な感覚を、慧夢は覚えたのだ。
そんな時間が、ほんの数秒だけ続いた後、急に風は止んでしまう。
巻き込まれた旋風が、すぐに通り過ぎた時と、似た感じの状況。
(――終わったのか?)
慧夢は恐る恐る、瞼を上げる。
ほんの少し前までの、激しく荒れ狂う嵐の中の様な光景は消え失せ、慧夢の目に飛び込んで来たのは、見覚えのある光景。
ブラインドに和らげられた朝陽に、程良い明るさに照らされている、白一色で設えられた広い部屋。
窓際に置かれたベッドの上では、白い病衣姿の少女が布団をかぶり、仰向けになって寝ていた。
二メートル程離れた辺りから、ベッドの上で寝ている少女の顔を見下ろしつつ、慧夢は呟く。
「籠宮……」
この見覚えのある部屋は、志月の病室。
志月の黒き夢の夢世界が、完全に崩壊し終えたので、慧夢は幽体となって、現実世界の志月の病室に現れたのである。