208 私……貴方みたいに、口が悪い人……嫌いだわ
「父さんと母さんの事、大事に思っていてくれたんだな、志月……安心したよ」
陽志は頬を緩ませ、優しげな口調で、志月に語りかける。
「夢から覚めて、父さんと母さんを安心させてやってくれ。きっと死ぬ程、お前の事を心配している筈だ」
だが、大きく首を横に振ってから、志月は言い返す。
「心配なんて、してる訳が無いじゃない! 私が大事に思っていたって、父さんと母さんは私の事なんて、大事だなんて思ってないんだから!」
心の奥底に溜め込んでいた、両親に対する不満や不信……密かに抱いていた怒りや悲しみを爆発させ、志月は感情を荒立てながら言い放つ。
「私を大事だと思ってない人達の元になんて戻らない! 戻りたくない!」
駄々をこねる子供の様に、頑なな志月を目にした慧夢の頭に、やつれ切った大志と陽子の姿が浮かぶ。
大志に至っては、痛々しげな怪我人としての姿までもが、慧夢の頭に蘇って来る。
チルドニュクスを飲んで以来、目を覚まさぬ志月の事を、心配し続けていた二人の姿を、慧夢は知っていた。
そんな二人が、志月を大事に思っていない訳がないと思えた慧夢は、それを志月に伝えなければと、口を開く。
「お前の両親の方も、お前の事を大事に思ってるに決まってるだろ。お前の事が心配で、交代で付きっ切りで看病してるから、自分達の方まで病気になりそうな位に、やつれ切った顔してたし」
「嘘言わないでよ! 夢占君が知ってる訳……」
志月は「夢占君が知ってる訳ないじゃない!」と言おうとして、止める。
先程、「何を根拠に、そんな事が言えるのよ? 夢占君が私の何を知ってる訳?」と問いかけた際、慧夢が根拠ある答を返したのを、志月は思い出したのだ。
今回も何等かの根拠があっての、慧夢の発言なのではと、志月は思い至ったのである。
「夢の主にとって大事な人や物が、夢の鍵になるから……夢の鍵の候補を絞り込んでおく必要があったんで、夢に入る前に少しばかり、籠宮の周りを調べたんだ」
「夢の中だけじゃなくて、現実の方でも、ストーカーみたいな真似を……」
呆れた風に半目で呟く志月に、慧夢は気色ばんで言い返す。
「仕方なくだ! 仕方なく! 誰がお前みたいなブラコンの上、性格キツイ女のストーカーなんかするか……って、同じ様な事言わせんな!」
慧夢は一呼吸置いてから、脱線しかけた話を本筋に戻す。
「――とにかく、俺は調べていた時、やつれ切っていた籠宮の両親を見たし、交代で付きっ切りになって、籠宮を看病してるのが、やつれてる理由なのを、お前の叔母さんに聞いて知ってるんだ」
「志津子叔母さんに?」
「そうだよ、現実世界の方で、志津子さんと知り合いになったんでな」
驚きの表情を浮かべながらの、志津子の問いかけに、慧夢は答える。
志津子と知り合ったのは事実だが、大志と陽子がやつれた理由は、実際は志津子から直接聞いたのではなく、夢世界の中での会話を、盗み聞きして知ったのだが。
「何で夢占君が、志津子叔母さんと?」
志津子と知り合いになったという、慧夢の言葉を聞いて、志月だけでなく陽志も意外そうな顔をする。
「この夢に入る少し前に、俺は偶然……お前の親父さんが事故に遭ったのを見かけて、救急車呼んだんだ。俺も籠宮総合病院まで連れていかれて、その時に知り合ったんだ」
「父さんが事故に遭った?」
志月と陽志が同時に、全く同じ内容の、驚きの声を上げる。
父親の身を案じているのだろう、二人とも不安気な表情で。
「自転車の運転ミスして転んで、脳震盪起して夜道に倒れてたんだ。身体にも何箇所か怪我や打ち身があったみたいだけど、大した事はないって医者は言ってたよ」
事故に遭った父親が、危険な容態では無いと知り、籠宮兄妹は安堵の表情を浮かべる。
「運転ミスの原因は、寝不足と過労だろうって、医者は言ってた。娘さんの看病で、ここ何日か睡眠不足で、疲れ切っていたとかで」
この場合の医者……医師は、大志を担当した当直の医師だ。
同じ病院の先輩医師を助けられたのに、恩義を感じていたせいだろう、大志を処置した後、慧夢と話した際に、事故に至った原因を話していたのだ。
「まともに自転車の運転が出来なくなる程に、お前の事が心配で、夫婦で交互に一週間以上、看病を続けていたんだ。そんなお前の両親が、お前を大事に思っていない訳がないじゃないか!」
その話を信じたいが、信じ難い……そんな相反する感情に、志月は心を乱される。
大志と陽子が、自分を大事に思ってくれているのが事実なら嬉しいのだが、慧夢の話を信じていいのかどうか、まだ志月には分からないのだ。
喜びと疑念が入り混じった、複雑な表情を志月は浮かべる。
「――俺の言う事が、信じられないって顔してるな。ま……いいさ、目を覚ませば……すぐに俺の言う事が、本当だって分かるから」
おどけた風に肩を竦めてから、慧夢は両腕を志月の方に向ける。
「これから目を覚ますお前が、最初に目にするのは、やつれ切った両親の顔だ。次に見るのは、目覚めたお前を見て、泣く程に喜ぶ両親の顔さ」
子供を諭す様な口調で、志月に語りかけながら、慧夢は両腕に力を込め、ネックレスを左右に引っ張り始める。
「それを見れば、お前の親が……お前を大事だと思ってるのは、分かる筈だ。お前が余程の馬鹿でもない限りな」
ネックレスを引き千切り始めた慧夢を、迷いの表情を浮かべて、志月は見上げている。
慧夢の話を信じられず、制止の為の行動を起したい感情と、信じた上で目覚めたいという感情が、心の中で葛藤しているのだ。
「まぁ、お前はチルドニュクス飲むレベルの馬鹿だから、案外本当に分からないかもしれないけどな。いや、実際……あんな胡散臭い物、馬鹿でもなければ飲む訳がないし!」
慧夢にしては棘のない、比較的優しげな口調で語り続けていたのだが、つい口の悪さが顔を出してしまった。
何故、慧夢が言葉の棘を抑え、わざわざ志月を諭す様な話をしていたのかといえば、両親を大事に思っている事を、志月に自覚させ、両親も志月を大事に思っていると、志月に信じさせる必要があると考えているからだ。
ネックレスを引き千切り、夢の鍵を破壊すれば、志月は目覚めて現実世界に戻る。
でも、ただ現実世界に戻すだけでは、またチルドニュクスを飲むなどして、自殺する可能性があるのではないかという不安を、慧夢は覚えた。
志月が自殺同然の真似をした理由は、陽志を喪った事が、最大の原因であるのは確かだ。
でも、両親を大事だと自覚出来ず、両親から大事に思われているのに気付けない事を原因とした、両親に対する感情の縺れも、志月が自殺同然の行為に走った大きな原因だと、これまでの経緯から、慧夢は感じていた。
陽志を生き返らせるのは不可能だが、自身が知る情報を元に、志月の両親に対する感情の縺れを、多少なりともどうにかする事なら、自分にも出来る筈だと、慧夢は考えた。
懐中時計で現在時刻は確認済み、時間的な余裕もあるし、モブキャラクター達も動きを止め、邪魔をしてくる様子が無いので、慧夢は考えを実行に移す事にした。
故に、現実世界に戻った後、志月が再び自殺同然の行為に走ってしまうのを防ぐ為、らしくない優しげな口調で、慧夢は志月を諭し続けていたのである。
結局は最後に、普段の悪癖が顔を出してはしまったが。
「――ほんと、口が悪いね……夢占君」
馬鹿呼ばわりされたのは不快であっても、らしくない口調で諭し続けていた慧夢の意図は、志月に伝わっていた。
そのせいで、これまでは不快で苛立たしい、嫌な存在としか思えなかった慧夢に対し、全く異なる感情が、志月の心の中に湧きあがって来る。
先程から続いている葛藤に、慧夢に対する感情の変化への戸惑いまでもが加わった為、志月の感情と表情は、複雑過ぎる様相となる。
「私……貴方みたいに、口が悪い人……嫌いだわ」
「そりゃ……気が合うな。俺も籠宮みたいな、ブラコンで性格キツい、細かい女は嫌いだから」
以前、教室内の口論で交わしたのと、似た言葉を二人は交わす。
でも、あの時とは違い、二人の声にも表情にも、悪意や刺々しさは無い。
そして、その言葉が交された直後、慧夢が全力で引っ張り続けていた、ネックレスの頑丈な糸が、とうとう限界を迎えた。
派手な音を立てて糸は切れ、ビーズ程の大きさがある銀色の金属球が、花火の様に辺りに飛び散り、軽やかな音を立てながら、瓦屋根や庭に落下する。
ネックレスは、引き千切られた。志月の夢の鍵は、破壊されたのだ。