174 鰻丼か、最後の晩餐としちゃ……悪く無いな
「お帰りなさい」
ダイニングキッチンに姿を現した大志と陽子に、志月は棚から皿を出しつつ声をかける。
「ただいま」
大志と陽子は、ほぼ同時に志月に言葉を返す。
普段なら夕食のメニューについて話し始めるのが、帰宅直後の二人なのだが、今回は違った。
夕食より優先度が高い話題を、大志と陽子のモブキャラクターは持っていたのだ。
「今日は病院で、大変な事があったのよ」
普段通りではない会話の流れに、少しだけ驚きながら、志月は陽子に問いかける。
「――何があったの?」
「志津子が強盗に襲われたんだ!」
問いに答えたのは、大志である。
「叔母さんが強盗に?」
驚きの声を上げた志月に続き、遅れてダイニングキッチンに姿を現した陽志も、驚きの表情を浮かべ、大志と陽子に問いかける。
「叔母さんは無事なの?」
志津子は志月と陽志にとって、家族同然に親しい親戚なので、まずは本当に驚き……志津子の身を案じたのだ。
強盗に襲われた志津子が、モブキャラクターの志津子である事に、僅かの間ではあるが思い至らない程に。
「無事よ、縛られて車を盗まれたけど」
志津子の無事を伝える陽子の返答を聞いて安堵し、落ち着いた志月と陽志は、二人は襲われたのが現実の志津子ではなく、夢世界の志津子である事に、ようやく思い至る。
その結果、志津子の身を案じる方向から、明らかにイレギュラーと言える事件が発生した事自体の方へと、志月と陽志の思考はシフトする。
イレギュラーな事件には、この夢の中におけるイレギュラーな存在……慧夢が関わっている可能性が高いのではないかと、二人は考えたのだ。
「車って……あのハンヴィーが盗まれたの?」
何度も乗せて貰った経験があるハンヴィーを思い出しつつ、志月は陽子に訊ねる。
「ハンヴィーっていうの? 名前は知らないけど、盗まれたのは……あのゴツゴツしたアメリカ軍の車よ」
車に詳しく無い、現実の陽子のキャラクターを反映しているのか、そんな感じの答を陽子は返す。
「あんな運転し辛い車を、わざわざ盗み出すなんて、変わった趣味の奴もいたもんだ」
率直な感想を、大志は口にする。
現実世界で志津子がハンヴィーを手に入れた頃、志月と陽志は両親と共に、ハンヴィーに乗せて貰った事があった。
その際、少しだけ大志は志津子と運転を変わり、ハンヴィーを運転した経験があった。
「左ハンドルってだけじゃなくて、癖が強過ぎて運転し辛いな……この車」
大志が口にした、ハンヴィーを運転した感想を、志月は覚えていた。
故に、夢世界のキャラクターの大志に、その記憶が設定として反映された結果としての、「運転し辛い車」という発言である。
強盗の正体が気になった志月は、大志に問いかける。
「その変わった趣味の車強盗って、どんな奴だったか分かる?」
「志津子の話では、志月と同じ川神学園の生徒だったらしい。高等部の男子生徒だとか。高校生が車泥棒するなんて、埼玉も治安が悪くなってきてるのかねぇ」
「何で分かったの?」
志月に続いて問いかけた陽志に、今度は陽子が答える。
「川神学園高等部の、制服を着てたんだって。ワイシャツの胸ポケットに、学園章の刺繍が入ってるでしょ、川神学園の制服」
陽子の言う通り、川神学園の男子生徒用制服は、左胸のポケットに学園章が入っている。
高等部は濃紺で中等部は臙脂と、色の違うアイロンプリントを使う為、知っている者が見れば、川神学園の高等部か中等部かは分かるのだ。
籠宮家では志月だけではなく、陽志も川神学園に通っていたので、志津子も川神学園の制服についての知識はあったのである。
「うちの高等部の男子なら、知っている奴かも。他に何か、特徴とかなかった?」
志月の問いに対し、大志が口を開く。
「かなり目付きが悪かったそうだ。軍人に例えると、捕虜を虐待拷問する、鬼軍曹の様な目付きをしていたとかで」
陽子が大志の答に、付け加える。
「あ、でも……割りと整った顔立ちの男の子だったらしいよ、志津子さんの話だと」
目付きが悪く、顔立ちは割りと整っている、川神高等学園高等部の男子生徒……。
その条件に、慧夢は全てが合致する。
故に、大志と陽子の話を聞いて、志月と陽志は合点がいった風な表情を浮かべる。
志津子からハンヴィーを奪った強盗は慧夢なのだと、志月と陽志は確信したのだ。
慧夢が自動車を使い、繰り返し籠宮家に接近しようとしていたのは、志月も陽志も知っている。
その度に屋敷の外で、モブキャラクター達が騒然となるので、何が起こったのかと屋敷の二階から外を見るなどして、知ったのである。
自動車に詳しく無い志月と陽志であっても、喧しい程のエンジン音を響かせる、ごつい車体の軍用車両であるハンヴィーが、並の自動車とは次元が違う突破力を持つだろう事くらいは、推測出来る。
慧夢が自動車による突撃を繰り返していたのを知っている二人は、そんなハンヴィーを慧夢が入手した理由を、すぐに察してしまった。
強力な突破能力を持つだろうハンヴィーで、多数のモブキャラクター達による警備と妨害を突破し、慧夢が屋敷に突撃しようとしているのに、志月も陽志も気付いたのだ。
もっとも、屋敷に火を放ち、屋敷ごと破壊しようとしている事には思い至らず、陽志に接触しようとしているだけだと、二人は思っているのだが。
志月の夢世界が終わるまで、もう長い時間が残されていないのを、慧夢の様に正確な時間までは分からずとも、志月と陽志は察している。
残り時間が少ない中、病院を襲うというリスクを冒してまで、強力なハンヴィーを手に入れたのは、慧夢が総力を挙げた最後の策を仕掛けて来るからなのは、志月と陽志にとっては明らかだった。
この夢の中での最後の戦いが、もうすぐ始まる。
戦いに慧夢が勝利すれば即座に、志月が勝利しても程無く、夢の世界の終わりが訪れるのだ。
夢の終わりが近い現実を悟った、志月と陽志の瞳は、何処と無く寂しげである。
「私達は着替えて来るから、夕食の準備……お願いね」
とりあえず話したい事は話し終えたとばかりに、そう言い残すと、陽子は大志と共にダイニングキッチンを後にして、自室へ向う。
「丼にご飯よそって持って来て」
志月はガスレンジに歩み寄りつつ、陽志に声をかける。
「丼って、夕食……サラダと何?」
銀色の台所天板の上に置かれた、海草メインのサラダが入った透明なサラダボウルから、ガスレンジの上の蒸し器に目線を移しつつ、陽志は志月に問いかける。
「鰻丼、兄さん好きでしょ」
ステンレス製の蒸し器が、水蒸気を噴出しつつ発生させる笛の様な音を、陽志は縁側にいる時にも何度か耳にしていた。
ダイニングキッチンに入ってからは、甘塩っぱい匂いも嗅いでいた為、夕食は好物の鰻かもしれないと、心の中で期待していた陽志は、嬉しそうに表情を崩す。
「鰻丼か、最後の晩餐としちゃ……悪く無いな」
冗談染みた口調の言葉を口にしながら、食器棚の前に移動した陽志は、棚から人数分の丼を出し始める。
サラダ用の皿は、既に志月が出し終えているので。
「最後の晩餐……か」
蒸し器のガラス製の蓋を開け、水蒸気と共に立ち昇る甘い香りを嗅ぎつつ、志月は呟く。
これが陽志との最後の夕食になるだろうと、志月も考えているのだ。
それ以上、最後の夕食になるだろう事については触れず、普段通りの会話を交しつつ、兄妹は協力して手際良く夕食を配膳する。
「今晩は鰻丼か、美味そうだな」
ダイニングキッチンに陽子と共に戻って来た、涼しげな藍色の作務衣姿の大志が、テーブルの上に並んだ、湯気を漂わせる鰻丼の臙脂色の丼と、深緑の色合いが強いサラダが盛られた皿を目にして、言葉を漏らす。
大志も陽志同様、鰻は好物なのだ。
ジーンズに白いTシャツという爽やかな出で立ちの陽子も、自分の席に座りながら、感想を口にする。
「今日は色々あって疲れてるから、鰻は有難いわね、栄養価の面からも」
他の三人も自分達の席に座ると、四人は声を揃えて「いただきます」と言ってから、箸を手に取り、鰻丼を食べ始める。
無論、ただ食べるだけでなく、普段通りに賑やかな会話を楽しみながら。
最後の晩餐を、出来るだけ長い間楽しみたいと、志月と陽志が望んだせいだろう。
その晩の夕食は、普段より賑やかで楽しく、夜遅くまで続いたのだった……。
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