173 俺をお前の、過去の想い出にしてくれよ……志月。お前まで死んだら、俺はお前の想い出にすら……なれないじゃないか
暮れなずむ空が反射する陽光には、既に景色を染める程の力は無い。
空を利用した、巨大な間接照明に照らされている様なものなので、景色が薄暗くなるのも当然だ。
夢世界の中の川神市に、程無く夜が訪れる。
北側の住宅地にある籠宮家では、陽志が縁側に腰掛けて庭を眺めながら、夜の訪れを待っていた。
目線の先にあるのは、濃い桃色に色付いた、掌程大きさの芙蓉の花。
庭の隅に植えられた芙蓉の木々が、十数輪の花を咲かせているのだ。
「――随分と桃色が濃くなったね、芙蓉の花」
ダイニングキッチンの方から歩いて来た、暑い夏の夜に合わせた、涼しげな水色の清楚なワンピース姿の志月が、陽志に声をかけつつ、その左隣に腰掛ける。
陽志の右側には、煙草でも吸っているかの様に、口から蚊取り線香の煙を吐き出している、陶器のブタが置かれていたので、左側に座ったのである。
「何となくだけど……寂しげで疲れた感じの、枯れる前の濃い桃色の花より、どちらかといえば、咲いたばかりの白い花の方が、私は清楚で好きだな」
芙蓉は朝に白い花を咲かせ、次第に桃色に色付いて、日が沈んだ夜には枯れる、いわゆる一日花。
咲き誇っている花々は程無く枯れてしまい、また明日は沢山の蕾のどれかが、咲き誇るのだ。
「ずっと白いままならいいのに」
色付いた芙蓉の花を眺めながら、志月は呟く。
「時の流れと共に色が移り行くのが、芙蓉の魅力なんだ。色が変わらないんじゃ、幾ら好きな色の花だろうが、芙蓉としての魅力には欠ける」
淡々とした、何処と無く気力を感じさせない口調で、陽志は志月の問いに答える。
白いTシャツにデニムのハーフパンツという、活動的な夏向けの出で立ちの割りには、陽志には活気が無く、表情は虚ろさを感じさせる。
陽志に活気が無いのは、自分が死んだ事実を思い出してからの数日間の努力が、全て無駄に終わっていたからだ。
繰り返された挫折と行き詰った状況に、精神的な疲労が陽志の中で、蓄積してしまったという感じ。
慧夢が陽志に連絡を取ろうとしていた様に、この数日間……陽志も慧夢と連絡を取ろうと、必死の努力を続けていた。
だが、全ての通信網が断たれていた上、陽志は籠宮家の敷地内に、軟禁されたも同然の状態になっていた。
屋敷の敷地内から数十回の逃亡を繰り返したが、周囲を固めるモブキャラクター達に、あっさりと捕えられ、陽志は屋敷に連れ戻されていた。
慧夢の様に夢世界での行動に慣れていない陽志は、ゾンビ物のゲームや映画などに出て来る、ゾンビの様な扱い方で、モブキャラクターに対抗する、慧夢の様な真似が出来ず、屋敷の敷地から殆ど離れられなかったのである。
陽志は志月の説得も、数え切れぬ程に試みた。
だが、志月は頑なであり、この夢世界が終わると共に、陽志の後を追うという考えを変えない(もっとも、志月が考えを変えた所で、夢の鍵の破壊無しに、この夢世界が崩壊するかどうか、陽志には分からないのだが)。
夢世界での経験と知識に、慧夢とでは大きな差がある陽志の場合、思い付き試せる手段が格段に少なく、追い込まれるのも早かった。
慧夢ですら行き詰りかけた夢世界なのだから、夢世界で過ごす事に関しては、初心者である陽志が追い込まれるのは、当たり前といえるのだ。
もっとも、まだ陽志は諦めた訳では無い。
繰り返された徒労のせいで、一時的に心が萎え、失ってしまった活力を、好きな芙蓉の花を眺める事により、陽志は癒しているのである。
「――人生も芙蓉の花の色と同じだよ。時の流れと共に移り行くからこそ、素晴らしい」
「どういう事?」
陽志の言葉の意味が分からなかった志月は、首を傾げつつ問いかける。
「誰の人生だって、辛い時ってあるだろ? でも、どんな辛い時だって、時の流れは過去に押し流して、想い出に変えてくれるんだ」
芙蓉の花を眺めながら、陽志は淡々とした口調で続ける。
「俺が死んだせいで、今……お前は辛い時の最中にいるのかもしれないけど、その辛い時も時の流れが、過去のものにしてくれるのさ……生き続けている限り」
陽志は目線を、芙蓉の花から志月に移す。
「――お前は辛さに捉われ過ぎているから、辛さに負けて人生を自分で終わらせようとしてしまうんだ。捉われ過ぎなければ、時の流れがお前の人生を、先へと進ませてくれる」
気まずそうに目線を庭の方に逸らすだけで、志月は言葉を返さない。
「俺をお前の、過去の想い出にしてくれよ……志月。お前まで死んだら、俺はお前の想い出にすら……なれないじゃないか」
寂しげな笑みを浮かべながらの陽志の言葉に、何か言葉を返そうと、志月が唇を開きかけた時、玄関の方から自転車のブレーキの甲高い音が響いて来る。
言いかけた言葉を飲み込んで、志月は別の言葉を口にする。
「帰って来たみたいね、夕食の準備しないと」
聞き覚えのある大人の男女の声と、格子戸を開ける音も、縁側にいる二人の耳に届く。
夢世界のキャラクターである大志と陽子が、帰って来たのだ。
「料理、テーブルに並べるから、兄さんも手伝ってよ」
志月は立ち上がり、ダイニングキッチンに向かって歩いて行く。
夕食の準備といっても、調理自体は既に終わっているので、後は皿に盛ってテーブルに並べるだけの状態。
この世界が夢の中であるのを知ってからも、志月と陽志は両親のキャラクター達と、普段通りの日常を過ごしている。
陽志と日常を過ごす夢こそが、志月の望んだ夢だったので、日常において一定の部分を占める両親との関係を、志月は維持しようとしている為、陽志もそれには合わせている。
故に、これまで通り帰宅した両親と共に、志月も陽志も夕食を摂るのだ。
夢世界が作り出した、偽者の両親相手であっても。
「――夕食か」
空腹を覚えた陽志は、気だるげな動きで立ち上がる。
「夢の中でも、腹が減るんだな。俺の身体はもう、存在してないってのに」
自嘲気味に呟きながら、陽志もダイニングキッチンに向かって歩き始める。