147 そもそも、私は痴漢になんて遭った事が無いんだから、これは現実に遭った出来事の記憶じゃない! 現実じゃなくて、確か……あの時の!
「――そうだ、碇屋教授の講義に出て来たんだ、夢占っていう苗字」
メールの本文を読み終えた志津子は、感慨深げに呟く。
碇屋教授が夢占に関して話した内容自体は、まだ思い出せてはいないのだが、どんなシチュエーションで夢占という苗字について知ったのかを、志津子は思い出し始めていた。
「千鶴や藤間ちゃんと受けてた講義で、碇屋教授が雑談気味に話してたんだけど……」
その時の光景が、頭の中の靄が晴れる様に、志津子の頭の中ではっきりと甦り始める。
「スライドまで用意してあったから、『脱線して雑談になったんじゃなくて、最初から話そうとして準備してたんじゃない?』って、千鶴が言ってたんだ……確か」
心理学の講義の途中、話が脱線してオカルト系の雑談になった風に、碇屋教授は装っていた。
でも、上映用のスライドまで用意してあったので、碇屋教授は趣味であるオカルト……超心理学に関する話を、最初からするつもりだったんだろうという趣旨の発言を、隣の席に座っていた千鶴がしていたのを、志津子は思い出したのだ。
それでも、まだ碇屋教授の話の内容自体を、志津子は思い出せない。
メールの本文にも、その内容は記されてはいなかった。
「あの時……碇屋教授がした話の内容が、この画像を見れば分かるんだ」
仰向けに寝転んでいた志津子は上体を起こすと、ベッドを椅子の様に使って座る。
そして、一度だけ深く深呼吸をしてから、志津子はスマートフォンを操作して画像を開く。
一枚目の画像は、肌も露な若い女性が化け物に襲われている、古臭い絵柄のイラストが描かれた、雑誌の表紙だ。
これまた古臭いタイポグラフィで、「奇譚タイムズ」という誌名が印刷されている。
出版が自由化された終戦直後、エログロを売りにした娯楽雑誌が、粗製濫造された時期があった。
そういった雑誌は粗悪な酒……カストリ酒に擬えて、カストリ雑誌と呼ばれていたのだが、奇譚タイムズもカストリ雑誌の一つである。
エログロ……つまり性風俗や猟奇的な事件を扱った記事の多さは当然として、今で言えばオカルトに分類される、不思議な話題を扱った記事が多かったのが、奇譚タイムズの売りだった。
不思議な話を意味する、「奇譚」という言葉が示す通りの雑誌だったのだ。
表紙の画像には、特に夢占に関する情報は無かったので、志津子は二枚目の画像を開いて見る。
すると、黄ばんで所々に紙魚がある、白黒印刷の記事のページをスキャンした画像が、スマートフォンのモニターに映し出される。
画像の記事のタイトルを、驚き両目を見開きつつ、志津子は音読する。
「人の夢の中に入り込む江戸の怪人、夢占幻夢斎……」
タイトル以外の文字は小さくて、拡大しなければ読めたものではない。
志津子はスマートフォンを操作し、画像を拡大しようとするが、記事を読み始める前に、その記事を大学の講義で目にした時の記憶が……碇屋教授の話などが、記憶の奥底から蘇り始める。
「――そうだ、夢占って……夢占幻夢斎、江戸時代の夢占い師の苗字だったんだ!」
モニターに映し出された画像を拡大しながら、志津子は興奮気味の口調で独白を続ける。
「碇屋教授が、集合的無意識について説明していた時、関連する夢の話から脱線する形で、夢占幻夢斎の話を始めたんだっけ? 確か、人の夢の中に入れるっていう……」
拡大され、読める様になった記事には、江戸時代の新聞といえる瓦版で紹介されていた、夢占幻夢斎に関する記述を、現代語に直したという触れ込みの文章が載っていた。
「稀代の天才との評判を取りし夢占幻夢斎は、只の夢占い師に非ず。霊力を以って人の夢の中に入れし、神仙の如き者也……そうそう、やっぱり夢の中に入れる人だって、紹介されてる!」
自分が思い出したばかりの記憶が、正しかった事が嬉しく、志津子の口調は嬉しげである。
だが、その嬉しげな表情が……戸惑いの表情に移り変わる。
表情の変化の原因は、志津子の頭の中で、別の記憶が甦り始めたから。
志津子が「夢占」という苗字に関わる話において、「夢の中に入れる」という言葉を口にしたせいで、記憶の海に沈み込んでいた記憶が、表層意識まで浮上したのだ。
「す、すいません! いや、わざとじゃないんですッ!」
自分を押し倒し、胸に顔を埋めた慧夢が、照れと焦りの入り混じった表情を浮かべて見下ろしながら、謝罪の言葉を口にする姿が、志津子の頭に甦った。
「ち……痴漢よ! 誰か来て! 痴漢よ! 目付きの悪い変態よ!」
直後、そんな叫び声を上げた事も、志津子は思い出す。
そして気付く、今は記憶の中の少年の名前が、夢占慧夢だと知っているが、叫んだ時には名前を知らなかった事に。
名前を知っていたなら、名前を口にして罵倒していたに違いない。
だが、名前を知らない初対面の人間だったからこそ、名前を口に出来なかったのだ。
「そもそも、私は痴漢になんて遭った事が無いんだから、これは現実に遭った出来事の記憶じゃない! 現実じゃなくて、確か……あの時の!」
慧夢に押し倒された記憶が何であるのか、志津子は思い出す。
恥ずかしい記憶と共に。