136 喉を鉄パイプみたいなのに切り裂かれた後、生温かい血が噴出して止まらなくなって、息が出来なくなって……苦しかったのが、生きている時の最後の記憶さ
「ただいまー」
志月は引き戸を閉めつつ、普段よりは微妙に張りが無い声で、帰宅を告げる。
玄関の明りは点いておらず、窓から射し込む夕陽だけが光源となっている、屋敷の中は薄暗い。
土間を一瞥し、志月は陽志の靴があるのを確認。
その上で、志月は廊下の先にある、ダイニングキッチンに目をやる。
ダイニングキッチンの戸は開いているが、明りは漏れていない。照明は消えた状態なのだ。
(靴はあるけど、家にいないのかな? それとも二階に?)
志月が帰宅する頃合、陽志が在宅している場合は、ダイニングキッチンにいる場合が多い。
夕食の準備は志月と陽志がする場合が多いので、陽志はそうしているのである。
今日の様に暗くなる程に帰りが遅れた時は、ダイニングキッチンの明りは、点いているのが普通。
それなのに暗いままなので、陽志がダイニングキッチンに居ないのかもしれないと、志月は思ったのだ。
大抵の場合、志月も帰宅後は自室に向う前に、ダイニングキッチンに向う。
今日は何処と無く様子が違う事に戸惑いながら、志月は靴を脱いで廊下を歩いて行く。
(まぁ、昨日程の事は無いよね。明かりがどうとか、気にしている場合じゃなかったもの)
昨日の帰宅時を思い出しながら、志月は心の中で独白を続ける。
(兄さんが言ってた話は、兄さんが見た夢の話ではなくて、本当の話だったのね。正確に言えば、私の夢の中で起こった話なのだけど)
陽志同様に、慧夢の襲撃を受けた際、志月は慧夢から聞いていた。
慧夢が陽志を斧で襲ったという話を。
「鞄だけじゃない、籠宮さんの兄貴の身体も俺の斧に斬り裂かれたのに、元通りに戻ってただろ?」
慧夢の話を思い出しながら、志月の頭に疑問が浮かぶ。
(私の夢の中の夢占君は何故、兄さんや私を襲ったのかな? チルドニュクスが私に見せている、私が楽しめる夢の筈なのに、そんな事が起こるのは変過ぎるよね?)
続けて、志月は慧夢と相対した際、自分の周囲にいた人物……キャラクター達が、自分の望み通りに動いた光景を思い出す。
元々、この夢世界に出て来るキャラクターの殆どは、志月の望み通りに動いていたのだが、志月は自覚無きまま、無意識に影響を与えていたに過ぎない。
だが、記憶の封印が解けて明晰夢化した状態となった志月は、自覚を持ち……意識的にモブのキャラクター達を動かした。
この夢の世界にいる人間の殆どが、実は自分の望み通りに動いていた事を、明晰夢化の際に自覚した為、それをより踏み込んだ形で、意識的に利用したのである。
(――でも、何で夢占君は、思い通りにならなかったのかな? あの時は現実と同じで、相性が悪いせいだと思ったんだけど……)
浮かんだ疑問について思索を深める前に、志月はダイニングキッチンに辿り着いた。
そして、ダイニングキッチンと居間の向こう側にある縁側に腰掛けている、陽志の背中が目に入った為、志月の思索はそこで打ち切られる。
「ただいま! 電気点いてないから、居ないのかと思ったよ」
ダイニングキッチンの床に鞄を置きつつ、陽志に声をかけてから、志月は縁側に向かって歩き始める。
返事がないのに違和感を覚えつつ、志月は陽志の左隣に来て、縁側に座り込む。
縁側を長椅子の様に利用して、暮れなずむ空と庭を、志月は陽志と肩を並べて眺める。
「今年は空梅雨だったけど、兄さんがまめに水をやっていたから、庭の草木も健やかだね」
庭の隅に植えられた、大きな掌の様な葉を多数広げている、子供程の高さの低木に目をやり、志月は言葉を続ける。
「今年の夏も、きっと芙蓉が綺麗だよ」
目線の先の低木は、夏に薄桃色の花を咲かせる芙蓉。
陽志も志月も、夏に咲き誇る芙蓉の花が、お気に入りだったのだ。
「――生きていたら、本物が見れたんだろうな。今年の芙蓉の花も」
淡々とした口調で、陽志が口にした言葉を聞いて、志月は心臓を鷲掴みにされたかの様なショックを受ける。
だが、それを気取られぬ様に、努めて冗談染みた口調で言葉を返す。
「生きていたらって……まるで自分が、死んでるみたいな言い方するのね」
「死んでいるんだろ、俺は」
悲痛な感情を押し殺し、抑揚も生気も無い口調で、陽志は語り続ける。
思い出してしまった、真実について。
「五月三十日の朝……大学に向う途中、俺は川神街道で事故を起こして死んだんだ。居眠り運転だったんだろうな、運転ミスした記憶すら無い……」
陽志の認識通り、事故の原因は居眠り運転であった。
電柱と道路標識に衝突し、フロントガラスを貫いた、折れた道路標識の支柱に喉を掻っ切られ、噴出した血が気管に流れ込み、窒息死に至ったのだ。
「大学の課題で夜更かしが続いて、睡眠不足だったのが拙かったか。まぁ、誰も巻き添えにしないで済んだのは、良かったけど。誰か巻き込んでたら、後味悪いからなぁ」
これまで表情を抑えていた陽志が、自嘲気味の笑みを浮かべる。
「喉を鉄パイプみたいなのに切り裂かれた後、生温かい血が噴出して止まらなくなって、息が出来なくなって……苦しかったのが、生きている時の最後の記憶さ」
自分が死んだ時の記憶を思い出しつつ、陽志は言葉を続ける。
「手が動けば気道を確保出来たのかも知れないが、衝突したショックで両腕が折れたみたいで、どうにも出来なかった。一応対処法習ってたのに、生かせなかったのは口惜しいね」
「――さっきから何を……言ってるのよ、兄さん。また悪い夢でも見たの?」
動揺を押し殺し切れず、問いかける志月の声は震えている。
「夢か……そうだな、夢を見ていたんだ俺は」
陽志の返答を聞いて、志月は安堵の表情を浮かべる。
他のモブキャラクター達と同様に、陽志も自分の望みに従い、陽志の死に関する記憶が夢だと認識したのだと、志月は陽志の「夢を見ていたんだ俺は」という返答の意味を、解釈したのだ。
だが、それは志月の思い違いであった。
「志月……お前が見ている夢を、一緒にな」
その言葉を聞いて、志月の表情が凍り付く。
陽志が慧夢同様に、自分の思い通りにならない存在である事に、志月は気付いたのである。