127 お前は昨日の、俺を斬り殺した奴じゃないか! いや、でもあれは夢の筈だよな?
「――音がしていたのは、志月の部屋の方だよな?」
志月の部屋から遠ざかったせいか、階段の下の方にいる今の陽志に、音は聞こえない。
居間にいた時は、居間の縁側に近い側の二階……志月の部屋がある方から、音が響いて来ていた為、そう陽志は判断していたのだ。
陽志は忍び足で、階段を上がり始める。
音を立てぬ様に気遣い忍び足で上がっても、古い階段は、ぎしり……と軋む様な音がしてしまう。
だが、自ら階下に響く程の音を立ててしまっている、焦りのせいで判断力と感覚が鈍っている今の慧夢は、陽志が階段を上がる音には気付けない。
中々切断出来ない堅い木刀に、慧夢は必死で斧の刃を振り下ろし続けていた。
そして、振り下ろし続けている内に、慧夢は木刀を抑えてた左手に痛みを覚えた。
木刀を斧で打ち付ける衝撃が、木刀を抑える左手に伝わり続けたせいだ。
(少し休むか……)
ようやく半分近くまで、木刀に切れ目を入れられた辺りで、慧夢は斧を振り下ろす右腕の動きを止める。
左手を軽く振り、痛みを和らげている最中、慧夢はドアが僅かに開かれた音を聞き取った。
(――!)
慧夢は驚き焦りつつも顔を上げ、ドアの方に目をやる。
廊下から部屋の中の様子を窺うかの様に、ドアは僅かに開かれていた。
音がするのが気になり、陽志は音を辿って志月の部屋の前に辿り着いた。
慎重にドアを少しだけ開けて、陽志が中を覗こうとしたら、いきなり音が止んでしまい、ドアを開けた事を慧夢に気付かれ、ドアの隙間を通して、慧夢と目が合ってしまった……という状況。
(やばい、逃げないと!)
慧夢は素早く斧を畳んでポケットに仕舞い、左手で木刀を手にすると、近くにある窓に駆け寄る。
まだ夢の鍵かどうかを確かめ終えていないのは、切断途中の木刀だけなので、窓から逃げつつ木刀を持ち出し、安全な所まで逃げ去ってから、木刀を切断しようと考えたのだ。
「待て、泥棒!」
侵入者の顔を良く見ておらず、慧夢を泥棒だと思い込んでいる陽志は、ドアを勢い良く完全に開き、木刀を振り上げながら慧夢に駆け寄る。
窓を開けている最中の慧夢に向けて、陽志は木刀を勢い良く振り下ろす。
ガキッ……という鈍い音が、志月の部屋の中に響く。
窓を開けている最中、窓ガラスに映った木刀を振り上げている、陽志の姿に気付いた慧夢は、木刀で陽志の木刀を受け止めたのだ。
木刀なので鍔は無いのだが、鍔迫り合いの様な押し合いの状況になり、慧夢と見合う形となった陽志は、ようやく気付く。
目の前にいる相手が、昨日……自分に斧で斬りかかって来た相手と、同じ顔をしている事に。
その出来事を、陽志は自分が居眠り中に見た夢だと、思い込まされていた。
実際、志月の夢という意味でなら、夢の中の出来事ではあるのだが。
「お前は昨日の、俺を斬り殺した奴じゃないか! いや、でもあれは夢の筈だよな?」
陽志は驚きの表情を浮かべ、声を上擦らせながら続ける。
「どういう事だ? 俺はまた夢を見てるのか?」
(そうだ、籠宮の兄貴は夢だと思い込まされているんだった!)
その言葉から、慧夢はダイニングキッチンでの会話を思い出す。
陽志が慧夢に斬り殺されたのを、志月達に夢だと思い込まされていた会話を。
直後、慧夢が手にしていた木刀が、鈍い音を立てて折れる。
半分まで切れ目が入っていた為、折れ易くなっていたのだ。
(切断する手間が省けた! こいつはラッキー……とは言い切れないか!)
手間が省けたのは、確かに幸運なのかもしれないが、武器を失った状態で、木刀を手にした陽志と相対するのは分が悪い。
このまま夢世界が崩壊するなら問題は無いが、崩壊しない場合は、下手すれば陽志に叩きのめされた上、捕まってしまいかねない。
(どうする? 何とかして、籠宮の兄貴の気を逸らさないと!)
必死で考える慧夢の頭に、一つの打開策が浮かぶ。
より正確に言えば、時間が無さ過ぎる為、一つしか思い浮かばなかったので、それを選ぶしか無い状況。
慧夢は早速、その打開策を実行する。
「夢といえば夢だけど、それは籠宮陽志……あんたの夢じゃない! この世界はあんたの妹の夢の中なんだ!」
強い口調で、慧夢は陽志に真実を告げる。
「あんたは交通事故で死んで死霊になった状態で、妹の夢の中に取り込まれてんだよ! 思い出せ、あんたは五月三十日の朝、交通事故で死んでいるんだ!」
慧夢の話を聞いて、陽志は呆然となる。
心の奥底で、ひょっとしたら自分が夢だと思い込んでいる交通事故が事実であり、自分は既に死んでいるのではないかという不安を、心の奥底で抱いていた陽志は、突然慧夢に現実を突きつけられ、心が激しく揺らいだのだ。
夢世界の主に、自分が居る世界が夢であるという現実を突きつけると、衝撃を受けて心が揺らぐ。
つまり動揺して隙が出来るのを知っていたので、夢の主同様に本当の意味での人格がある陽志なら、真実を突きつければ動揺し、隙が出来るに違いないと、慧夢は考えたのである。
陽志に真実を伝えて動揺させ、隙を作り出すという慧夢の策は成功。
陽志は武器を失った慧夢に、木刀で攻撃を仕掛けるのも忘れ、棒立ちになったまま狼狽してしまう。
(今だッ!)
その隙を見逃さず、慧夢は右脚を振り上げて、陽志の腹部を蹴り跳ばす。
蹴りは隙だらけの陽志の腹部にヒット、慧夢は陽志を仰向けに転倒させる事に成功。
直後、左手で握ったままだった木刀の柄が、砂でも握っていたかの様に、崩れる感じを慧夢は覚える。
破壊された木刀の、粒子化が始まったのだ。
床に落ちた木刀の刀身の方も、粒子化を開始したが、夢世界が崩壊する様子は無い。
「この木刀も外れか!」
慧夢は言葉を吐き捨てながら、半開きの窓を完全に開ける。
そして、粒子化が始まった木刀の刀身を、慧夢は指差す。
「この世界が現実なら、木刀がこんな風になる訳が無いだろ! この世界は、夢の世界なんだ!」
そう陽志に言い放つと、慧夢は踵を返して、開け放たれた窓から外に出る。
そのまま瓦屋根の上を端まで歩くと、勢い良く慧夢は庭に飛び降りる。
(骨ぐらい折れても、夢世界ならすぐに治る!)
夢世界での無茶には慣れているので、現実世界なら多少はハードルが高い行為である、二階相当の高さから飛び降りるという行為を、慧夢はあっさりと実行。
そのまま庭を駆け抜けると、庭石を踏み台にして塀を乗り越える。
陽志は屋根の上までは、慧夢の後を追えたのだが、慧夢と違って靴を履いていない上、この世界が夢だという現実を完全には信じ切れてはいないし、夢世界での行動にも慣れていない為、二階から飛び降りるのを躊躇してしまう。
結果、慧夢は陽志に捕まらずに、自転車で走り出すのに成功。
籠宮家を後にして、何処かへと走り去る。
独り残された陽志は少しの間、一階の屋根の上から、慧夢が走り去ったと思われる方向を眺め続ける。
だが、深く溜息を吐いた後、諦めの表情を浮かべて踵を返し、屋根の上を歩いて志月の部屋に戻る。
部屋に戻った陽志の目に、床に落ちている木刀の姿が映る。
自分が慧夢と鍔迫り合いの様に押し合った挙句に折った後、カラフルな砂粒の如き粒子群となり、分解した筈の木刀が、何もなかったかの様に元通りの姿になっているのを、陽志は目にしたのだ。
「――この世界は志月の夢の中で、俺は五月三十日に交通事故で死んで、死霊となって志月の夢の中に取り込まれている……」
慧夢に知らされた真実を、自分の言葉に直した上で、陽志は虚ろな表情を浮かべて呟く。
出来れば信じたくはない現実を直視すべく、自分に言い聞かせているかの様に……。
× × ×