120 殆ど記憶にないレベルだよなよ、慧夢が体調悪くて学校休むなんて。あいつが学校休んだのなんて、昔……家出した時くらいだった気が
「遅いな、慧夢の奴。このままだと遅刻じゃん」
左隣の席に目線を送りつつ、素似合は五月に語りかける。
左隣……つまり慧夢の席には、誰も座っていない。
六月十日の朝、現実世界の教室は、慧夢不在のまま朝のホームルームが始まる時刻を、迎えようとしていた。
「慧夢の場合は寝過ごしても、おばさんが叩き起こすらしいから、遅刻と無縁なのに、珍しい事もあるもんだね」
椅子の背凭れを左の肘掛にして、左側を向いて椅子に座り、素似合と話していた五月も、主のいない慧夢の席を見ながら、言葉を続ける。
「そろそろチャイムが……」
五月の言葉が終らぬ内に、黒板の上に据え付けられている鼠色の箱型のアンプが、喧しいチャイムのメロディを流し始める。
その左隣にある時計も、朝のホームルームが始まる時刻が訪れたのを示していた。
席を離れていた多くの生徒達が、一斉に自分の席に移動する。
既に六月、生徒達が着ているのは皆夏服であり、ワイシャツやセーラー服は目に眩しい白さだ。
殆どの生徒達が自分の席に移動を終えた頃合、前方のドアが開いて、伽耶が教室の中に入って来る。
白のワイシャツに黒のパンツという、普段通りにマニッシュな出で立ちではあるが、こちらも生徒同様に夏向けの涼しげな印象。
「起立!」
クラス委員の志月が不在な為、副委員の男子生徒が、号令をかけた。
号令に合わせて、生徒達は一斉に起立。
「気をつけ! 礼! 着席!」
生徒達は号令通りに、姿勢を正して礼をしてから、着席する。
礼のタイミングでは、伽耶も生徒達に礼をする、何時も通りのホームルームの光景。
伽耶は一度、慧夢の不在を確認する様に、慧夢の席を一瞥してから、手にしている名簿を開く。
「出欠取るぞ! 麻生!」
五十音順になっている出席番号順に、伽耶は生徒達の出欠を取り始める。
苗字が被らない生徒達は苗字だけを、苗字が被る生徒達は名前までを呼んで、その返事を確認する。
だが、順調に生徒達の返事が確認出来たのは、途中まで。
「籠宮は……今日も休みだと、家の方から連絡があった」
伽耶は名簿の志月の欄に、欠席の印を記入すると、すぐに次の生徒の名を呼ぶ。
既に志月が休み始めてから十一日目になるので、出欠を取る際に志月が休みなのに、皆が慣れてしまっているのだ。
志月が永眠病だという噂は、生徒達の間にも流れている。
無論、既に社会一般ではデマとして否定された永眠病の存在自体を、本気で信じている生徒はいない。
チルドニュクスを志月が飲んだのを知っている絵里だけが、不安感を払拭し切れてはいない。
慧夢に説得されたお陰で、かなり不安感と罪悪感が軽くなったとはいえ、親友が眠り続けている状況は続いている為、伽耶が志月の事を口にした際、絵里の表情は沈んでいた。
伽耶は生徒の出欠を順調に取り続けるが、その流れが再び止まる。
「――夢占も家の方から、体調が悪いので休むと連絡があった」
生徒達に慧夢がいない理由を説明しながら、伽耶は名簿の慧夢の欄に、欠席の印を記入する。
「遅刻じゃなくて休みなんだ、珍しいな……慧夢が体調悪いとか」
五月の言葉に頷き、素似合も口を開く。
「殆ど記憶にないレベルだよなよ、慧夢が体調悪くて学校休むなんて。あいつが学校休んだのなんて、昔……家出した時くらいだった気が」
「あー、そういえばあったね、そんな事。小学生の頃に何度か」
慧夢は小学生時代、何度か行方不明になり、大騒ぎを引き起こした事があった。
表向きには家出だったという事になっているのだが、実際には家出ではなく神隠しである。
夢芝居の力を継ぐ者の能力は、基本的には年齢と共に強まっていく。
だが、幼少時に一時的に、その霊的能力が異常に強まる時期があるのだ。
そんな時期、起きている時でも、普通の人には見えぬ物や見えぬ世界が、見える様になってしまった夢芝居能力者の子供は、人ならざる者の世界へと誘われてしまったりする。
いわゆる神隠し状態になってしまうのである。
能力が強い子供程、神隠しに遭う確率が高いと、夢占の一族には伝えられている。
霊的能力が強くなければ、人ならざる者の世界に誘われたりはしないので。
慧夢が幻夢斎に匹敵する才を持つと言われるのは、何度も神隠しに遭ったせいでもあるのだ。
無論、子供時代から夢世界で、自由に行動出来る程、夢芝居の能力が強かったせいでもあるのだが。
同じ夢芝居の能力者であっても、能力が低い段階では、夢世界で自由に動き回ったりは出来ない。
夢世界に入る事は出来ても、その行動を夢世界に縛られ、夢世界で夢の主の為に演じられる芝居の、アドリブを許されぬ登場人物になれるだけだったりするのだ。
夢世界で自由自在に動ける様になるのは、大抵は思春期以降。
幼い頃から夢世界で、自由自在に動けた能力者は、幻夢斎だけだと夢占一族には伝えられているので、それが出来てしまった慧夢は、幻夢斎と同等の才があると言われているのである。
ちなみに、その能力の高さ故に、何度も遭った神隠しに関する記憶は、慧夢には無い。
最後の神隠しに遭った時、神隠し中どころか、一時的に能力が異常に強まった時期の記憶を、慧夢が全て失ってしまったからである。
記憶を失った理由は、何も分かっていない。
「――以上、今日は二人欠席と」
五月と素似合が、慧夢の家出についての思い出話をしている間に、出欠を取り終えた伽耶は、名簿に挟んであったプリントに目を通しつつ、話を続ける。
「次は連絡事項! 球技大会についてだが……」
来週の金曜日に開催される予定の、球技大会についての連絡事項を、伽耶は生徒達に伝える。
黒板に競技の種類を箇条書きにしながら、帰りのホームルームで希望を取るので、それまでに参加したい競技を決めておけ……といった内容を。
慧夢のいないホームルーム……というよりは、川神学園高等部一年三組の一日は、まるで何事も無かったかの様に進んで行く。
ごく少数の人間は、慧夢の不在に寂しさを感じてはいたのだが。
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