100 ――だったら、さっさと籠宮の兄貴を殺して……いや、夢の鍵を壊さないと! 凍ってないのは厄介だが、邪魔する奴がいない今が、絶好の機会なのに変わりは無い!
(そうだ! 外にいたオバサン二人、確認してみよう!)
数奇屋門の前で見かけた、立ち話をしている状態で凍っていた、二人の中年女性の存在を、慧夢は思い出す。
志月が帰って来た事により、屋敷と周囲が凍った領域では無くなったのなら、その二人も動き出している筈だと、慧夢は考えたのだ。
慧夢は即座に、音を立てぬ様に気をつけながら、門の方に引き返す。
帰って来ているかも知れない志月と、鉢合わせしない様に、門の辺りの気配と様子を窺いながら。
そして門を出てから、二人の中年女性がいた方向に目をやる。
「――凍ったままだ」
二人の中年女性は、先程目にした時と同じポーズのまま、微動だにしていなかった。
志月の帰宅により、屋敷が凍った領域ではなくなったのなら、屋敷の近くにいる二人の中年女性は、動き始めている筈なのに。
「つまり、籠宮は帰って来ていなくて、この辺りは凍った領域のままなのに、籠宮の兄貴は動いているのか? 何故?」
これまでの経験では有り得ない、凍った領域で自分以外の人間が動いているという事態に、慧夢は困惑。
何故そんな事態が発生しているのか、慧夢は頭を巡らす。
「普通、凍った領域では動かない筈なのに、籠宮の兄貴は動いている……つまり普通のキャラクターじゃない、特別なキャラクターなんだ」
続いて、何が特別なのかについて思考する慧夢の頭に、夢の鍵の最有力候補が陽志である事が、浮かんで来る。
志月にとって、もっとも大事な人間である陽志こそ、夢の鍵である可能性が最も高いと、慧夢は考えていたのだ。
夢の鍵であるのは、十分過ぎる程に、特別なキャラクターである理由だと、慧夢には思えた。
「そうか! 夢の鍵になったキャラクターは、凍った領域でも凍らずに、動き続けるのかも!」
夢占秘伝には、そんな事は書いていなかったので、あくまで慧夢の考えでしかない。
だが、慧夢の頭の中で、陽志が夢の鍵だろうという確信は、更に強まった。
(――だったら、さっさと籠宮の兄貴を殺して……いや、夢の鍵を壊さないと! 凍ってないのは厄介だが、邪魔する奴がいない今が、絶好の機会なのに変わりは無い!)
慧夢は門の中に戻りつつ、心の中で呟く。
門の中に入ったとはいえ、ダイニングキッチンにいる陽志に、声が届く訳は無いとは思いながらも、慎重を期して。
(籠宮とか……同居してる家族が戻って来てからの方が、絶対やり難いからな!)
忍び足で庭に戻ると、ガラス戸に顔を近づけて、掌を翳して陽光を遮り、慧夢はダイニングキッチンの様子を窺う。
相変わらず文庫本を読み耽っている陽志の姿が、慧夢の視界に映る。
隙だらけの陽志の姿を確認出来た事には安堵しつつ、これから陽志に襲い掛かる事を考えると、慧夢の気は昂ぶってしまう。
慧夢は深く深呼吸をして、気を落ち着かせてから、右手で持ったままの斧の重量感を確かめる様に、数回振ってみる。
その上で、もう一度……慧夢は深く深呼吸をする。
襲撃の邪魔になるかもしれない、高鳴る胸の鼓動と、荒くなりそうな息遣いを抑える為に。
(よし、やるぞ!)
心を落ち着かせ終えた慧夢は、意を決した様に引き締まった表情で、そう心の中で言い放つと、ガラス戸が開け放たれている場所に、身を屈めたまま忍び足で移動する。
履きなれた靴の方が動き易いと判断し、靴を脱がずに板敷きのへり縁に上がる。
ほんの僅かに軋む音を、へり縁を歩いた際に立ててしまった為、慧夢は焦る。
だが、ダイニングキッチンにいる陽志まで届く様な音では無いと考え、そのまま慧夢は、板張りのへり縁から畳敷きの居間へと移動。
気配を消し、忍び足で畳の上を歩く。
僅かな衣擦れの音を立てるのは避けられないが、目線の先にいる陽志に、気付く様子は無い。
陽志は色落ちしたジーンズに、半袖の白いワイシャツという、清潔感のある出で立ち。
椅子に腰掛けて、相変わらず文庫本を読み耽っている。
居間の端まで辿り着いた、慧夢の鼓動は再び高鳴り、全身から嫌な汗が噴き出る。
陽志に近付いただけでなく、これから畳みよりも音を立て易い板張りの床を踏むからだ。
慧夢は音を立てない様に、板張りのダイニングキッチンに、慎重に右脚を踏み入れる。
ゆっくりと静かに床を踏んだのだが、みしり……と、ダイニングキッチンの床は軋む。
(――しまった!)
くれ縁の時とは違い間近にいるので、今度は陽志の耳に床の軋んだ音は届く。
別に人の気配に気付いたとかいう様子では無く、単に音に反応して、陽志は軋んだ辺りの床に目線を向ける。
慧夢の足を目にして、見知らぬ誰かが家に侵入しているのに気付いたのだろう。
陽志は驚きの表情を浮かべ、慧夢を見上げる。
結果、慧夢は陽志と目線を合わせてしまう。
見付かってしまった上、殺さなければならない相手と目があってしまったせいで、慧夢の精神は一気に昂ぶり、興奮状態となる。