10 黒き夢には、近付く事勿(なか)れ、決して入る事勿れ
「――少し寒いな、厚着しとけば良かった」
慧夢は夜風に、身震いする。今夜は予想外に風が強く、肌寒い上に少し飛び難い。
幽体の身体は、雨や雪は通り抜けるのが可能なのだが、風は通り抜け難く、影響を受け易い。
何でも「夢占秘伝」によれば、風には僅かではあるが、霊気が含まれている場合が多いらしく、それが原因だろうと幻夢斎は考えていたらしい。
幻夢斎の分析が正しいかどうか、慧夢には知る由も無いが、とにかく風の影響は受ける為、慧夢は台風シーズンや春一番など、風の強い時期が大嫌いである。
台風の夜などは、強風に飛ばされてしまう為、慧夢は間違っても空を飛んだりは出来ない。
地上で何かにつかまりながら、歩いて行ける顔見知りである近所の人の夢に、入らざるをえない場合が多いので、後で気まずい思いをしがちなのだ。
幽体離脱時の服装は、誰かの夢に入るまでは、眠りについた時の服装のままなので、部屋着であるTシャツに短パンというもの。
五月末の室内の夜なら丁度良いが、夜風が強い夜空では、涼し過ぎる格好と言える。
「眠る前は、風吹いて無かった気がするだけど、ミスったなぁ……」
今更後悔しても遅いのだが、慧夢は愚痴りつつ、地上を眺めて、入り込む夢を探す。
幽体となった慧夢の目には、玩具の様に小さく見える街並の中、あちらこちらに、ぼんやりとした光が見える。
それらの光が、街灯や家々の灯では無いのは、光が星雲の様に渦巻いている事から分かる。
こういった光の渦こそが、慧夢が入り込める夢……夢世界が発している光。
この光の渦の中心に、夢を見ている人間がいる。
夢を見ている人が建物の中にいても、慧夢には夢世界が放つ光の渦を、建物を透過して見る事が出来る。
神経生理学的には、人間は肉体は眠っているが、脳は活動を続けているレム睡眠の時にだけ、夢を見るという説が主流だ。
でも、夢占の考えでは、頭を含めて肉体が眠り……休んでいる間に、霊魂が見るのが夢……という事になっている。
子供の頃から、他人の夢の中に入り込み続けて来た慧夢からすれば、正しいのは夢占の考えの方。
霊的な世界について、何も解き明かしていない現代科学では、本当の夢である霊魂が見た夢は計測出来ず、霊魂が脳に持ち込んだ夢の記憶だけしか、計測出来ないのだろうというのが、慧夢自身の考えだ。
「さーて、良さそうな夢は、無いもんかねぇ?」
慧夢は光が弱く、明るい色合いの夢を探す。
夢の光の強さは、夢世界の主である、夢を見ている人が、夢世界に注ぎ込んだ情報量の多さを示している。
夢の主が注ぎ込む情報量が多ければ多い程、その夢には様々な要素がぶち込まれ、夢は複雑怪奇な様相の物となりがちである。
要は、光が強い夢は、夢世界のバランスが悪く、混乱している場合が多いので、慧夢は避けたいのだ。
色の方は、夢の主本人にとって、その夢が楽しいかどうかを示している。
明るい色合いの夢は大抵、夢の主本人にとっては楽しい夢であり、暗い色合いの夢は悪夢という感じで。
ただし、あくまで夢の主本人にとっての、楽しい夢や悪夢であって、入り込む慧夢にとってではない。
素似合にとっては楽し過ぎる、美少女ハーレムの中にいる夢が、入り込んだ慧夢にとっては、悪夢でしか無い様に。
ただ、夢の主にとっての悪夢は大抵、慧夢にとっても悪夢となる。
故に、悪夢だと分かり切っている、暗い色合いの夢を、慧夢は避けるのだ。
最も暗い色合いといえば、黒なのだろうが、慧夢は黒い夢だけは、まだ見た事が無い。
黒い夢は、夢占秘伝にも、稀有な色の夢だと記されている。
「黒き夢には、近付く事勿れ、決して入る事勿れ」
夢占秘伝には、そんな風に記してあるので、仮に黒い夢を見かけた所で、入るどころか近付きもしないだろうと、慧夢は考えているのだが。