022 少女との約束
矢部は都内の病院で入院していた。頭蓋骨骨折と鼻孔骨折による怪我で最初の頃は話す事もままらなかったが、段々と喋れるようになり、お見舞いに来てくれるチームメイトとも会話を交わしていた。
「ぶーんぶーん」
「!」
矢部の隣には少女がいた。彼女は幼い身でありながら難病を患い、手術を来週に控えているのだった。そんな彼女は野球選手の人形を持って、矢部の周りをグルグルと回っていた。遊んでほしいのだろう。そう思った矢部は少女の体を持ち上げて、自身の体の上に乗せた。
「おじさん」
10歳程度の少女には矢部がオジサンに見えるらしい。無理も無いだろう。
「僕はまだ27歳だよ」
矢部はそうだというのだった。
「でも、老けてるよ」
人相が悪いのだ。目の下のクマが酷く、顔面も醜く歪んでしまっている。
「ごめんな。お兄さんは性悪だから顔に出てしまうんだよ」
邪悪な性格が出てしまうのだというのだ。しかし、今の矢部は入院生活で別人のように生まれ変わっていた。プレッシャーのかかる前線から一時的に開放されたからなのか、それとも阪海ファンの仕置きが効いたのか定かではないが、花を愛するようになり、人間を愛するようになった。顔色もどこか前よりも良くなっていたのだ。自分の性格が悪いと認めるようになり、自分の性格を改善しようともしている。
「嘘、こんなに構ってくれるのに?」
「君が僕の人形を持って遊んでくれてるんだ。こんなに嬉しいことはないよ」
そうなのだ。少女は矢部の人形を持っていた。実はこの人形、AKIRAが見舞いにきたときに、この少女に渡した物だった。AKIRAは自分の人形では無く、矢部の人形を少女に渡したのだ。きっと、「仲よくしてあげてね」という思いやりからなのだろう。これまで散々酷い仕打ちをしてきた輩のお見舞いにくるだけで素晴らしいというのに、隣の少女のプレゼントも忘れないという紳士な対応は、とてもじゃないが普通の18歳の高卒には真似できないことだろう。
「おじさんの友達がくれたんだよ」
「友達か……昔はそうは思えなかったけど、ここにきてそう思えてきたよ」
そう思えてきたのだ。やはり人間は反省して心を入れ替える生き物である。それを真に受けず、ひたすら嫌いな人物を妬むのは筋違いも甚だしい侮蔑な行為だ。どんな人間でも救いようはある筈なのだ。この矢部のように。
「オジサンのホームラン、テレビで見たけど凄かったね。びゅーんと飛んで、ガガガーンって天井に当たってた」
「ハハハ。僕はホームランバッターだからね。ホームランを打ってなんぼなのさ」
そうだというのだ。ホームランを打つことがアーチストの役割なのだと。
「じゃあさ、復帰戦でホームラン打ってよ」
「え! ホームランかい?」
「うん。約束ね」
約束だというのだ。これにはさしもの矢部も困った表情を浮かべていたが、目の前の少女の笑顔に負けて約束してしまった。
「約束か……分かったよ」
「本当に約束だよ」
「ああ、本当に約束だ」
こうして復帰戦でホームランを打つ約束をした矢部だった。
「お母さんに聞いたけど、来年はめじゃーりーぐに挑戦するの?」
ここで、少女が質問をした。
「そのつもりだが」
矢部はメジャーリーグ挑戦のために英語とスペイン語を習得していたのだ。やはり言語が分からないとキャッチャーはサインの確認の際に困るので、こうやってあらかじめマルチリンガルになっておいたのだった。
「なんでみんな、めじゃーりーぐに行くの?」
少女は純粋に尋ねていた。
「あそこは最高峰のリーグだからだよ。この僕でさえ見た事もないボールを投げるピッチャーがあそこにはたくさんいるんだ。メジャーで活躍する投手達と対決してみたいのさ」
やはりメジャーリーグには誰しも憧れる。それは日本で圧倒的な成績を残した者だと特にだ。70歳を超えて現役の鬼崎が頑張っているのだから、若手は「俺も俺も」という気持ちが前に出ていた。
「でも、捕手で活躍した選手って一人しかいないよ」
少女は知っているようだ。その選手の事を。
「可能性はある。僕だってメジャーの舞台に立ちたいさ」
そうだというのだ。矢部にも夢と目標があるのだ。それこそがメジャーの第一線で活躍することだった。
「めじゃーに言ったらホームラン数は減るんでしょう?」
少女は矢部の体の上に乗ったまま、話しかけていた。
「良く知ってるね」
矢部は少女の頭を撫でてあげた。
「へへっ、お母さんが話しのタネにしなさいって教えてくれたのよ」
彼女のお母さんはかなりメジャーリーグに詳しいらしい。実の子供に日米野球の違いを教えているようだ。
「メジャーの球は日本の球より飛ばないからね。仕方ないよ」
それでも、年間40本以上のホームランを打つ選手はメジャーリーグには何人も存在している。それはチームの数が多く、選手の数も多いからだ。故に優秀な人材が集まるようになり、好成績を残す選手も増える。しかし、日本は選手人口がアメリカと比べると少ないため、中々優秀な人材が集まりにくくなっているのだ。
「なんで飛ばないの?」
「向こうにはパワーピッチャーが大勢いるんだよ。だから力勝負になって、こっちも押されてしまうんだ」
「へえ、そうなんだ」
そうなのだ。先発投手の平均球速も向こうの方が上である。日本はどちからかというと、球速の遅い軟投系のピッチャーが多い。
「僕も頑張らないとね。今年も良い成績を残さないと」
「頑張ってね矢部ちゃん」
「そういう君も手術頑張れよ。復帰戦にホームラン打ってあげるからね」
「うん。テレビにかじりついて応援しているよ」
「よーし。僕も早く退院できるように頑張らないといけないな」
たった数週間で野球のキレを失ってはいけないからだ。こうして矢部は少女とホームランを打つ約束を果たすために、リハビリに励み、根性と持ち前の精神力で、予定より大幅に早く退院したのだった。しかも退院した日は、丁度彼女の手術が行われる日だった。果たして、矢部は少女との約束を果たせるのだろうか。




