194 野手全冠王を獲得した舞台裏
AKIRAが野手全冠を達成したのは偶然では無い。そこには必然性の高い理由があった。それは昨シーズンの後半に習得したノーステップ打法が大半の理由を占めていた。ノーステップ打法とはあらかじめ脚を開いた状態でステップをせずにボールを打つ打法である。これによりキャッチャー寄りの軸足へ体重を乗せやすくなり、身体の振動をフルに使ってバッティングが可能になる。この打法を習得してから、AKIRAは凄まじい打撃の開花を見せた。AKIRAの持っている強靭なリストの強さがあれば、多少ノーステップでパワーが落ちてもスタンドに運ぶのは容易だ。もともとAKIRAが持っている筋力やパワーが十分に発揮されて力負けをしなかった。自己分析をしていると、これらの点が野手全冠王を獲得させたのかもしれない。その事についてAKIRAは目の前に座っているカントリー親父に訴えかけていた。
「野手全冠王に輝いたのは非常に嬉しいが、それよりも嬉しかったのはファンの笑顔をたくさん見れた事だ。お互いにメディアに露出しているから笑顔を向けられた時の幸福感を知っているだろう? あれは自分が試合で活躍出来なかった時でも憂鬱を吹き飛ばしてくれる魔法のようだ。笑顔の効果にはシーズン中、幾度も助けられた」
たとえ全冠王に輝いたしても当然ながらストレスや精神的不安を抱える機会は多い。野球を仕事だと思って割り切ろうと考えたところで、こればかりはどうしようもない。AKIRAほどの好成績を叩きだしても不意に野次を飛ばされて精神が不安定の状態になるのも何ら珍しくない。特に阪海ワイルドダックスのファンは熱狂的だ。他ファンとの衝突も激しくて日々暴動騒ぎを起こしてしまう。もしも観客席で喧嘩が始まっていたのを見つけたら、そこにめがけてホームランなりファールを飛ばしてやろうと思うのがAKIRAだった。実勢に喧嘩しているお客さんに向かってホームランをかっ飛ばし、ビール瓶を破壊したエピソードもある。それぐらいAKIRAは喧嘩を好まないタイプだ。かっとなって叫び声や拳を突き出すのは容易かもしれない。だが、そこに何の意味があると聞かれたら言葉が出ないだろう。意味も無く自分を戒める行為など言語道断だ。その心情を持っているからこそ球場の中で平然としていられた。普通ならば「憧れの阪海球場で試合をしているんだ!」と若手の選手は大喜びするだろう。ところがAKIRAはまったく違う。既に阪海球場を自分の仕事場だと認識しているので必要以上にハシャグ真似はしない。淡々といつもの練習をこなして試合に備えるのみ。その中で冷静を保とうとしても、やはりファンの笑顔には敵わない。人間の脳にはミラーニュートロンと呼ばれる神経細胞が存在していて、それは相手の気持ちをシンクロする能力を持っている。すなわち相手が満面の笑みを浮かべて嬉しそうにしていると、こちらもハッピーな気持ちになるのだ。さすがのAKIRAにもこれには敵わないので笑顔を振りまかれると笑顔で返すようにしている。そしてどうやらそれは、カントリー親父も同じのようで相槌を打ちながらAKIRAの言葉に賛同している様子だった。
「あー確かにそれは分かります。僕も最初はステージに立つ時に脚が震えるぐらい緊張しましたけど、お客さんの笑顔を見ていると段々落ち着いてくるんですよね。その時に初めて俺は仕事してるんだという気持ちが芽生えてきます。やっぱり人に見られて仕事をするのって快感に違いありません。人々に笑いを提供できる仕事をしていて良かったなと思っていますよ」
実際にAKIRAもバラエティ番組に出演機会があるのでよく分かる。それはAKIRAをこよなく愛する芸人達が、彼の身の回りの事や秘密の情報を話し合うコンセプトの番組だった。その番組を放送する趣旨をプロデューサーから聞いた際、番組終了間近にサプライズ登場してくれないかとお願いがあった。その番組はAKIRAが中学生の時から見ていた番組だったので二つ返事でオーケーを出した。そして実際、番組終盤にドッキリとして登場すると割れんばかりの歓声が轟き、観客の女の子が黄色い声援を送っていた。それは鼓膜が割れそうなぐらいの勢いで芸人達も唖然としていた。なんせ自分達が登場した時よりも何倍もの大きな歓声が沸き起こったのだから。これにはAKIRAも吃驚していたが表情は徐々に笑顔に変わっていた。こうした経験があるからこそ、AKIRAもカントリー親父の言い分をより鮮明に把握していた。
「今シーズンは他の人が思う以上に苦悩が頭の中を駆け巡っていたよ。狙っていないのにホームランを打ってしまうイップスも発生したし、お客さんの好反応が無かったらやっていけなかったと自分でも思う。本当に死にたいと何度も思って、その度にお客さんの笑顔が脳裏に焼き付いて寸前でとどまった」
野球選手が体感するストレスは周りが思っている倍以上だ。傍からしてみれば念願の野球選手として給料も貰って羨ましいかもしれないが、そういう感情はあっという間に消え去る。直ぐに野球は仕事だと認識するようになって、昔のピュアな思いは消滅してしまう。仕事において慣れとは自分流を生む出す切っ掛けにしかならない。そういう意味では、野球選手として仕事に慣れてしまうと野球を楽しむのはほぼ不可能に近い。たまの日曜日にオジサンが集まってする草野球とは雲泥の差だ。あれぐらいの楽しさがあれば試合の時でも楽なのになと、叶わぬ夢に浸るAKIRAだった。




