181 躍進
努力が才能を超えるのは分かりきっていた。毎日当たり前にしている練習を繰り返しているだけでも天才に近づける。しかし天才に近づけても天才にはなりたくないとAKIRAは思っていた。もしも万能の人間になってしまうとそこで進化が止まってしまうからだ。それに加えて、進化するよりもむしろ進化する過程が大事だったりする。過程を大事にしている人間は少し道を外れても軌道修正可能の力を持っている。だが一度結果を出しただけで今までやってきた努力を放棄してしまっては取り返しのつかない事態に発展してしまうのだと、AKIRAは湯船に浸かりながら感じていた。なんせ今日のAKIRAは朝目覚めた時から調子が悪かったので中々布団から起き上がれなかった。その結果、後少しでアラームが鳴るギリギリまで寝てしまっていた。一応は時間通りに起きれたのだが、やはり朝起きる時は活発的な方が良いに決まっている。アラームの時間と共にモゾモゾと起き上がって『今日も仕事か……嫌だな』と嫌悪感を抱く人間よりも、布団から飛びあがって『さあ。仕事に行こうぜ!』と表情を漲らせながら起きる人間の方が魅力的だ。なのでAKIRAはせめて朝起きる時ぐらいはポジティブでいたいと、西郷式起床方法を実践していた。それが今日途切れてしまったのは非常に残念だった。AKIRAは湯船から頭だけ出して「うんうん……」と唸りながら、途切れてしまった理由を考えていた。物事には必ず理由があると知っているのもそうだが、それ以上に原因解明を第一に考えないとまた同じミスをしてしまう。同じミスを繰り返すのはプロフェッショナルとは言えないので、とにかく模索をする必要があった。風呂に浸かっている瞬間はリフレッシュに最適かつ良いアイディアを生み出しやすい。具体的に言うと熱い湯船に入った瞬間にアイディアが浮かぶのだが、それはこの際仕方がない。重要なのは精神統一して意識を集中する事なのだから。
まさにそれは瞑想に近かった。湯船に浸かりながら今日起きた出来事を反省していく。瞑想は無心の状態を維持しないといけないので残念あがら当てはまらないようだ。しかしそれでも今日の反省をするのはストレス解消にもなる。そしてポジティブに物事を考えるためには今日起きた出来事から逃げないようにする。自分の身に起きた不幸事も全て受け入れるような心を維持していかないと、とてもじゃないが野球界では通用しない。些細なメンタルの乱れが試合に現れ、成績に関わってくる。だから即戦力と呼ばれた人物がまるで1軍で活躍しないのはメンタル不足だと言っても過言では無かった。そもそもプロ野球チームのスカウトが即戦力だと判断したのだから、1軍で活躍する技術は十分に持っている筈だ。それなのに活躍出来ないのは確実に精神力不足である。特に投手の要であるコントロールとはメンタルが確実に影響してくる。もしも一瞬でも「今日は調子が悪い」と思えばポンポンと四球を与えて自滅してしまう。そんなギリギリの状態でマウンドに立っているのがプロの投手だ。高校野球や大学まではそこそこの変化球と速球を投げられれば三振を奪える。ところがプロ野球界では簡単に四球を選ばされてしまうので心の在り方は何よりも大事になってくる。
だから今日、鬼崎に打たれてしまったのはメンタルの問題ではないかと確信している自分が存在していた。ハッキリ言ってAKIRAは生まれた時から後ろ向きな人間である。早寝早起きを取り入れてからはだいぶマシになっているが、それでもネガティブに考えてしまう自分は確実にいる。経験上、家ではネガティブに考えても外でポジティブに考えればプラスマイナスゼロにはなる。ところが、AKIRAぐらいの人間になると些細な出来事にも後ろ向きに考えてしまう恐れが十分にある。とにかく彼は繊細でマンボウのような心を持っているのだ。それを早寝早起きやメンタルトレーニングで補っているだけで、基本的はネガティブの塊である。そんな後ろ向きな自分を出さないように、AKIRAという完全な人物像を作り上げた。外に出ている時はAKIRAに演技しているだけなので、ちょっとした事でペルソナが外れる可能性は少なくない。要するに素に戻る瞬間が度々訪れてしまうのだ。フィールド上でニコニコしながら試合に出場するのは御法度だと思っているので、冷静な表情を保つのは忘れない。いつもは冷静沈着でも予想外の出来事が起きてしまえば一瞬だけ渡辺明に戻ってしまう。例えば、球場に猫が迷い込んだ時には微笑みが止まらなかった。『テクテクと走っていて可愛いな』と素で思ってしまい、気が付けば満面の笑みを浮かべている自分が電光掲示板に大きく映っていただなんてザラである。無論、その度にヤフーニュースのトップに載るのだが。
「喉が苦しい。圧迫されているようだ」
冬が近づいているためなのか、最近はストレスを感じる瞬間が増えていた。夏場は日差しが強いのでセロトニンが増えるからいいのだが、冬が近づくと太陽が中々目を覚ましてくれないので大変だ。なので朝起きた時には真っ先に蛍光灯をつけて太陽の日差しを浴びているつもりになる。しかしこれはいかんせん効果が薄く、結局神経症を患ってしまっていたようだ。過度な緊張感、眠りが浅い、動機、息苦しさ。これらは不安神経症の症状なのでまず間違いない。
もしも常人ならば『カウンセリングに行かなきゃ』と真っ先に精神病院に予約をしがちだが、AKIRAは違っていた。この状況さえも自分を飛躍させるためのチャンスだと思っているのだ。不安こそが行動力を生み出す原動力になるのを知っているので、AKIRAにとっては鬱病さえもチャンスに変わる。これを克服するために自分の弱点を見つける事が出来るのはかなりの幸福だ。なぜならば、人間は弱点を長所に変えた瞬間がたまらなく嬉しいのである。これまでに何度も自分の弱点を長所に変えてきたので、これからの努力が楽しみでもあった。少なくとも努力をしている時は誰からも否定されないし、むしろ褒められる事ばかりが多いので前向きになれる。ようはポジティブになりたかったら厳しい環境に身を置けばいいだけの話しである。
「さて、やるか」
自分が神経症だと分かって嬉しくなったAKIRAは、これまで以上にテンションを高く維持してバットを持って素振りをしていた。あまりの熱中ぷりに着替えるのを忘れて、しばらく肌寒い外でTシャツ1枚だったのは言うまでもない。




