180 純粋持続と現実時間の差
昔から病弱だったAKIRAは学校を定期的に早退していた。その原因は今ならハッキリと言えるが冬季鬱病である。冬になると日光を浴びなくなり、セロトニンの量が明らかに不足してしまう。そうなってくると自律神経に乱れが起きて、自分に一切の自信を持てなくなってしまうのだ。どんなに優れた成績を収めたとしても、全国的知名度が上がったとしても、それはまったく関係ない。嫌、むしろだ誰かに期待される度に自信を失っていく感覚だ。とは言っても確実に進学するためには早退の日数を減らさなければならない。それに冬の季節だけ早退の数が圧倒的に多くなるのは進学先の学校に違和感を覚えさせるので、それだけは阻止する必要があった。なのでAKIRAは保健室の暖かいベットと決別するために、敢えて学校にも冷えぴたを張るようにした。そう、カイロを張るのではなく冷えぴたを張っていたのだ。常人ならば「ついに気が狂ったか!」と思われてもおかしくはないが、これにはある理由があった。それは『気持ちさえ前向きならば寒さなど感じない』という考え方が根本的にあるからだ。なのでAKIRAはそれを実践するために敢えて自分の体に寒さを与え続けていた。無論、学生服も半袖にするのを忘れない。
効果があったのかは分からないが、とにかくAKIRAは早退しなくなった。元々人間には寒さにも対応出来るようになっているので、半袖と冷えぴたのコンボで絶命するような真似はしなかった。だが滅茶苦茶寒くて風邪を引く機会が増えたのは言うまでもない。今でもそうなのが風邪を引く回数が他人と比べてあまりにも多すぎる。特に冬が近づいてくると毎年のようにインフルエンザを発症してしまい、40度近くの熱を体験してしまう。インフルエンザに発生した者にはあるあるだと思うが、まず自分の意志だけでは布団から出られなくなる。飯を食べたいとかトイレに行きたいなどの本能的な欲求を除くと、普通は布団の中にとじこもりっぱなしだ。しかしAKIRAには毎日15分は鏡に向かって素振りをすると決めていたので、その約束を破る訳にはいかなかった。たとえインフルエンザで体がダウンしていてもやらなければいけない。なのでAKIRAは風邪の日だろうが腹痛だろうが無理をしてでも素振りをしてきた。毎日決まった時間帯にだ。
***************
そして家に帰ってきたAKIRAは例の素振りをしようとしていた。とは言ってもまだ素振りをする時間では無い。あくまでも風呂にお湯を溜めるまでの時間に素振りをするだけなのでホーム戦の時はほとんどスーパー銭湯に行く前に素振りをしている。風呂を溜めるまでの時間に素振りをするのは敵地で試合をする時だった。ところが、今日だけは寮の風呂に入りたいと思ってお風呂にお湯を溜めていた。とてもじゃないが銭湯に行って湯船に浸かる余裕は見当たらない。刻一刻と冬が近づいてきているので精神状態に乱れが生じているのも原因だったが、それ以上に鬼崎の一発が予想以上に響いていた。確実に170キロの弾丸ストレートを放った筈なのにまるで通用しなかったのだ。如何に鬼崎が伝説的なメジャーリーガーだとしても今は中距離打者に過ぎない。日本時代は50発以上のホームランを打っていたパワーヒッターだそうだが、メジャーでは30本のホームランが限界とされている。そんな衰えた鬼崎に完璧なホームランを打たれてしまっては、ショックを隠し切れない。しかも相手は70歳の高齢打者だ。本来ならば自分のような若者達が引導を渡さなければならない立場なのに、反対に自分が引導を渡されたような感覚がしていた。
普段は時間の無駄なので風呂にお湯が溜まっていく過程など見た事も無かったが、今回ばかりはそこから一歩も動けなかった。家に帰っても仕事を持ち込まないタイプであるにも関わらず、すっかり意気消沈してしまっていた。投手としてプロの世界で活躍するつもりなど最初から皆無だったが、やはり170キロの速球を投げられるのは首脳陣も黙ってはいない。来季からは二刀流に挑戦するのを勧められていた。その矢先に打たれてしまったのだから絶望を感じて当然である。これは人間特有の行動だ。そう思い込むようにしようとしていた。
今年の打撃成績は打率.361 46本塁打 177打点。盗塁も107個も決めているので文句など見当たらない成績だった。ところがここにきて投手としての欠陥要素も浮き彫りになったのだから予想以上の重荷が両肩に直撃していた。いくら打撃成績が良かったとしてもチームが勝利してお客さんが喜んでくれないと意味が無いので、自分の成績など最初から気にしていない。しかしそれでも精神状態を狂わせる可能性があるのは重々承知していたので、成績はなるべく見ないように努力はしていた。だが成績以上に精神状態を不安定にさせるのが他人の言葉だった。しかも鬼崎のように長期間好成績を持続させている者に『お前の二刀流は失敗する』と言われてしまってはとにかく辛い。
だからと言って、挑戦を止めるのは自分の意志に反している。せっかく首脳陣からチャンスを与えられたのだから自分の意志を尊重して二刀流を続けたいとおは思っていた。そんな事を長く考えていると、いつの間にかお湯が溢れ始めていたので、慌てた様子で蛇口を捻っていた。どうやら考えが深すぎてお湯が溜まった事にすら気づかなかったらしい。




