166 感情は相手に移る
今更、投手の練習をする必要性は無かった。AKIRAは如何なる時であっても、複数のポジションを守れるように準備をしているため、投手として投げるのを想定した練習を既に行っていた。後はマッサージなりキャッチボールをするなりをして最高のボールを投げるために時間を費やそうとしていた。ところが、この日はファンとの交流を深めるためのサイン会を実施していた。どうやら最終戦sにAKIRAが登板するのがインターネットで伝わっていたようで、AKIRAの170キロのフォーシームを一度でも見ようと全国の野球ファンが殺到しているらしい。そのため、球団側は異例としてサイン会の時間を用意したのだ。無論、サイン会と言っても大した物ではない。普通にファンの人達に近づいてボールなりユニホームなりにサインをしていくだけなのだが、球団側はこれまでAKIRAがサインをするのは最小限の範囲内に縮めていた。これは恐らく、混雑が予想されるからだと思うが、最終戦ぐらいは良いだろうとオーナーも許可を出したのだろう。
そのため、AKIRAはファンから渡されるボールにサインを書く時間が圧倒的ひ増えていた。誰よりも時間に厳しいAKIRAが時間を割かれるのは不満を生み出す要因となりそうと思われがちだが、実はそこまで日々のスケジュールに拘っていはいない。そもそも社会人になれば突然の飲み会やその他諸々で自分の時間を割かれるは日常茶飯事だ。なので、いちいち不満を抱いては精神状態が持たないのでAKIRAはそうした機会が訪れても、機嫌が悪くなるのは一切無かった。しかも今回はかけがえのないファンの人達と直接交流出来るのだから、むしろAKIRAにとってはありがたかった。こうしてファンの人達から間近で興奮の声に耳を傾けるのは以外にも少ない。球場でプレーや練習をしている時は目の前に一球一球に集中しているので、ファンの声などまったく耳に入ってこない。誰もが過剰に集中して人の話しを全く聞いていない現象を体験した事はあると思うが、まさにその体験を毎日のように重ねている結果、このようにファンと直接交流するのが嬉しく感じていた。
「AKIRAさん。サインください!」
子供からボールを渡されると最優先でサインをするのが選手としての本能的な行動だった。なのでAKIRAは今のように子供に声をかけられたり、緊張して声を出せない子供を発見すると、一目散にその子の元に近づいて、熱意のこもった字でサインをしていく。それだけ未来ある存在を大事にしていくのは野球選手としては当然の行いだった。普段、球場の中ではクールなキャラを演出しているAKIRAだったが、ファンの人達を間近で見るとどうしても興奮を抑えきれなくなる。これは恐らくミラー・ニュートロンと呼ばれる神経細胞が、彼等の思考を忠実に写し取ってしまいAKIRAの脳内をほどよく刺激してしまうのだろう。だからと言って、それだけでAKIRAが愛想よく振る舞っている訳ではない。ファンの人達を少しでも喜ばせるためには笑顔を見せて力強い姿を見せるのが一番だと分かっているからだ。それに笑っている時は自分だけではなく相手も幸せにする効果があると昔から心理学でも言われている。そのため、こういう状態の場合はAKIRAのペルソナを脱ぎ捨てて、普段の渡辺明に戻ったりするのだ。
「絶対にヒットを打てるとは言えないけど、今日は精一杯プレーをするから愉しみにしててくれ。最終戦だからと言って、俺達は絶対に手を抜かないからな」
子供に向かって公言した理由は自分でも分からない。もしかするとヒットを必ず打てるように自分自身を言い聞かせているかのかもしれない。そして、今でこそチームのムードは最高潮を保っているが、去年の最終戦は雰囲気が最悪で、普段からあまり怒らないAKIRAでさえも表情を剥き出しにしてしまった程だった。なので去年のような失態だけはファンの人達に見せないように気を抜くのは御法度だった。たとえ最下位が確定していたとしても、高い入場料を払ってファンの人達は見に来てくれる。その行為を無駄にしないように、自分達はこれぞプロだと見せつけるようなプレーをする必要がある訳だ。
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一通りサインを書き終わると、AKIRAは休憩がてらベンチに座って飲料水を飲んでいた。するとそこに監督がやってきて隣の席に座ってきた。いつも以上にニコニコしており、チームの雰囲気がそれなりに良いと表情を見るだけで分かる。
「AKIRAよ。今日の最終戦には偉大なる野球選手が見に来られるそうだ。貴重な時間を割いてまで、我々のプレーに着目してくれるらしい」
監督はそうだと言うのだ。この最終戦に偉大なるプレイヤーが来るのだと。しかし、偉大なるプレイヤーと言われただけでは想像もつかないので、AKIRAは疑問に感じながら監督にこう囁いていた。
「分からない……一体誰だ?」
「ミスター鬼崎だ」
監督の言葉に、AKIRAは一瞬だけ意識を飛ばされていた。なんと、あの伝説的なメジャーリーガーが来日して、わざわざ試合を観戦してくれると言うのだから言葉を失うのも無理はない。そもそも鬼崎喜三郎は世界中の誰もが知っている高齢メジャーリーガーであり、今年は3割30本100打点を記録してまだまだ衰えを知らない御方だ。守備の面でも今年は好調のようで、遊撃手でのゴールデングラブ賞は確実視とされている。そんな生きた伝説が来日するのだから、ファンがその情報を知っていれば、大混乱が起きる可能性だってある。それ程までの選手が貴重な休日を返上してまで観戦してくれるのは、AKIRAにとっても有り難い事であり、それと同時にとてつもない緊張感を生み出す要因になっていた。
「最終戦に4番投手として登板……しかも鬼崎喜三郎が見てくれるのか。この重圧は中々体験出来ないな」
ここで重圧に押し潰れずに、むしろ飛躍のためのチャンスだと思うのがAKIRAの特徴だった。故に緊張感も未だかつてなく襲ってくる。しかし現実から目を背けるのは愚かだと分かっているので、こうなったら『とことん、やってやろう』と前向きな気持ちになっていたのは、唯一の救いでもあった。




