162 自分の信念を貫く
プロ野球選手みたいに、プレッシャーと過度な緊張がかかる舞台に立っている人はどうしても体の疲れが完全には取れない。なのでそういう人達は今のAKIRAのように1日の疲れを入浴で洗い流そうとするのだ。特に銭湯は様々なリラックス効果を期待出来るので、毎日来る人の大勢いる。その内の1人がAKIRAだ。彼が住んでいる寮には2メートル越えの男が軽々と入れる大きな風呂が完備されていないので、こういった入浴施設を利用せざる終えない。毎日利用しているとお金がかかってしまうのだが、自分を休ませるためには仕方ない出費だ。それにAKIRAは言わないだけでかなりの額を貯金しているのでなるべく出費を抑えるのに必死である。というのも、いくら金を持っていようと破産する人は破産してしまうので、とにかくお金を溜めておかないと安心出来ない。彼が唯一出費に力を入れているのはお気に入りのバイクをカスタムする費用だけであるので、なるべく他の物に金を出したくなかった。例えば、彼の部屋に置かれている便利グッズのほとんどは百均である。フライパン、ポケットティッシュ、綿棒、コップなどの百均で買える物は全てそうしている。ここで世間の人は「年俸が1億もあるのだから少々の出費は構わないのじゃないか?」と問いかけてきそうだが、その考え方は大きな間違いである。プロ野球選手はいつ無職になってもおかしくないギリギリの場面で闘っているのだから、稼げる時に稼いでおかないと歳をとってから警備員として働く羽目になるかもしれない。そんな危険性と直面しながら、どんどんと金を使っていくだなんてAKIRAには有りえなかった。とにかく、現役が終わるまでは少しでも安い物を買っていく方針を変えるつもりなど更々無い訳である。
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「くううう……いい湯だな」
AKIRAは湯船に顔だけ出して鼻歌を唄っていた。無論、この鼻歌はAKIRAが好んでいるアイドルグループの曲である。彼女達は自分も苦しんでいるが故に、前向きな曲を作ろうと必死に作詞作曲をしている。だからこそ、彼女達の曲にはいつも勇気を貰っているAKIRAだった。そして彼が本格的にアイドルグループを好きになったのは高校生1年生の時だ。あるの日の部活帰り、トンネルとバンザイを連発して監督に怒られてしょぼくれていたAKIRAは珍しく寄り道をしていた。そして、フラフラと寄った先に運命の出会いが訪れた。今でこそ誰もが名前を知っている国民的アイドルグループに昇華したが、その時はまだ地下アイドルとしてごく一部のファンに知られていた人達に出会った。しかも彼女達の歌声が後ろ向きだった自分に勇気を芽生えさせたのだ。これにはケチンボなAKIRAも感激して、彼女達のCDをその場で購入し、今でもそのCDは大切に保管している。それぐらい、AKIRAは過去の出来事を大切にして生きているのだ。昔を振り返ると、自分は確実に成長しているのだなと思えてくるので、前に進む勇気が湧いてくる。それに、昔では分からなかった歌詞の意味も、大人になっていく内にその意味が分かってくる。だから子供の時に聞いていた曲を大人の心でもう一度聞き直す行為は決して時間の無駄ではない。むしろ、自分が成長したと思えるのでドンドン積極的に聞くべきなのだ。昔自分が好きだった曲を……、とそんな事を考えながら湯船に浸かっていると、隣に1人の男が風呂の中に入ってきた。AKIRAは別に潔癖症では無いので、他人と一緒の風呂に入るのは抵抗感も無く、むしろ友情を育めるチャンスだと思って積極的に声を掛けるのだ。しかし今日はAKIRAからではなく、隣の男が話しかけてきたではないか。
「こんな場所で出会うとは奇遇じゃないか。AKIRAよ」
なんと、男の正体は監督だった。何故監督だと分かったのか、それは銭湯でもマスクを被っているからだ。理由は不明だが監督はマスクを被って指揮をしている身なので誰にも正体は分からない。だからこそ謎と面白みがあって良いのかもしれないが、やはり銭湯の時ぐらいはマスクを脱いで欲しいと思うAKIRAもそこに存在していた。なのでAKIRAは自分が思った事を率直に伝えるのだった。
「監督……銭湯の時はマスクぐらい外したらどうだ?」
まさにAKIRAの言う通りである。周りを見回しても銭湯でマスクを被っているのは監督ぐらいなので相当な変人だと周りから思われている筈だ。特に野球に興味を示さない人達には監督であると分かってもらえない可能性は非常に高い。と言っても、マスクで指揮をしている監督をマスコミが見逃す筈が無いので、既に監督の知名度はそこらの選手よりも上だと言っても過言では無いが。
「このマスクを脱ぐ時はチームを日本一に導いた時と決めた。だからその日まで、マスクを脱いで人前に出るのは断じてありえない」
こういうポリシーがあるのなら話しは別だと、AKIRAは妙に納得していた。一度決めた事は何が何でも通すのが筋だと分かっているので、監督の言い分は確かに正しいのだ。誰に何を言われようとも、自分の信念を曲げずに貫いていくのが本当のプロフェッショナルとして活躍ができるのだから。




