158 白紙の心が黒く染まる
AKIRAは決して生まれた時から才能に恵まれていた訳ではない。小学、中学時代は挫折だらけの生涯を過ごしていた。親から貰った才能など何一つないのかと陸上部の先輩から厳しい言葉を突きつけられる程の運動音痴だった。マラソンでは後ろから数えた方が早いとまで言われ、短距離走に至っては年下相手に2秒差もつけられて負けるなどの屈辱も感じていた。しかし、それでも人一倍努力と練習を積み重ねる作業を延々と繰り返し、今では100メートル走の日本記録保持者として野球でも足の速さを遺憾なく発揮しているのだった。左打者なのもあってか、一塁への到達時間は驚異の2.97秒を記録している。これはバントヒットでの記録だが、普通の内野安打としても3秒台を何度も叩きだしていた。それに加えてAKIRAには逆方向のホームランを名古屋ドームの最上段にまで叩き込む技術も持っているのだから、相手は極端なシフトを敷けない。状況によって引っ張り打ちと流し打ちを使い分け、特大のホームランを放った次の打席では相手の意表突くセーフティバントを試みる。これらの技術は全て、驚異的な練習方法によって生み出されたのは言うまでもない。無論、練習をするためにはかなりの精神力を消費してしまう。例えば朝起きた時には「練習なんて嫌だ。もっと寝たい」と悪魔のささやきが内なる心を刺激する。そこで布団の温もりに勝てない者は二府度寝をしてしまうのだが、AKIRAは違う。自分は誰よりも凡人で才能が無いと分かっているからこそ、たった一度のサボりも許されない。それだけの危機感を持っていれば自分自身を徹底的に追い込んで、逃げ道を無くすのは造作も無い。
これは誰もが分かると思うが、夜の22時に寝て朝の3時に起きる日常はかなり疲労感が溜まってしまう。中学生時代から続けている日課だとしても5時間睡眠では本当に体の疲れなど取れないので、いつも寝起きが悪くてネガティブになってしまう。しかしそれでも球場に顔を出せば後ろ向きな自分など到底ファンの人達に見せられないので物事をポジティブに考える必要性が出てくるのだ。このように家ではネガティブに、外ではポジティブに考える事によって、AKIRAのメンタルは鍛えられていると言っても過言では無い。変化を心と体に刻んで生きてきた彼にとっては、家の中と外によって感じ方や物の受け止め方が違う方が新しい発見を出来るので脳が隅々まで晴れやかな気持ちになれるのだ。だから、ネガティブだからと言って悔やんでいる自分などいない。むしろ後ろ向きにも前向きにも両方物事を考えられる自分は弱いからこそ、成長できると考えていた。もしも自分が完全無欠のスーパーヒーローならば、それ以上は成長する喜びを感じられない。だからこそ弱い自分を真っ向から受け止める事によって改善点を模索しながら、日々の鍛練を続けられる。ようするに凡人だからこそ更なる高みを目指して前進を続けられるのだ。これは後ろでしがみついている加々美にも共通する点である。彼は元々160キロを超える速球派としてプロに入った超新星だったが、1年目のシーズンに怪我をしてしまいかつての球速は出せなくなった。しかしそれでも僅かな可能性を信じてコントロールを磨きに磨いて、今のポジションを掴み取ったのだから相当な努力をしている筈だ。にもかかわらず、自分のレゾンデートルは満たされていないと豪語するのだから何等かの苦悩を抱えているに他ならない。だからこそ、AKIRAは彼に問うたのだった。しばらくは無言が続いて間が空いてしまったのだが、赤信号が青信号に切り替わる瞬間に、加々美は口を開いて声を出していた。
「人は生まれた時から白紙の心を持っている。だが、経験を積み重ねる内に白紙の心が黒く染まっていき、最終的には汚い大人へと変わってしまう。俺は今、その状態になっているから希望の光など全く感じない。特に最近は、いくら打者を打ち取ろうとも満たされぬ思いが沸々と沸き起こってしまう」
加々美はそうだと言うのだ。どんなに活躍しても心は満たされず、むしろ虚無感ばかりが目立ってしまうのだと。しかしそうだとしたら更に上を目指してメジャーリーグにでも挑戦すればいい話しだ。ところが、加々美は日本球界に拘っているのだからまるで理解が出来ない。それに契約更改では年俸の釣り上げを要求してしまい、結局話がまとまらずに自由契約となって争奪戦になるのが毎年のテンプレとなっている。そのおかげかどうかは知らないが、28歳の若さで全球団を渡り歩いた男は加々美ぐらいだろう。彼の技術があれば法外なメジャー契約を勝ち取れるのも造作では無い筈にも関わらず、何故そこまで日本球界に拘るのかがAKIRAには理解出来ない。なのでAKIRAは心の中で感じた言葉を率直に表現してみた。
「だったらメジャーに挑戦すべきだ。加々美先輩の実力ならアメリカでも十分に闘えると思うぞ」
しかし、AKIRAの問いかけに加々美は素直に応じなかった。仕方ないので加々美が口を開くまで先程の言葉を吟味していると、加々美は自分と同じように精神的に弱い所が多々見受けられる。白紙の心が黒く染まっていると言ったのも、自分の精神状態が芳しくないのが理由だと容易に結び付けられるからだ。そしてそうこうしている内に、目的の中華料理屋に到着していた。どうやら疑問の続きは、この店にて延長されるようである。




