116 意識を統一するということ
AKIRAは常に自分自身と闘ってきた。それは敵が自分の中に存在しているという事を知っているからだ。脳内では慢心、思い込み、期待などの感情がまるで洗濯機のように激しく揺れ動いている。普段の生活では良いかもしれないが。仕事の時には意識を統一しないと余計な事を考えて目の前の事に集中出来なくなる。ようするにオンとオフの使い分けが必要だと言うのだ。少なくとも、スランプは自分自身の精神と密接に関係していると彼は思っているため、オンオフの使い分けの必要がある。仕事状態の時は意識を集中させて外部からの情報をシャットダウンする。普段のAKIRAは相手の何気ない一言にも敏感で、繊細な心の持ち主だ。なので、仕事の時は精神状態を強くしないといけない。特に、阪海には汚い野次と呼ばれる声が飛び交っており、いつなんどき自分に向かって精神を抉るような野次が飛んでくるか分からない。今でこそ結果を残しているから野次は無いにしても、不調の時は野次の一つや二つ浴びせられるだろう。そこで屈していては何も始まらず、むしろスランプに陥る可能性だってある。
だからこそ、目の前の試合に集中して外部からの情報をシャットダウンさせる気持ちでAKIRAは毎試合臨んでいる。これだけ意識が高いとスランプとは無縁ではないかと世間では思われている。が、それは大きな間違いだ。いかに完全無欠に思えたとしても、AKIRAは人間だ。球場に行きたくないと思う気持ちだってあるし、精神状態を保つためのルーティンだってやりたくない、めんどくさいと嫌がる時だってある。誰だって仕事や学校に行きたくないという気持ちを一度や二度感じた事はあるだろう。それと同じ感情がAKIRAに抱いているという事は、彼も純粋な人間であるという証拠になる。そして彼は普通の人間よりも打たれ弱く、メンタルは左程強くない。ただ、強くなろうという努力をしているのだ。その努力が結果的に4割という高打率を維持しているのかもしれない。
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約束の一週間が経過した。AKIRAが山室に頼み込んだのはたった一つだけ。渡した本を読んで感想を言ってくれという一点のみだ。読書家には分かるかと思うが、自分が読んで面白いと感じた本が必ずしも他者にとっても面白いとは限らない。それどころか読んでもくれないというパターンだって存在する。要するに、感覚は人それぞれによって違う訳だ。だからこそ面白いのだが。
そしてAKIRAは待っていた。あれから山室とは敢えてその本の話題を出さずに世間話などを淡々と語る程度の交流しかしていない。お楽しみは後でとっておこうという魂胆だ。
「お待たせ」
試合終了後、いつものスナックに居座っていると、隣の席に山室が座ってきた。この場所を待ち合わせ場所にした理由は特に無い。ただ、騒がしい人もいないし居心地が良いという理由だけで指定しただけだ。浪速の町で、阪海の4番が来店しても無事な店は数少ない。大体はサイン攻めにあって店側に迷惑がかかるというパターンが多い。だが、この店はそうじゃない。店の主人はAKIRAを普通の社会人として扱ってくれるし、何よりそれが嬉しかった。他の店に行くと誰もが「阪海の4番が来店している!」と余計な気を遣ってくれて、満足に御飯が食べられない。やはりスーパースターのAKIRAと言えど悩みはあるのだ。
「やっときたか。我慢できなかったから先に食べてたぞ」
「ああいいよいいよ。そういうの気にしないから」
山室はそう言うと、スナックのオカママにビールを注文していた。やはり体を動かした後のビールは最高なのか、山室はゴクゴクと音を鳴らして、喉に黄色の液体を叩き込んでいた。その飲みっぷりはまさに仕事を終えたサラリーマンのようだ。
「ビールという飲み物はそんなに美味しいのか」
AKIRAは来年の1月に20歳を迎えるためまだ飲酒が出来ない。見た目は立派な大人で、渋い俳優顔をしているが彼はまだ19歳だ。なのでビール解禁は来年まで待つ必要がある。
「喉に来るんだよ。これがな」
そうだと言うのだ。喉に来るのだと。しかし、ビールを飲んだことの無いAKIRAにとってはチンプンカンプンである。
「何が喉に来るんだ?」
「刺激かな」
「うーん……よく分からん」
「それよりもお前に借りた本を返そうと思う」
彼はそう言いながら鞄の中から分厚い本を取り出していた。まさしくそれはAKIRAが貸した本であり、無事にそれが戻ってきたという訳だ。しかも後半の箇所に栞が挟まっていて明らかに読んだ形跡がある。正直言うと、本当に読んでくれたのかと心配になっていたのだが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。
「ちゃんと読んでくれたようだな」
「当たり前だろう。このスランプを脱するためにはどんな事だってやるさ」
それだけの覚悟があるらしい。確かに野球選手は結果が全てであり、残した成績にこそ意味がある。その成績によって給料や与えられるポジションが全く違うのだから必死になって当たり前だ。むしろそれぐらいの向上心が無ければ、とてもじゃないがプロ野球という激しい競争社会では生き残れない。
「それで、感想は?」
AKIRAがそう問いかけると、山室はニヤリとした表情を浮かべていた。明らかに何かスランプ脱出の糸口を掴んだ様子である。




