115 スランプ脱出の近道とは
山室は社会人野球を経験した後、育成選手として入団した。本来ならば2軍選手としてのスタートを余儀なくされ、球団側もそこまでの期待をしていなかった。ところが、彼は守備と走塁面で見る見る内に成長していき、今では守備範囲だけならば両リーグでトップだと言われるぐらいの実力を持っている。だが、彼は圧倒的に打撃成績が悪く。AKIRAに打撃のコツを教わるまで、一本もヒットを打たなかった男だ。もしも彼がAKIRAという最高のコーチに出会わなければ、そのままヒットを一本を打たずに引退していたという危険性もあった。それはそれでマスコミの的になって仕事が増える要因になるかもしれないが、プロ野球選手としては恥ずべき事態である。
そして打撃のコツを知った山室は見る見る内にその才能を開花させた。ホームランこそ出ないものの、規定打席未到達で200本安打という伝説を作り上げた。いくら内野安打の出やすい左打者とは言え、その打法は神がかっていた。
ところが、今シーズンに限っては山室の打撃は落ち込みを見せている。あろうことかあれだけ打ってはいけないと釘を刺していたホームランを放ってしまい、案の定スランプにハマっている状態だ。ホームランの魅力は計り知れない物であり、もう一度あれを打ちたいと思うばかりに成績を落としてしまう可能性が高い。特に山室のような高打率単打ヒッターはホームランの魅了に取りつかれやすい。しかも一度体に染み込んでしまえば、このスランプから抜け出すのは至難の業だ。いくら脳が「単打を狙え」と命令しても、体はホームランを打つ体勢になってしまっている。それによりズレが生じてしまい、結果的にスライダーをひっかけて凡打にしたり、甘い球を打ち損じたりと言いことが全くない。なので単打狙いのバッティングをするのはいっこうに構わないとしても、軽々しくホームラン狙いをするものではない。例え結果的にホームランを打ったとしても、その後待っているのはスランプ地獄だ。
現に、これを理由に人知れず引退して選手は何人もいる。過去の栄光に囚われてしまい、現実がまるで見えていないのだ。昔の自分と今の自分が違うのは当たり前であり、進化しているか退化しているか見極めなければならない。それがプロという物だ。しかし、野球選手と言えど人間だからか、いつまで栄光にしがみつく者は大勢いる。ベテランの中には、自分はまだやれると思い込み、コーチの誘いを蹴って独立リーグ行きを決定する選手も多数見受けられる。その大半はたんなる思い込みであるとは言うまでもない。結局は独立リーグですら満足な結果を残せずに引退していくのだ。
このように旬を過ぎたベテランがいつまでも過去の自分に囚われるのは良くない。潔く一戦から退いて、未来ある子供達の育成に当たって欲しいものだ。無論、これは40歳が近いベテラン選手に限った話しだ。山室のようにまだ若い選手は当たって砕けろのつもりでガンガン挑戦するべきだ。それこそ若い人間には無限の可能性があるから、今の内に好きな分野だろうが苦手な分野だろうが関係なく体験しておいた方がいい。
おでん屋の主人は、さっきからそういった目つきで二人の事を見ていた。口にこそ出さないが雰囲気でそう分かる。若い選手なんだからいくらでもチャンスはあるし、スランプ脱出の可能性は高いのだと。
「何故打てなくなったのか、理由は分かるのか?」
AKIRAは味の染み込んだこんにゃくを口にしながら、そう尋ねていた。歯ごたえが抜群に上手く、それでいて味が隅まで浸透している。そして心と体までもがあったまる極上の一品だ。まさかこんにゃく一つで幸せを感じられるなんてと、AKIRA自身も驚きを隠せない。このように、50円ぽっちで幸せが買えるのだから人生は楽しい。しかし、隣の男は人生をこれぽっちも楽しめていないようで、折角のおでんにも箸をつけず、ひたすら溜め息を吐いているではないか。これでは屋台の主人にも悪いことをしてしまっているのと同じだ。
「それが……分からないんだ。何をやってもヒットが打てない」
「そりゃ打てないだろう。どんなスランプにも理由が存在し、その理由を知らなければ解決策も見いだせない。当たり前の事だ」
完全無欠の超人と呼ばれるAKIRAでさえも、スランプには毎度の事ながら悩まされる。今でこそ左程感じていないが、きっとこの先は必ず不調の波が訪れるだろうと予期していた。なぜならば、彼も人間であり人の心を持っている。心とは繊細なもので、ほんのした瞬間にバランスを崩してしまう。この崩れたバランスこそAKIRAにとって不調を意味しているのだから。
「どうやって理由を見つければいいんだ。教えてくれよ」
「自問自答では限界がある。だから本を読んで知識を深めるんだ。先人達は必ず似たようなスランプに陥っていて、その解決策を見出している筈だからな」
スランプ脱出の最大の近道は知識を蓄える事と言っても良い。以外にも悩んでいるのは自分だけではないと分かるし、解決策も自然と見つかってくる。
「それで具体的にどんな本を読めばいいんだ?」
山室はまだ信じ切っていない表情を浮かべていた。
「心に関するエッセイだ。例えば元気になるための本とか」
「なんだそりゃ。俺は鬱病じゃないぞ」
「いいから、嘘だと思って読んでみろ」
すると、AKIRAはカバンの中から一冊の本を取り出した。それはメンタル力を上げるための本であり、いかにも意識力の高いプロ野球選手が読んでいそうな本だった。別に自分自身を卑下している訳ではないが、他の選手よりも考える時間が長いというのは分かりきっている。それが弱点であり、同時に最大の長所であることも理解していた。
「難しそうな本じゃないか。しかも分厚いな、おい」
そこらの書店に売っている代物ではない事は容易に分かる。
「心とは何か。その本に詳しく書かれているから一週間以内に読んでくれ。それと、感想を忘れないようにな」
「なんじゃそりゃ。この歳で宿題かよ!」
山室はそう突っ込みをいれながらも、自分のカバンの中にそのメンタル本をしまいこむのだった。




