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サンタクロースがやってくる

作者: 岩槻大介

 味噌ラーメン、とわたしは言った。そして予想していた通り店員がはぁい味噌一丁、という言葉の前後で一瞬にして作った集中力の塊を全て視力に費やす勢いでわたしのおっぱいを見たから、いや別にだからって訳じゃないんだろうけどとにかくそれを合図にわたしの両目がとうとう満水になって溢れ出してしまった。泣いたほうが負けなんだ、という単純な勝敗決定を知らず知らず貫くようになってからわたしにとって涙はババヌキのジョーカーでありボウリングのガーターであり日曜日にスーパーマーケットのトイレで出くわした担任の先生であり要するに惨めで恥ずかしい敗北のシンボルとなっていたのでわたしは慌てて下を向いて目を閉じた。幸運なことに注文を取りに来た店員が立ち去った直後だったので誰にも見られずに済んで下を向いたままわたしは確か近くのテーブル席には家族連れとカップルがいたなと思い出して、こんなことになるんだったらどうしてカウンターに座らなかったんだろうと後悔したけどそれよりもまずこの涙を止めることの方が先決だと思ってポケットティッシュで目の端と鼻の穴を同時に押さえて歯を食い縛ったり息を止めて目を思い切り閉じてみたりしたけど何だか目が絞った雑巾みたいになって、どんどん溢れ出してくる涙がティッシュに滲んでもうどうにも止まらなくなって情けなくなってこうなったら思いつく限りの楽しい事を考えようと頭の中にお姉ちゃんを登場させた。でもそのラーメン屋さんはとにかく賑やか過ぎて家族連れの笑い声や中華鍋をオタマが引っ掻く音や野菜か何かが油の上に落とされてジューッとかジャジャジャーッとか、それよりうるさいのがカウンターの隅に置かれたラジオの野球中継で、打ったぁ打球はグングン伸びてウチュウカンに飛んでいるぅと叫ぶアナウンサーの声に広い宇宙をランランランと飛び回りながら勝ち誇ったような薄笑いを浮かべてこっちを見ているお姉ちゃんの顔が見えたような気がしたので余計に涙が溢れた。涙を止める音に包まれたい、と思った。きっとある筈だ、どんな涙もピタッと止める音、涙を流すのはわたしじゃない、お姉ちゃんだ、宇宙を飛んでいるお姉ちゃんの方だ、それに東京のこんな所でこんな夜中に十六歳の女の子が四人掛けのテーブルに一人で座って泣いていたら誰だっておかしいと思うに決まっている、何か事情があるんだろうなんて下卑た哀れみを抱くに決まっている、わたしは別におかしい訳ではないし、事情があるとしたらそれはやっぱりお姉ちゃんから始まっている訳で、生まれた時から聞いている飛行機の音や、北海道という諦めることが得意な土地柄や、雪や、畑や、両親や先生や制服や体育館や生理用ナプキンまでぜーんぶが始まりな訳で、でもそれは純粋な始まりじゃなくて終わりの始まりだった訳でわたしの場合何だかいつも全てが終わり始めていてそれらが完璧な終わりになるのを待っているような気がして執行猶予って言うか、そうそう、わたしっていつも執行猶予を言い渡されて生きてきたみたいだった。いつからだろう、北海道の、空港しかないような街に生まれて、お姉ちゃんが無理して笑うことを覚えて、わたしは勉強してクラスで一番になって、お姉ちゃんは無理して笑いながら学年で一番になっておまけにマラソン大会も一番で、一生懸命走ってわたしも一番になってそれ以上に一生懸命勉強してお姉ちゃんが無理して笑いながら入った高校にわたしも受かって、最初の学力テストの結果が廊下に貼り出されてわたしは学年で一番だったけど三年生で一番はお姉ちゃんだったので、お母さんが言うにはわたしたち姉妹は申し分のない子供で、だけどわたしは無理して笑うことを覚えないからお姉ちゃんの方がいい大人になるらしくてだからわたしは雪が溶けなくてもいいから花も咲かなくていいからお姉ちゃんなんか死んじゃえばいいって本気で思ってそれからはもう完全な執行猶予生活で、涙なんか見せたら一生敗北の妹という烙印が押されちゃうような気がして、そんなわたしが報われるためにはお姉ちゃんのできないことを探すしかなかったので来る日も来る日も自転車で空港近くまで行ってフェンス越しに飛行機を見ながら考えていたらある日後ろからわたしの名前を呼ぶ声が聞こえて振り返ったら曇り空の下に牛乳屋のおじさんが立っていた。うんと小さい頃によくお母さんと牛乳を買いに行くと決まってわたしは四角いボックスの中のパイン牛乳が飲みたくなって、だけどそのボックスの前の硝子は開かないからお母さんにねだってガラス越しに指を差すとおじさんがニコニコしながら後ろの扉を開けて取ってくれて、あ、そうそう、こんにちはという言葉を初めて使った相手が牛乳屋のおじさんで、でもその頃にはもうお姉ちゃんは無理して笑うことを覚えていてそれとこんにちはをミックスして使ったので近所の大人たちもやっぱりお姉ちゃんの方がいい大人になると言って頭を撫でたりしたけど牛乳屋のおじさんはわたしの頭も撫でてくれて、わたしはきっと死ぬまでパイン牛乳より美味しい飲み物には出会えないだろうと真剣に思っていたらおじさんは少しずつ少しずついなくなって、それは本当に少しずつってカンジでわたしが中学生になった頃にはおじさんよりも髪の毛の長い人がいらっしゃいませと言うようになって、わたしはその人にパイン牛乳を取ってもらったことは一度もなかった。曇り空の下でおじさんはわたしの顔とおっぱいを見てニコニコしながらすっかり大きくなっちゃって、と言ってその顔は今にもパイン牛乳を取ってくれそうな顔だったからわたしは嬉しくなってその後は飛行機の音がしてよく聞こえなかったけど、おじさんは東京でテレビの仕事をしているからもう牛乳は売っていないらしくてそれ以外は全部うんうんと頷いていたらお姉ちゃんは元気かい、と言ったのでわたしはフェンスの脇に停めた自転車の鍵を抜いておっぱいを思い切り前に突き出しながら元気ですよと言ったらおじさんはさっきよりもニコニコしてわたしを空港の中に連れて行き、飛行機の中でわたしは自転車の鍵をポケットにしまった。お父さんもお母さんも一緒じゃない東京なんてわたしは初めてで何だか地理で習った熱帯気候の国とツンドラ気候の国をそれぞれ十四個位飛び越えて辿り着いた場所みたいに感じて緊張したけど、お姉ちゃんは去年の秋に修学旅行で来ているのでちょっとだけ悔しかった。光が丘という素敵な名前の街にあるマンションに着くなりおじさんはさぁさぁテレビに出る有名なタレントになろうなぁとわたしに大きなカメラを向けてはい笑ってぇはいこっち向いてぇはいテレビだよぉはい今度は着替えるから脱いでぇなどと言いながら写真を撮り続けて、わたしはテレビに出たことのないお姉ちゃんに対する優越感に包まれたままおっぱいを出して、夕方になると届いた荒挽きソーセージのピザを食べながらおじさんはわたしのおっぱいを触ってつるんつるんでぱゆぱゆだね十六歳でこのふくらみは凄いよなかなかいないよこりゃ有名になるよほらここにこうして白い地割れ線がたくさん出ているのは急激に成長した証しだよがんばったねよしよし、と乳首のまわりを犬の頭みたいに撫でたのでわたしはもうどうしようもなくパイン牛乳が飲みたくなったけどその時奥の部屋からパジャマ姿の女の人が出てきておじさんは口の周りにピザソースを付けたまま台所の隅に女の人を連れて行って頭を三回叩いて四回目は茶箪笥の陰で叩いたので音だけしか聞こえなかった。その人は牛乳屋のおばさんよりずっと若くてずっと痩せていて何も喋らずいつもパジャマを着ており、突然現れたわたしに知らん顔で毎日ピザを頼んでお茶漬けを作って茶箪笥の陰でおじさんに叩かれていた。この人は知らん顔をしているんじゃない、本当に何も知らないんだ、と思った。何も知らないから喋らないんだ、三平方の定理もブラジルの首都もおそらく日本の首都さえも知らないんだ、そうに決まっている。台所の床にはその人の黒くて長い髪の毛がたくさん落ちていて、おじさんが玄関のドアを開けるたびに入ってきた冷たい風に乗っていつもその塊がふわっと舞い上がった。しばらくしておじさんが雑誌を買ってきてそれはサッカー部員たちが部室で廻し読みするような雑誌でその中の女子高生スペシャルというカラーページにわたしの顔とわたしのおっぱいが載っていたけどその隣でスカートを捲り上げている女の子の方がずっと可愛かった。でもわたしはとにかく本屋に登場した訳でそれは勿論お姉ちゃんには経験のないことだから嬉しくなって思わずウフフと笑ったらおじさんがそれだよその笑顔だよ君はおっぱいだけでも有名になれるけどそうやって笑ってくれたらもっと有名になれるよ、と言った。そして機嫌が良くなったおじさんはまたわたしのシャツを脱がせて写真を何枚も撮った後、シャワーを浴びている時に入って来てあそこに指をいれようとしたから足をきつく閉じてイヤと言ったらおじさんは頭をグーで叩いたのでわたしはびしょ濡れのままワンピースだけを被ってマンションを飛び出した。わたしは泣かなかった。余裕の勝負だぜ、なんて男の子みたいなことを呟きながら歩いていたら泣き方の代わりに寒さを思い出した。よりによって季節は相変わらず背中で変化していた。気が付いたらわたしはサンタクロースイズカムイントゥタウンという歌があちこちから響いてくる街を歩いていて、星が綺麗だったからちょっとだけ北海道を思い出して三越のライオンの背中によじ登って座っていたらなんとなくトナカイに乗っているような気分になって思わずサンタクロースイズカーミーントゥターンと唄っちゃって、そしたら前を通りかかった髪の毛が黄緑色の男の人がわたしをライオンから降ろしてビルの地下にあるレストランに連れて行きエビドリアを食べさせてくれた。ドリアは大して美味しくはなかったけどその人のアパートについて行ったらわたしの好きな本がいっぱいあったので嬉しくなってスタンダールと大江健三郎を読んでいたらいつの間にか寝ちゃって、お姉ちゃんのベッドのスプリングにバジリコスパゲティを巻き付けている夢を見ながら目を覚ますと黄緑頭の人がわたしのおっぱいを両手で掴んでいた。その人は偏差値がもの凄く高い大学に通っていて何でも知っていてシンナーと接着剤と除光液と注射器が大好きでおまけに吐く息がものすごく臭かった。そして夕方になるとテレビもラジオも点いていない静かな部屋で自分の手の甲に注射針を刺した。そんなところに注射して痛くないのか聞いてみようとしたが、その時誰かがドアをノックする音が聞こえてそれは普通では考えられないほどの大きな音で叩くもんだからわたしは怖くなって、でも黄緑頭の人はわたし以上に怖がって泣きそうになっていたので聞けなかった。注射が終わると黄緑頭は大きなバッグを持ってどこかへ出かけ、明け方に帰ってくると着替えもせずに水色の丸い薬を唾だけで飲み込んで寝てしまった。それがこの人の暮らし方のようだった。薬を飲んで寝た時の黄緑頭は揺らしても叩いても絶対に起きないのでわたしは不安になって何度も口に耳を近づけて息をしていることを確認し、それが臭いことを再確認した。そう言えばこの部屋には歯ブラシがない。わたしは元牛乳屋のおじさんから貰ったお小遣いの余りで歯磨きセットをローソンで買ってきて、寝ている黄緑頭の歯を一本一本丁寧に磨いてあげた。それでも一向に起きなくて、泡だらけの口の中をどうやってすすがせようか考えていたらまた今日も大きなノックの音がアパートを揺らし始めたのでわたしは怖くなって慌てて黄緑頭の口の中に自分の口を突っ込み泡をチューチュー吸い込んだらノックの音の隙間に人の声が聞こえてそれは要するに貸した金を返せという内容だった。うるさくする割には何か子供みたいなことを言っているなぁと思ったら不思議と怖さが薄らいだので、とりあえずわたしは泡がなくなった黄緑頭の歯と歯茎を舌で綺麗に舐めてあげた。ゆっくりと、落ちついて、丹念に舐めてあげた。臭くなくなれ。きれいになあれ。結局黄緑頭は歯を磨いてあげても金返せノックが始まっても終わっても全く起きることはなく、そのうちにわたしも寝てしまい昼過ぎに目が覚めて隣を見た時も黄緑頭はまだ死んだように眠っていた。わたしはおこぼれで届いているような陽の光の中でその寝顔をしばらく眺めた。唇の端っこにほんのちょっとだけ歯磨き粉の跡が残っている。舐めてあげようと舌を近付けたら息がとってもいい匂いになっていたのでわたしは驚いた。それは明らかにわたしがいい匂いにしてあげた訳でそう思ったらだんだん嬉しくなって、信じられないことにその嬉しさは収集つかなくなった。ずっとこの人の歯を磨きたいと思った。この人の吐く息になりたいと思った。ずっと、近くにいたい、と思った。そしてわたしはその方法を一生懸命考えて、とりあえず靴を履き駅前の本屋で自分が載っている雑誌を見つけると最後のページを引きちぎりそこに書いてある編集部ってトコに次もわたしを載せて下さいと言いに行った。何をやってもどんな事になっても結局最後にはサンタクロースがタウンにカムインして全てを解決してくれる、と思ったらわたしは何も怖くなかった。次の日わたしは三人の男の人にスタジオへ連れて行かれた。熱いから触っちゃダメだよと言うライトでわたしのからだを照らしながら、三人はおじさんよりもうんと大きなカメラでおっぱいの写真を撮った。撮影が終わるとそのうちの一人が一万円札をくれたので帰りに駅の公衆電話から家に電話を掛けてお姉ちゃんにへへーんだと言おうとしたら北海道じゅうが大騒ぎになっていてお昼のワイドショーにお母さんとお姉ちゃんが出たらしくてそれはつまりお姉ちゃんはわたしよりも先にテレビに出たって訳でわたしは悔しくて哀しくて泣きそうになったけど我慢した。アパートに帰ると黄緑頭が手の甲に注射器を刺してピクピクしたまま死にたいよぅと言っていたのでわたしは注射器を引っこ抜いて窓から投げ捨ててやった。そして何すんだよと取りに行こうとしたその頭を寺山修司全詩歌句という電話帳みたいな本で思い切り叩いてシンナーも接着剤も除光液もぜーんぶ窓から投げ捨てるとトレーナーを脱いでTシャツを脱いでおっぱいを黄緑頭の顔面に押し付けて少なくともわたしは一万円稼げるからそれに今度は外で写真を撮ることになって外だとスタジオ撮影の倍のお金が貰えるからあともっと偉い人に会えばDVDや写真集も出せるみたいだからわたしが何とかするからこのおっぱいで何とかするから死にたいなんて言わないでよ、と言ったら黄緑頭は一万円札を鷲摑みしてDVDも写真集もいらないからこれで一緒に逃げよう、と号泣しながら言ってわたしのからだぜんぶを抱きしめたけどわたしは泣いたりしなかった。笑い方だけじゃなく泣き方も忘れたわたしは黄緑頭の両目から溢れ出る液体を歯磨き粉の泡の時みたいにチューチューと音立てて吸った。あぁ今だったら誰のことも好きになれる、と思った。誰にでも優しくできる、と思った。黄緑頭のあそこをあたしのあそこにいれてもいいと思った。さっき捨てた注射器を黄緑頭に刺してあげてもいいと思った。どんなことになってもどんな汁が出ちゃっても入っちゃっても結局最後にはサンタクロースがタウンにカムインして全てを解決してくれるんだ、そう思いながらわたしはじゃあ明日の夕方二人で北海道に逃げよう、と言った。すると黄緑頭はさらに号泣してめくらめっぽうに床を叩きながらおっぱいに顔をうずめて再びわたしのからだぜんぶを抱きしめた。息が、全然臭くなくなっていた。大丈夫。わたしがずっと、磨いてあげるから。お姉ちゃんともお母さんとも家とも学校とも無関係な遠く離れた場所で人と信じ合えるなんて信じられない出来事だった。このままテレビ局に走って行き、ニュースを読んでいるキャスターの横で国民に向かってVサインをしたい心境だった。次の日わたしは偉い人に会いに行って契約書にデタラメを書いたらとりあえずDVDを作ることになってこれで勉強しなさい、とアイドルのDVD3本と十万円の入った茶封筒を渡された。ピョンピョン飛び跳ねたい気持ちを抑えながらタクシーに乗ってサンタクロースがやってくる街の駅前で飛び降りてデパートの中の時計を見たら待ち合わせの時間にギリギリ間に合っていたのでわたしは思わずせーふ、と両手を横に伸ばしたら茶封筒を持った左手が知らないおじさんの分厚いコートに当たっちゃったので慌ててあごめんなさいと頭を下げた。それから横断歩道を渡ってロータリーの真ん中にある階段の壁に寄りかかり黄緑頭を待った。いろんな服を着たいろんな人がわたしの前を通り過ぎた。みんな最後にやってくるサンタクロースを待っているような顔をしていた。そのうちわたしの隣に黒いケースを持ったお兄さんが来て、それが何だかプレゼントを持ったサンタクロースに見えてワクワクしていたらその人はケースからギターを取り出して何やら唄い始めた。ギターの音は空港のフェンスに靴の踵をこすりつける音にそっくりだった。あの時は買ってもらったばかりの黄色い靴で犬のウンチを踏んじゃって、フェンスにこすりつけても取れなくて悲しかったけど本当はお姉ちゃんとお揃いの色だったってことの方が悲しかった。そしてあぁいつの間にか北海道って帰る場所から逃げる場所になっちゃったんだなーと考えていたら1時間経って、ポケットから自転車の鍵を取り出してきっと雪に埋まっちゃってるだろうなーと考えていたら2時間経って、唄を聞いて拍手をしたらおなかが鳴ってふと駅の方を見たら何だか無性に自分の声が聞きたくなって、とりあえず視界にある一番大きな文字を読んでみた。イケ・ブクロ・エキ。まだわたし、声が出るよ、ちゃんと地面の上に立ってるよ、それに、あれ、笑えるよ、わたしだって無理して笑えるよ、笑い方もほんとはいっぱい知ってる、ほらね、でも泣き方は忘れたままだよ、思い出したい気もするけどそしたらわたし誰に負けたことになるのかな。勝者がいない涙なんて、おかしいね、ひとりぼっちで負けるなんて、おかしいね、何だか苦しいよ、ひとりぼっちだから、言葉が全部喉につかえちゃうよ、おまけに涙も喉につかえてるみたいで、苦しいよ。そしてネオンが消えてシャッターが下りてギターのお兄さんもいなくなってもう周りに誰もいなくなって横断歩道の向こうにお巡りさんが見えたからわたしは反対側に渡ってアーケードを横切ったらポリバケツの上で猫がカン高い声で鳴いてそれはなぜだかサンタクロースイズカーミーントゥターンと言ってるような気がして、わたしも猫に合わせグーグー鳴るおなかの音を伴奏代わりに唄いながら十万円持って角にあるラーメン屋さんに入った。もう誰もやって来ないんだ、とわたしは思った。そして黄緑頭とサンタクロースの代わりにお待ちどうさまと言ってやってきたのは、味噌ラーメンだった。わたしはきつく目を閉じたままだったけど、その時何かが聞こえたような気がした。涙でグショグショになったティッシュペーパーの向こうにおじいちゃんとおばあちゃんの顔が見えた。子供の頃よく泊まった広いおうち、寝る時はいつもおじいちゃんとおばあちゃんに挟まれて寝た、翌朝夢を見ていると二人の話し声で目が覚めた、わたしを挟んで天井を眺めたまま、わたしの知らない昔の事を話していた、その声は蕩けるような囁き合いで、人の声ではなく何かの音のように聞こえた、わたしは気持ちが良くて目を開けるのが怖かった、あれだ、あの声が涙を止める音だったんだ、わたし本当はいつも泣いてばかりいたんだ、その度にあの音が鼓膜よりもずっと遠くにある入口からわたしのからだの中に入り、涙を粉々に分解してどこか別の場所に押し込んでいたんだ、もしかするとその場所がおっぱいだったのかも知れない、この二つのおっぱいは、ぎゅうぎゅう詰めの涙でふくらんでいるのかも知れない、わたしは勇気を出して目を開けた。味噌ラーメンの湯気が行き場を失った涙を包んで視界の端っこをキラキラさせている。美味しそうだな、と思った。そして割り箸で掬い上げたら麺がまるごと固まっていてそれがポチャンと丼の中に落ちて、跳ねたスープがわたしの顔面を直撃したのでもうおかしくておかしくて、丼の中にそんなわたしの笑顔が映って、涙がブレンドされた味噌ラーメンのスープは不思議とパイン牛乳の味がした。



                                       《完》






              ――Daisuke Iwatsuki 2013――

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[良い点] 混沌とした中に揺ぎなく流れ続ける大河のような話でした。最後に最初とつながったのがよかった。 [気になる点] 段落がないのでスクロールするとどこまで読んだのかわからなくなりやすかった。 [一…
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