3、秋は色付く果実の誘惑(三)
問題になるのは、藤白家が余りに名門過ぎると言う事だ。そこにあるのは覇権であり、名声であり、どろどろに相食む骨肉だ。
門真は、門真が本名なのだと教えてくれた。
彼は正式には藤白の籍には入っておらず、ただ統轄の実子として役職に就くため藤白の姓を名乗っていると。
「じゃあ、藤白兄は?」
「あっちは、統轄の奥サンの子」
だから藤白洸成が正式な名前だと、煙を吐きながら門真は言った。相変わらずの喫煙室で、すぐ隣に屈んだ顔を眺める。
引っ掛かる言い方だ。更に浮かんだ私の疑問を、彼は無言の内に察して答えた。
「こっちの母親は、生まれてすぐに子供を父親に売りつけるような女だよ」
それ以上は聞けなかった。
……でも、少しだけ触れた気がする。気遣われると言う事を理解せず、向けられる好意を認めない。自分さえ信じない門真の心に。
藤白の血に取って、それらは全て裏に利害が隠れるものだ。母親でさえ、彼の価値をそんなふうにしか見なかった。
欲に溺れて、人は狂う。
叩き込まれる様にして、幼い頃から門真はそれを知っていた。
ずっとひとりで耐えた孤独は、精神的にどれ程の苦痛を強いただろう。身内からも、疎まれて彼は。
それは真綿で絞める様に心を蝕み、呼吸する意味さえ解らない暗い場所。
そんな時、この喫煙室で自分よりも疲れ果てた女に出会った。
そいつは意味の解らない事を口走る上、門真の事を知らないからか遠慮がない。つまりそれは私の事だが、誰かに対して面白いと思ったのは初めてだったと、最近になってポツリと聞いた。
藤白洸成の件から、何週間かが過ぎていた。私たちは結局のところ相変わらずで、休憩時間には閑散とした資料室の片隅でぷかぷかと煙を吐いている。
「すずサン、もうちょっと気ィ使ってよ。本部長だよ、俺」
「やだ、解ってないの? ほどばしってるでしょ、気遣いの嵐が」
これが最近の持ちネタだ。
実のところ、一般事務職と本部長では接点なんかほとんどない。実は凄く偉い人でした。そう言われても、実感も湧かず緊張が続かなかったのだ。
だから門真は油断して、私は浮かれる様にほっとしていた。
覚えているのは、会社からの帰り道。
すっかり暗くなった道路を、ポツポツと照らす街灯を頼りに歩いていた。足音はしなかった。少なくとも私は、気付かなかった。
夜道には、私だけだ。人がいないなら、まあいいだろう。そんなつもりで足を止めると、銀のライターを持ちながらタバコをくわえようとした。
――が、できなかった。
人の手がタバコと顔の間にするりと入って、私の口を塞いだからだ。誰が。塞ぐ手を引っ掻きながらもがいても、びくともしない。せめて背後を確かめたいが、身をよじる事もままならなかった。
そうする内に別の手が伸び、強引に服の上から針を刺した。ギクリと、反射的に体が強張る。注射器だ。針の先から押し出される薬液が、腕を内側から圧迫して行く。何を注射されたのか、目眩の様に視界が揺らいだ。
その間、そいつらはひと言も言葉を発しなかった。必要がなかったのだ。きっと全て予想通り、予定通り。
女とは言え、大人相手にこの手際はただ事じゃない。手馴れていると言っていいだろう。
こんな事をこんな奴らにさせるには、ある程度の条件がある。ずばり、金と権力。
私に、心当たりはひとりだけ。目が覚めたら、藤白洸成と再会する事になりそうだ。そんなふうに思いながら、朦朧と薄れる意識を手放した。
*
「誰?」
これは目覚めて最初、口を突いて出た言葉だ。
兄じゃないじゃん。
スプリングの弾力を背中で感じ、寝転がった状態で首をひねった。
まず眼に入ったのは、こちらを見下ろす人影だ。それは女で、高そうな服を身に着けている。どうやら好意的と言い難い顔は、全く覚えのないものだ。
ホテルの一室らしい。それも安くはなさそうで、サイドテーブルや傍の椅子は飴色の木目が美しかった。窓を隠すカーテンは二重で、レースの内側に上等そうな厚い生地が垂れている。そのために外の様子は解らないが、どうやら空は暗い様だ。
長い巻き髪を揺らしながら女が離れ、手近の椅子に腰掛ける。それを追う様に起き上がろうとして、自分の状態にやっと気付いた。
体の前で、両手を拘束されている。冷たい手錠、ではないが、それに近い。これは一度締めたら切らなきゃ取れない、プラスチックの結束コードではないだろうか。
「ええー……」
「貴方の、どこが好いのかしら」
解らないわ。解りたいとも思わないけど。
どうやら、会話するつもりはないらしい。彼女はひとり言をこちらに押し付け、ベッドに座った私を不快げに見る。ラインストーンの輝く長い爪が、組んだ腕を苛々と叩いた。
洸成の件から、一ヶ月も経ってない。この短期間で、二度目の拉致とは。この国はどうなってしまったのか。
呆れ半分、なげやり半分。短く息を吐く。
室内の明かりは、ベッドサイドのランプだけだ。シェードを通った橙の光があたたかに、しかしほの暗く周囲を照らしている。
驚く程の広さはないが、それはここがベッドルームだかららしい。大きなドアの向こうに、続き部屋がある様だ。
……人生初スイートが、拉致監禁。思わず、どす黒い自嘲が浮かぶ。
リビングに続くドアの脇に、黒っぽいスーツで揃えた男たちの姿。肩幅に足を開き、両手は体の前で軽く重ね合わせている。何かあれば、素早く対応できる様に。
私を警戒し、彼らを置いている可能性もある。だがこの場合は、彼女も護衛を身近に置く立場の人間と考えるべきだろう。
眼を、椅子に腰掛けた女に戻す。
きつめのメイクと服装で解り難いが、若そうに見える。二十をやっとひとつ二つ越えたかどうかだ。似ているとは思えないが、あの兄弟だって相当似てない。
拘束された手を、ベッド脇に伸ばす。
「あなたも、藤白の人?」
問いながら、サイドボードに載った薄いファイルを取り上げる。思った通り、洸成の所で見せられた私についての調査書だ。
燃やすつもりだったのに、あの時はファイルを置いて来てしまった。その実物は私がくしゃくしゃにしたが、これは綺麗なままだ。
そう言えば、サーバーにデータが残っていると聞いた気がする。ならこれは、それ元に新しく作った物だろう。
こんな言い方をすると容易に入手できる様に聞こえるが、データにアクセスできる人数は限られるはずだ。「本社」の情報が手に入り、護衛の付く立場は少ないと思う。
質問に女は、不機嫌に答えた。
「だったら、なに?」
「だったら、動機は門真でしょ? 用なら、本人に言って貰えると助かるんだけど」
一応の提案をすると、彼女は驚いた様に、同時に怒った様に眉を上げた。
「はぁっ? 統轄の息子と付き合ってるくせに、無責任ね! 恋人として特権が与えられる分、リスクも覚悟すべきだわ!」
「いや……。別に恋人じゃないし、特権もないんで」
ああ、でも。と、ぼんやり思い出す。
前に拉致された時、洸成も持っていたその誤解を否定する暇がなかった気がする。それにうっかり取り乱し、門真にキスした。人前で。おまけに帰りの車中では、好きだとさえ口を滑らせたなあ……。
思い出せば思い出すだけ、何なんだこの女はと自分で思う。どうしよう。て言うか、この辺りをスルーした門真が信じられない。
穴に埋まりたい気持ちになって、ベッドの上に突っ伏した。その後頭部に、容赦ない声が降る。
「そんな言い訳信じないわよ」
まあ、そうなるよね。
でもこっちは、羞恥心が体の中で暴れ回ってる。シーツにぐりぐり頭をすり付け、無実を訴えた。
「本当なんだよー、信じてよー」
「ちょっと、ねぇ。もっと緊張感持ちなさいよ。馴れ馴れしいわ」
「向いてないと思うんだー、人質」
何しろ、恋人じゃない。もし仮に恋人だとしても、何を引き換えにできるだろう。だって、私だ。大したものにはなりそうにない。
いや、それとも。――と、もうひとつ可能性がある事に気付く。
ベッドで横になったまま、顔を向けて椅子の上にいる女を見上げた。
「門真が好きで、門真が欲しいとか?」
なら、邪魔な女を排除しようとする理屈は、解らなくはない。倫理的に問題がある上、誤解だけど。
私の言葉に、しかし彼女は酷い侮辱を受けたとでも言いたげに喚いた。
「失礼ねっ、いらないわよ!」
「じゃあ、何?」
「本部長を退任してもらうわ!」
何だそんな事かと、拍子抜けした。
いや、秤のもう一方に載るのが私だと考えれば、大き過ぎる代償だ。しかしそれは、一般論としての話。本部長のポストは、門真が望んだ訳ではないと聞いている。
「いけるでしょ。頼んでみた?」
「あんな男に頭を下げるなんて嫌っ!」
ノータイムで首を振り、激しく拒絶した姿に私は笑いたくなる程の感銘を受ける。
何だかこの子、嫌いじゃないなあ。