3、秋は色付く果実の誘惑(二)
意外な事に、そのキスは熱かった。
片手を腰に絡め、もう片方の手でうなじを捕まえられている。スーツの肩や胸を叩いても、大してダメージはない様だ。
唇を柔らかに噛まれた時、ドンと激しい衝撃があった。
門真が、洸成を突き飛ばしたのだ。それと同時に、奪い取る様に私を捕えた。
「流成様、その辺りで」
ピリリと緊張した空気を割って、岸本がするりと間に立つ。続いて双方の護衛たちが体を入れて、藤白兄弟を離れさせた。
門真の腕の中で、ぼんやりと首を傾げる。何が起きているんだろう。そして何故、私がその真ん中にいるんだろう。
洸成は腰でデスクにもたれ、腕を組んで冷笑を浮かべた。噛み付きそうに睨む門真と、対照的だ。
解ったと思った。それを眼にして、瞬く様に。
ああ……この人は、何でもする。門真を傷付けるためなら、何だって。
熱いと思った唇は、きっと憎悪に炙られていた。
洸成の、最初の言葉を思い出す。彼は私を、門真の恋人だと考えていた。最初から、道具に使うつもりだったのだ。
実際、門真は怒っている。洸成の望んだ展開だろう。
しかしそれは、あくまで彼らの話だ。
私は、どうなる?
ここに、私の意志はない。勝手に連れて来られて、勝手に道具にされた。
「門真、門真」
ちょいちょいと手招きして呼ぶと、しかめっ面がこちらを向いた。それを見上げる格好で、すかさずネクタイを強く引っ張る。
下りて来た顔にキスした瞬間、門真は痛い程の力で私を掴んで引き剥がした。二歩、三歩。あとに下がりながら、信じられないものでも見る様にこちらを凝視する。
そのリアクションに多少むっとしつつ、私はくるりと振り返った。そこには、山程の男たち。黒いスーツの中に相模を見付け、にっこりと笑顔を作る。無理めの経費を上司に認めさせる時だけの、特別な笑顔だ。
なのに彼は眼が合うと、ビクリと小さく飛び上がった。素早く胸倉を掴もうとするが、相模は身軽くひょいひょいと逃げる。
身の危険を察知したらしい。
「何で逃げるのよ!」
「や、冗談じゃないッスよ。オレ意外と身持ちカタいんで」
恐らく、彼の予想する通りだ。唇を奪うつもりで追い掛けてる。いいじゃん、別に。男が、キスくらいでガタガタ言うんじゃねえよ。
胸の内で毒を吐き、じりじりと隙を伺う。すっかりわれを失っていたが、感情を抑えるつもりもなかった。
結構いい顔をしてるのに、洸成にキスされても見事に全く嬉しくない。人格に問題があり過ぎる。しかも、門真の恋人と言う前提さえ誤解だ。
こっちは、心がぐしゃっとなりそうなのだ。鬱屈を発散するために、誰かに可能な限りの迷惑を掛けたい。
「落ち着け、すずサン!」
「お願い、離して! 記憶を薄めたいの!」
慌てた門真に羽交い絞めにされ、ぎゃあぎゃあと訴える。それに屈折の深さを感じたらしく、彼らは説得を諦めて強硬手段に出た。
門真と相模は目配せして頷き合い、それぞれ私の頭と足を横抱きに抱える。そして後ろも振り返らず、だっと駆けてその場から逃げ出した。
いいのか、門真。
思いっ切り敵前逃亡してるけど、さっきまで一触即発だったじゃん。
「ほんっとメチャクチャッスね、柴町さん」
走り出した車の中で、助手席から相模が言う。ルームミラー越しに送られる視線は、呆れ果てたと言う感じだ。
確かにそれは否定しないが、こいつに指摘されるのは納得行かない。相模の癖にと、後部座席から言い返す。
「意外と普通の事言うのね」
「フツーですよ、オレは」
「普通の男は、女の子使い捨てにしないの」
してないッスよ。そんな軽い相模の言葉に、車内の空気がざわりと揺れた。隣で門真が、思わずと言うふうに顔を上げる。しかも運転手まで、一瞬助手席に視線を振った。
あんたは上司公認の人でなしだよ、相模。
「オレは、ちゃんとみんなスキでしたよ。スキ過ぎて、殺したくなるくらい」
鏡の中で、彼は薄っぺらにへらりと笑う。
「けっきょくオレらはぜんぜん別の生き物で、寝ても抱いても、どうしても透き間が埋まらない。スキになったらなっただけ、それが許せなくなるんスよ。全部欲しくて殺したくなるから、その前に別れてるだけッス」
相模、それはやっぱり普通じゃない。
少なくとも私は、そんなふうに人を愛した事がない。恋愛って、心が満たされるものだと思ってた。欠ける事も、あるのだろうか。
軽い気持ちで出した話で、意外な本心を見てしまった。これからは、人の恋愛観に口出すのはやめよう。自分に誓うと同時に、ああなるほどと腑に落ちたものがあった。
相模は以前私に、門真の事を早く気付けと忠告した。事実を知って思ったのは、あんな言い方じゃなくて、もっとハッキリ教えといてよ。と言う事だ。
何しろ、人間の情を解さない享楽怪獣相模だ。この繊細な女心を、理解できる訳がない。
でも、違う。逆だ。
相模は知っていたから。秘密が、心と心の距離が、どんなふうに人を傷付けて苦しめるか。知っていたからこそ、あんなほのめかす様な事を口にしたのだ。
ねじれた人間性を持ち合わせた彼にしては、上等過ぎる程の気遣いと言える。
「相模くんは、本部長の警護担当なのね」
今更ながら、思い当たった。門真が藤白の人間で、警務部の社員でないなら。相模が周辺にいる理由は他にない。
重く長いため息が、思わず口から零れていた。沈黙の中に落ちたそれに、門真はふと傷付いた様に瞳を揺らす。
「……ごめん、すずサン」
巻き込んで? それとも、黙っていて?
謝罪の意味は解らなかったが、ため息で責めようとした訳じゃない。単純に疲れた気分だっただけだ。
何を考えているか知りたくて、隣を見詰める。けれども急いで逸らされた顔は、窓の外しか見ようとしない。
だから、今度は本当に責める様な口調を作った。
「そうねえ。拉致されるのなんて初めてだから、緊張しちゃった」
声にすると、しみじみ異常だ。
藤白洸成は――彼の命令と言うのは本社に着いてから知ったが、私を連れ出すために強引な手を使った。屈強そうな自分の部下をこれでもかと送り込んで、私を経理のオフィスから力尽くで引き摺り出したのだ。
あんな事をしたら、話はすぐに本部長まで届いたはずだ。わざとだろう。洸成の目的は、あくまで弟だ。
アスファルトの上で回転するタイヤの音と振動が、少し遠く微かに伝わる。その中で門真は、息を詰めて眉をひそめた。私の態度に、胸が潰れそうだとでも言いたげだ。
余りに期待通りで、小さな声を立てて笑った。
「すずサン?」
「いいわよ、もう」
ちゃんと迎えに来てくれたし、秘密を恐れたのは私も同じだ。
座席のシートに思い切りもたれて、車の天井を見上げる様な格好になる。自分のずるさを白状するのは、ちょっと苦しい。
「私だって、恐かったよ。門真が知らない人になったみたいで、きっともう今までと同じ様にはできないって思った。それが凄く、恐かったの」
動揺しなかったと言えば、嘘になる。秘密を知ってから門真の顔を見る前に、私は飲んだ息を噛み殺した。気付かれたくなくて。これまでと、これからと、何も違いはないと思いたくて。
そして、解ってしまった。
門真、あんたはどんなに孤独だったろう。
真実を明かせばきっと全部変わってしまうと、知っていたのは彼だけだ。
どうしようもない寂しさが、夕暮れみたいに胸の中を染めて行く。薄氷の様に脆く壊れる絆の上で、それと承知で、どんな気持ちで隣にいたの。
「もう、今までとは違うな」
「そうね。とりあえず私、門真じゃなくて藤白って呼んだほうがいい?」
茶化して問うと、門真は恐いくらい真剣な眼で私を射抜く。視線は心まで見通す様で、いっそ本当に見せられたらいいのにと思う。
最初から門真が藤白だと知っていたら、多分こんなふうには言えなかった。きっと身構えて、親しくなんてなれなかった。でもさ、門真。私たちは、もうそんなんじゃないでしょ。
「名前なんか、どうでもいい。名前で好きになったんじゃないから。私が友達だと思ってたのは、顔がよくて面倒くさくて料理が上手な、……あんただよ」
今すぐ気持ちを言わないと、全部消えてしまう気がした。嘘じゃなかった部分まで、消えてしまう。
ただ楽しくて、ただ優しくて、ただ好きだから。
門真を失うのが、嫌なんだよ。