3、秋は色付く果実の誘惑(一)
ああ、この事かあ……。
ぐったりと抱えた頭の中には、相模の顔が浮かんでいた。いつだったか向けられた、憐れむ様な、呆れ果てた様なあの顔。
精神の安定を求めてタバコが欲しくなったが、着慣れた制服のポケットは空だ。秋の気候には支障ないが、ベストを着たきり上着さえない。
何でこんな事に、と思ったところでまた思考が元に戻る。
そうね。さっさと、気付くべきだった。
「あれの恋人? これが?」
これ、と言うのは私の事らしい。
随分な言い回しだが、それに構う余裕はなかった。気を抜いたら、腰砕けになりそうで。
私が連れて来られたのは、立派なビルの、上のほうにあるオフィス。
奥の壁が一面ガラスで、その前に大きなデスクがこちら向きに置いてある。広い室内には応接セットが用意されていたが、上等そうな革張りのソファは素通りした。
大柄な男たちが両側から私を挟み、ドアから真っ直ぐデスクに向かう。そこに座っているのは三十代半ばの、銀フレームの眼鏡が冷たげな印象の男だ。
と、デスクの前に到着した私に、まず浴びせられたのが「あれのこれ」発言だ。机の向こうでゆったりと椅子に腰掛けた男に、さっと近付いて薄いファイルを差し出す人がいる。岸本と呼ばれていた、四十近い秘書の男性だ。
銀フレームの男は、よく見れば端正な顔をしていた。こんなオフィスで、しかも秘書付き。立派な肩書きもあるのだろう。女子として、そう言う男は大好きだ。だけど、ちっとも心がときめかない。彼は何だか、冷た過ぎた。
ぴくりとも動かない眉の下、紙に落とされた眼が不意に私を見た。そして手の中のファイルを、こちらに向ける。
「説明する手間が惜しい」
読め、と言う事だろう。
立ったまま、それを受け取る。ぱらぱらと流し読み、薄いファイルの中程で手が止まる。そこには、私と門真の写真があった。
ファイルの内容は、私についての調査書だ。本籍地、現住所。家族構成に、学歴、職歴、素行に評価。交友関係、過去の交際歴。それが前半。後半は、私と門真についての事だ。
写真が多い。喫煙室に並んで屈んだ私たちの写真は、端に行く程奇妙に湾曲していた。広角レンズの特徴だ。狭い場所でも広い視野を得られるその特殊レンズは、隠しカメラに使用されるらしい。
貼り付けられた写真の下には、簡単な説明と日付の記載。春頃だった。私が門真と出会ったのは。ほとんどその頃から、最近までの写真が揃っている。
しかしとどめを刺したのは窓の外から狙った構図の、私の部屋で門真と二人で食事をしている場面の写真だ。それが眼に入った瞬間、バシンと乱暴にファイルを閉じた。血の気は引くのに、顔が熱い。羞恥で泣きそう。
噂で聞くと、プライバシーは法律で保護されているらしい。なのに、これは何だ。
あれは夏の初め、ずぶ濡れの門真を拾った時の一回だけだ。それが何で、ばっちり撮られてしまっているのか。
何より、この写真が一番恥ずかしい。私のために作られた食事を、一緒に食べた。きっと普通で、何でもない事なんだろう。でも、沁みる様に幸せだった。
誰にも明かしてないその胸の内を、覗き見られた気持ちになる。
奇声を上げて耳を塞いでしゃがみ込むか、思い切り走って逃げたい。そんな心境だった。
「厄介だろう、あれは」
私を追い詰める本人は、こちらとは温度差激しく淡々している。その声に、頭を抱えながらもぐっと踏みとどまった。
彼が「あれ」と呼ぶのは二度目だが、今度は酷くどきりとした。
それは、誰の事を言っている?
「統轄の実子でありながら、疎まれ続けた人間だ。誰も信じず、誰も認めない。柴町。君はどうやって、あれの心に入った?」
「……そんな人は、知りません」
「君が門真と呼ぶ、あの男だ」
デスクの向こうを見る。冷たく光るフレームの奥で、もっと冷たい眼は伏せられていた。視線はデスクの上に落ちていたが、意識はもっと遠い所にある様に思えた。
彼を、藤白洸成と言う。
その名前なら、私も知ってた。藤白グループ統轄の長男で、「本社」専務。その彼が、門真を統轄の実子と言った。それは、彼らが兄弟と言う意味ではないだろうか。
今の話と、この状況をまとめる。現統轄に、子供は二人。ひとりが洸成、もうひとりは流成だ。それはつまりうちの本部長で、そしてどうやら門真の事らしい。
洸成の顔を、改めて見詰めた。確かに、整った顔ではある。門真もだ。だけど、似ているとは思えなかった。タイプが違い過ぎる。
それに、彼が門真について口にする時の声。表情。寒さにひび割れるみたいだった。本当に、兄弟なのだろうかと疑いたくなる。
「柴町様、そちらをお預かり致します」
首を傾げていると、岸本がうやうやしく手の平を見せていた。
私は何も持たずにここへ来た。持っているのは、さっき渡されたファイルだけだ。それは今、無意識に組まれた私の腕でぐしゃりと無残にひしゃげている。
思わず謝りそうになったが、ちょっと待て。これは私の個人情報だ。
「これ、今すぐ燃やしたいんですけど」
まあ、駄目だろうなと思いながら言うが、意外にもあっさり了承される。「サーバーにデータが残っている」と言う落ちだ。
ぐったりと、頭を抱えた。
「私の事なんか調べても、しょうがないですよ」
「そうでもない」
ギシ、と椅子が軋む。洸成はデスクに肘を突き、頬杖の様な形で自分の顎を撫でる。その手の下で、唇が薄く笑んだ。
錯覚かと思う程、うっすらと。けれども私は、この人に笑顔と言う機能が搭載されていた事に驚いた。最近の冷血漢は、ハイスペックらしい。
視界の端で、岸本が頭を下げる。洸成とも、私とも違う。入り口のドアに向けてだ。それで、誰かが訪れたのだと解った。
「すずサン」
私は、ドアに背を向けていた。だからその声は、後ろから聞こえた。ゆっくりと、瞬く様に。目蓋を閉じ、そして開く。その間に飲んだ息を、零さない様に唇を噛んだ。
振り返る前にちらりと見ると、頬杖を突いた洸成がこちらをじっと見上げていた。意外だとでも言いだけに。
背後の男に向き直り、腰に手を当てる。
「助けに来るの、遅いんじゃない?」
どれだけ恐くて、どれだけ緊張したと思ってるの。
開口一番、門真を責める。
てっきり少し困り顔で、謝ってくれると思っていた。門真が悪い訳じゃないけど、秘密があったし、原因はどうやら彼だ。
が、返事はない。門真はスーツに包んだでっかい体で、開いたドアにもたれていた。疲れた様に頭を傾け、細めながらに向けた眼は私ではなく洸成を見る。それが不穏で、空気が痛い。
確かに、門真だ。門真だけど、門真じゃない。こんな男、私は知らない。
部屋の中には私を連れて来た男たちが残っていて、数歩の距離を取りながらドアに体を向けていた。牽制の様に。それは多分、入り口の向こうに黒い人影が幾つも見えるためだろう。そのひとつは、相模だった。
「久しぶりだ」
「顔が見たかったワケでもないでしょう」
洸成の掛けた声に、門真はそんな返事をした。反感を滲ませた顔のまま、視線を兄から私に移す。
「行こう、すずサン」
ピリピリした声に言われて、内容を理解するのに時間が掛かった。手振のない催促に、一拍遅れて足を踏み出す。だが、辿り着けはしなかった。
ドアに向かう私を、大きな手が掴んで止める。すぐ隣に立っていたのは、洸成だ。高級そうなスーツの胸に、引き付けるふうにして肩を抱かれた。
こっちは、パニックだ。腕の中から息を詰めて見上げると、その顔はほほ笑んでいた。ふわりと、楽しげに。
「迎えにまで来るとは」
「うちの社員です」
「それだけか」
洸成は私の手から、潰れたファイルを取って投げた。それは大理石の床を滑り、ドアの傍で革靴の先にトンとぶつかる。
門真は自分の足先に落ちたそれを、拾い上げはしなかった。写真が剥がれ、紙の間から飛び出している。足元を見下ろすだけで、どう言う事なのかを悟った様だ。
「……友人です」
「苦しいな」
「アンタには関係ない!」
かっと荒げた声が、門真の口から飛び出す。まるで知らない男みたいで、嫌だった。
しかし、洸成は笑みを深くする。満足げに、それが望みでもあった様に。
一周回って、あっけに取られた。
「本当に、ご兄弟なんですか」
「相容れない肉親もいる」
「なら、離して下さい。門真が嫌ってる人に、触られたくない」
言って、びくともしない胸を押す。
相手が藤白統轄の息子だとか、本社の専務だとか。気が遠くなるくらい偉い人だって事を、この時の私は綺麗さっぱり忘れていた。
それに多分、恐い人だって事も。
男は観察でもする様に、銀フレームの奥で眼を細めた。そしてきっとペンより重いものは持たない手で、私の前髪を払う。
そのまま指先で頬に触れ、顎をなぞり、ひとつにまとめた髪を乱す様に手の平でうなじを包む。やはり手は、冷たかった。
顔が近付く。
その意味を理解できなくて、私は眼を見開いたまま藤白洸成の唇を受けた。