2、夏は嵐に乱れる心(三)
『すずサン、自炊って知ってる?』
「知ってるよー。あれでしょ、自分の蔵書を電子書籍化する作業でしょ」
門真が私の家から私を送り出し、相模に伝言を託された日の午後だ。携帯を鳴らした自宅からの電話は、まずこんなふうに始まった。
まあ、相手は門真しかいないのだが。冷蔵庫に発泡酒と冷凍食品しか入っていないので、どうなっているのかと言う問い合わせだ。
昼休みを終え、地下の喫煙室から仕事に戻るところだった。資料室のフロアでエレベーターを待ちながら、ごにょごにょと言い訳を探す。どうと言われてもね、しょうがないじゃない。料理ってね、才能だと思うのよ。
それからふと思い出して、相模に頼まれた通り、ついでに彼の伝言を伝えた。出て来ても大丈夫と教えたのに、しかし門真は「あァ、そう」と素っ気なく電話を切った。
やはり、何かがあったのだろうと思う。
この日は朝から社内の空気がぴりぴりしていて、警護課の黒っぽいスーツが慌ただしく走り回っていた。
「どうしたんですかね」
私と同じ制服の瀬尾が、隣のデスクから不安そうな顔を向ける。彼女は入社四年目だが、こんな空気を感じるのは初めてのはずだ。彼女より先輩の私だって、初めてなんだから。
「昨日、本部長が襲われたらしいですよ。未遂で済んだそうですけど」
何事だろうかと瀬尾と頭を寄せ合っていると、のん気な声が物騒な内容で降って来た。慌てて顔を上げる。
「何でそんな事知ってるの、内村くん」
「警務の同期に聞いたんです」
椅子の上から見上げると、内村はスーツに包んだ体を反らす。薄い胸板の上で、社員証が揺れた。
「自慢そうな顔しないの。警務部の内部情報なんか、聞いちゃ駄目でしょ」
先輩として、新人の不心得を叱る。彼はこの春入社したばかりだ。内村はもちろんだが、その同期とやらも軽率過ぎる。
人命を預かる彼らの職務は、情報ひとつが仕事の成否に関わりもする。だから警務部の中には、情報の管理及びリサーチ専門のチームまで設置されている程なのだ。
私たち一般職の社員は、それに触れるべきではない。これは自分が新人だった当時、先輩から教わった不文律だ。内村を見ていると、明確に規則化すべきだと本当に思う。
しかしまあ、彼が仕入れて来たのはえらい話だ。本部長が襲われたとあっては、黒服たちが殺気立つのも無理はない。
ここでは、本部長は社長を指す。本社と呼ぶべきところを、本部と言うからだ。これには少し理由がある。
警備員を常駐させた、支部と呼ばれる施設を都市部に点在させている事がひとつ。それらをまとめるのが、郊外寄りのこの本部。
そしてもうひとつの理由は、わが社が藤白グループに属していると言う事だ。
各分野に数多くの傘下企業を持ち、藤白一族が経営を務めるのが藤白グループ。それら全ての頂点に位置するのが「本社」だ。このグループ傘下にあっては、他を本社と呼ぶ事はない。
慣例として、本社のトップは統轄と呼ばれる。当然ながら、統轄の地位には藤代家の当主が就く。血筋のよさか教育の賜物かは知らないが、名門藤白一族の経営者たちは実際すこぶる優秀だそうだ。
今期の初め、この本部では大幅に人事が改められた。その最たるものが本部長の交代で、前任者は本社の役員となった。代わりにその任を引き継いだのが、藤白統轄の息子だ。
――と、話を聞いた。藤白一族は秘密主義で、名前以外は余り表に出てこない。この本部社員でさえ、本部長の顔を知っているのは秘書と警護担当者くらいのものだろう。
しかしさっきの話を聞いたら、それも必要な処置なのだと納得する。実際に、彼らは襲われる危険があるのだ。
未遂で済んで、本当によかった。これで本部長に怪我でもあったら、うちの会社は役に立たないと潰されていたかも知れない。
「ね、まさか本部長襲撃に失敗して逃亡中とか言わないよね」
お願い、違うって言って。そんな願いを込めて問うと、門真はお玉を片手に怪訝な顔で振り返った。
「違う」
「じゃあ、何でまだ隠れてるの」
もしかすると、もういないのかも知れない。仕事を終えて帰宅しながら、そんなふうに思ったりしてた。なのに部屋に帰ってみると、門真は当然の様な顔で台所に立っている。
うちの両親は共働きで、私は子供の頃から鍵っ子だった。ひとりで暮らすずっと前から、帰る家はいつも無人だ。だから恐る恐る開いたドアの隙間が、クーラーの冷気を漂わせるのが不思議だった。
おまけにぶんぶん回る換気扇の下から「おかえりー」なんてのんびり言われて、思わず玄関で両膝を突く。
私とは違い、相模は事情を知っているはずだ。彼がもう出て来ていいと言ったなら、門真が隠れている理由はない。はず。
なのに、何でまだいるんだろう。
「隠れてない。買い物行ったし」
ことこと煮える鍋から視線を外さず、門真が答える。言われてみればそうだ。冷蔵庫には発泡酒しか入ってない。現在調理中の食材は、門真が買い出しに行ったはずだ。
でも、だとしたら余計にややこしい。
「外歩けるんだから、帰ればいいじゃない。何でこんな所で料理なんかしてるの」
「世話になったから、恩返し?」
……へえー。
その返事を聞くと、急激に考えるのが面倒になった。何かもう、いいんじゃない。本人が望むなら、気が済むまで機織りでもすればいいじゃない。
もはや彼が追われる身ではないと言う状況もあり、おいしそうな匂いの漂う部屋で私は何かを諦めるに至った。
「すずサンさ、結婚するの?」
ん?
バッグを下ろして上着を脱ぎ掛けた背中に、唐突な質問が浴びせられる。ぎこちなく振り返ると、あちらも背中を向けていた。そのでっかい後ろ姿を油断なく睨みながら、めまぐるしく考えを巡らせる。
何でいきなりそんな話を。
三十近い独身女子に、結婚の話題ってタブーなんじゃないの? ねえ。
と言うか、それは私が、ここ数日避け続けて来た話題ではないだろうか。そのために電話だって常に留守電にして、相手を確かめてから取る様にしていた。
そこまで考えて、はっと部屋の電話に眼を移す。伝言ありのライトが点滅していた。
『すず? 母さんだけど、写真届いた? 届いたら届いたで電話しなさいよ、ほんとにもう。お見合いの日取り決まったら、また電話するから。ちゃんとしなさいよ』
母の伝言を聞き終え、私は悄然と頭を垂れて台所に立つ。くすんだシンクに手を置いて、心の底から懇願した。
「忘れて下さい……!」
ガス台はすぐ横だ。その前でTシャツの肩に口を押し付け、門真は声を殺してクツクツと笑った。
見合い写真が届いたのは数日前で、誕生日から三週間と言う時間差があった。それが母らしい。歳の話はもういいかな、そんな油断が生まれる頃合だ。
これが届いてから眠りは浅いし、部屋にいても落ち着かない。もう、本当に大変なんだ。
そんな熱弁を振るいながら、門真の作った料理を食べる。
正直に言うと、おいしかった。女の子の手料理を食べて、結婚に憧れる独身男の気持ちがちょっと解るくらいに。こんな実用的な特技があるとは、びっくりだ。
座卓を挟んで、床に座った。ひとり用のつもりで買ったテーブルは少し小さく、並べられた料理の皿は窮屈そうだ。
向かい合わせに座る門真は、私のどうでもいい話にもよく笑った。合間、長い前髪が鬱陶しいのか、何度も髪を掻き上げた。黒にまぎれる白い髪が眼に付く度、どきりとする。やっぱり、色っぽい。
髪のせいか、門真のせいか。解らないまま、妙に落ち着かない気持ちになる。不快ではなかったが、胸の底で何かが破裂しそうだった。
あとになって思う。私が感じていたのは多分、幸福と呼ぶべきものだった。
馬鹿なつもりはなかった。
だけど私は、馬鹿だった。
夜になり、門真がアパートを去る。それが終わり。翌日からは以前の日常。
うやむやだ。
問い詰める事はできなかったと、やはり今も思う。けれどもせめて、私はもっと考えるべきだった。
どうして門真が負傷したのか。どうして門真は姿を隠そうとしていたのか。
考えるべきだった。
私は彼を知らないと、気付いていたはずなのに。